親の代から購読している朝日新聞に「目が覚める」記事が載った。10月1日付け朝刊である。看過できないので、ここに紹介したい。
「新駅、街づくりの中核に」「被災JR線、移設合意」という見出し。仙石線や石巻線で沿線自治体とJRが内陸移転に合意したという記事。「目が覚めた」のは後段の部分。交通手段見直しを求める声もある――として「8月に開かれた岩手県大船渡線の復興計画策定委員会では、『JR線復旧の必要はない』と委員から廃線を求める声が相次いだ。
大船渡市在住の梅澤直氏から情報と写真をご提供いただきました。下船渡~大船渡に長い間停止していたキハ100系2両。地震当日は盛発一ノ関行き338Dとしてこの区間を走行中だった。築堤の高さは5mぐらいであろうか。津波で床下浸水し、結局廃車に。7月26日、キハ100-38が現場で2つに切断され、28日に運び出された。
バンダイに「Bトレインショーティ」というユニークな鉄道模型があるが、それを思い出してしまった。
JR東日本は3月末にこの大震災で流失した23駅を発表した。鹿折唐桑駅はその23駅に含まれていない。確かに駅舎は残り、ホームもある。駅舎には少なくとも6台の自家用車が突っ込み、待合室はぐちゃぐちゃ、ガラスも割れて粉々だった。片付け清掃だけで元の姿に復元できるだろうか。
陸前高田の一駅気仙沼寄りにあるのが竹駒。陸前高田から2.9km。ほぼ気仙川に沿っている。小さな待合室はかろうじて残っているが、中は瓦礫が入り込んでぐちゃぐちゃだった。今回の地震津波で全壊、半壊した駅の中でも、もっとも海から離れているのではないか。気仙川が広田湾にそそぐ河口からも約3km、津波はこの竹駒駅だけではなく、周辺の家屋を押し流しながら、さらに上流の気仙川橋梁までも押し流した。
陸前高田に向かう車の中で、身構えている自分に気づいた。この東日本大震災でも南三陸町と並んで被害が大きかった陸前高田市。新聞テレビの報道でも、この2つの町の名前を見ない日はなかった。空からの映像・写真を何度も見た。何度見ても胸を突かれる光景だった。そして、平らになってしまった高田の町を目にして、言いようのない喪失感が身体を支配した。
小友から陸前高田方面に向かう。山田線や三陸鉄道南リアス線よりも、大船渡線の被害は大きいように思う。被害がなくてホッとする場所がほとんどないのだ。広田湾を望む「両替」地区でも線路は激しく破壊され、柵のように立ち上がっていた。さらに進むと緩やかな傾斜地にでた。どう表現したらよいのか? 全体が津波でぐちゃぐちゃになり、ここを横断する大船渡線の線路は、線路を目で追えないほど破壊されていた。再開する日が本当に来るのだろうか、とこの日1日で何度も思ってしまった。
三陸鉄道南リアス線(3)で紹介した綾里は、明治三陸津波で津波同士がぶつかるという惨事があり、大量の死者行方不明者を出した。東日本大震災では大船渡線小友駅がある広田半島の付け根で津波同士がぶつかった。大船渡線はこの広田半島の付け根を横断する。現地は水が引いた沼地のようになっていた。築堤はかろうじて判別できるものの、線路が完全に消失しているところもある。
大船渡線には少なくとも1度以上乗ったことがある。にもかかわらずこの細浦駅の存在を知らなかった。細浦の町は大船渡湾の一郭にある小さな浦にある。小さな湾は、太平洋から大船渡湾に侵入した津波が見過ごしてもおかしくない向きに湾入している。
瓦礫の町を進んで駅前に辿り着く。駅舎はなく、作業用のプレハブ小屋が建っていた。ホームに上がると元下り線側に大きな桜の木が目に入る。大きな木が3本、花は散ったばかりだった。大船渡方、陸前高田方にも大きな屋根が流れ着いた。
大船渡には3つの鉄道がある。JRは大船渡線で大船渡駅は町の中心地にあるが、終点は盛駅。この盛で接続しているのが、三陸鉄道南リアス線と岩手開発鉄道だ。南リアス線の盛~吉浜は、昭和59年まで国鉄盛線だった。盛から一つ目の駅が陸前赤崎。駅の標高が12.7mで被害は軽微だったが、1枚目の写真のように、ホームから見える赤崎地区の様子は息をのむ。
……ほかに連絡が取れないのは、宮城県気仙沼市の松岩―最知を走行中だった気仙沼線(2両編成)1本と、岩手県大船渡市の大船渡線(同)の2本。大船渡線の1本は大船渡―下船渡、もう1本は盛駅付近を走行していたとみられる。地震発生直後は連絡が取れたが、その後連絡がつかなくなった。――