大震災と鉄道をテーマに「鉄道地図帳」を編集しようと考えてから半年。茨城県から岩手県まで被災した鉄道を取材し、6月からはこのブログを開始、8月には「東日本大震災の記録」として1冊の「鉄道地図帳」にまとめることができた。それでもこぼれてしまった企画がいくつもあり、中でも「大震災と鉄道員」というテーマの記事ができなかったことは心残りである。
このブログは、三陸鉄道北リアス線島越駅を紹介して以来、南下してきた。実は今回取り上げる鹿島臨海鉄道は、大震災取材として最初に訪れた場所であった。地震の起きた3月11日は、「日本鉄道旅行歴史地図帳」11号の編集を終え、12号九州に取りかかっているところだった。その12号を編集しながら、「東日本大震災の記録」の企画を練り、ようやく取材に出ることができたのは、地震から1ヶ月半が過ぎた4月下旬であった。
地震の取材を始めるにあたって、まず鹿島神宮にお参りに行こうと考えた。それは震災報道が東北に偏りがちなのが気になっていたこと、鹿島臨海鉄道の情報がほとんどないことなどが動機となっているが、まず地震を鎮める神社でもある鹿島神宮をお参りしておきたかった。
常磐線いわき付近の取材は、4月下旬の月曜日だった。郡山在住の知人に運転を頼み、ところどころ段差ができていた磐越自動車道でいわきに向かった。福島臨海鉄道の小名浜駅に着いたのはお昼前。ヤードの海側にある商業施設も津波で激しく壊れていた。隣の小名浜港の岸壁や防波堤に数艘の船が乗り上げたまま。地震津波から1ヶ月半以上が経過し、片付けが進んでいたものの、その光景に撮影を躊躇したほど。
美空ひばりの歌や『喜びも悲しみも幾年月』で有名な塩屋埼灯台付近を走り、久ノ浜に向かった。久ノ浜のいわき寄りには地震発生時に停車したままの列車が残留しているはずだった。車が久ノ浜に近づくと線路上に415系4両編成が停まっているのが見えた。車両に近づいて見ると、車輪は線路にしっかりと留められていた。国道6号を挟んだ海側の家屋は津波被害に遭っていた。
3月11日の数日後、地震当日の常磐線の列車は、岩沼付近の沿線火事でダイヤが乱れていたらしい、ということを耳にした。確かに前回紹介した貨物92列車は、岩沼発13時53分発のダイヤだから、通常ならもっと南に位置していなければならない。この新地で被災した普通244Mも新地発14時37分発で、通常なら相馬に到着している。
大震災で混乱する中、岩沼付近で火事があったかどうか、確認しようかどうか迷っていた。そんな折、小社刊『小説新潮』5月号に旅行中に震災に遭遇した作家の手記が掲載されていることを知る。それが作家彩瀬まるさんの「川と星 東日本大震災に遭って」だった。彩瀬さんはなんとこの244Mに仙台から乗車、「線路沿いが燃えている」影響で電車がのろのろ運転するようすをしっかりと書き留めている。やはり沿線の火事でダイヤが乱れていたのだ。
作家の川本三郎さんが『東京人』に連載している「東京つれづれ日誌」で、本誌を取り上げてくださった(11月号)。書影まで添えてあり、「鉄道への愛情には敬服する」と、これ以上ない励みのお言葉を頂戴した。ありがとうございました。
さて常磐線はいわき~広野が10月10日に運転再開、亘理~岩沼は4月12日に再開しており、現在広野~亘理が不通で、移転問題などもありいまだに再開の見込みはたっていない。
(1)では野蒜付近でL字に脱線したあおば通行き列車にふれた。この列車と野蒜で交換した石巻行き快速は、約600m走って上り坂の途中で停車した。こちらの列車は乗客全員が列車の中に留まり、津波をやり過ごし、さらに一晩を過ごしている。列車も乗客も無事だった。外は雪が降り、車内の温度も下がり、過酷な一夜となった。本誌p29「ドキュメント乗客の証言」で渋谷節子さんが生々しくその時の様子を証言している。
3月11日の地震発生後、JR東日本は午後10時20分に、仙石線野蒜~東名を走行中の普通列車1本と連絡がとれていないと発表した。その後、発表時間は不明だが、午後10時半現在として、野蒜駅付近を走っていた列車4両がL字形に脱線した状態で発見され、乗客の安否は不明と発表した。地震直後の混乱の様子が伝わって来る報道である。
地震発生時、野蒜付近には2つ列車が走行中だった。あおば通に向かっていたのが石巻発普通1426S列車、石巻に向かっていたのがあおば通発快速3353S列車。どちらも野蒜14時46分発だった。
親の代から購読している朝日新聞に「目が覚める」記事が載った。10月1日付け朝刊である。看過できないので、ここに紹介したい。
「新駅、街づくりの中核に」「被災JR線、移設合意」という見出し。仙石線や石巻線で沿線自治体とJRが内陸移転に合意したという記事。「目が覚めた」のは後段の部分。交通手段見直しを求める声もある――として「8月に開かれた岩手県大船渡線の復興計画策定委員会では、『JR線復旧の必要はない』と委員から廃線を求める声が相次いだ。