2011年3月11日、東北関東地方に発生した大地震では、多くの人命が失われました。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
 申すまでもなくこのたびの大震災では関東から東北の沿岸地域に津波による甚大な被害が出ております。地域の重要な足となる鉄道も、沿岸部で甚大な損傷を受け、未だ回復の見込みの立たない路線も多々あります。
 編集部では4月から5月にかけて、茨城県の鹿島臨海鉄道から三陸鉄道北リアス線まで、沿岸部を中心に被災状況を取材してまいりました。このブログはその取材報告です。写真も一部公開いたします。
 また取材中に撮影した写真は『日本鉄道旅行地図帳 東日本大震災の記録』写真サイトとして8月22日より公開しております。是非ご覧ください。
(田中比呂之)


 大震災と鉄道をテーマに「鉄道地図帳」を編集しようと考えてから半年。茨城県から岩手県まで被災した鉄道を取材し、6月からはこのブログを開始、8月には「東日本大震災の記録」として1冊の「鉄道地図帳」にまとめることができた。それでもこぼれてしまった企画がいくつもあり、中でも「大震災と鉄道員」というテーマの記事ができなかったことは心残りである。

<投稿日:2011年10月27日>

 このブログは、三陸鉄道北リアス線島越駅を紹介して以来、南下してきた。実は今回取り上げる鹿島臨海鉄道は、大震災取材として最初に訪れた場所であった。地震の起きた3月11日は、「日本鉄道旅行歴史地図帳」11号の編集を終え、12号九州に取りかかっているところだった。その12号を編集しながら、「東日本大震災の記録」の企画を練り、ようやく取材に出ることができたのは、地震から1ヶ月半が過ぎた4月下旬であった。
 地震の取材を始めるにあたって、まず鹿島神宮にお参りに行こうと考えた。それは震災報道が東北に偏りがちなのが気になっていたこと、鹿島臨海鉄道の情報がほとんどないことなどが動機となっているが、まず地震を鎮める神社でもある鹿島神宮をお参りしておきたかった。

鹿島臨海鉄道 <投稿日:2011年10月24日>

 常磐線いわき付近の取材は、4月下旬の月曜日だった。郡山在住の知人に運転を頼み、ところどころ段差ができていた磐越自動車道でいわきに向かった。福島臨海鉄道の小名浜駅に着いたのはお昼前。ヤードの海側にある商業施設も津波で激しく壊れていた。隣の小名浜港の岸壁や防波堤に数艘の船が乗り上げたまま。地震津波から1ヶ月半以上が経過し、片付けが進んでいたものの、その光景に撮影を躊躇したほど。
 美空ひばりの歌や『喜びも悲しみも幾年月』で有名な塩屋埼灯台付近を走り、久ノ浜に向かった。久ノ浜のいわき寄りには地震発生時に停車したままの列車が残留しているはずだった。車が久ノ浜に近づくと線路上に415系4両編成が停まっているのが見えた。車両に近づいて見ると、車輪は線路にしっかりと留められていた。国道6号を挟んだ海側の家屋は津波被害に遭っていた。

常磐線 <投稿日:2011年10月20日>

 3月11日の数日後、地震当日の常磐線の列車は、岩沼付近の沿線火事でダイヤが乱れていたらしい、ということを耳にした。確かに前回紹介した貨物92列車は、岩沼発13時53分発のダイヤだから、通常ならもっと南に位置していなければならない。この新地で被災した普通244Mも新地発14時37分発で、通常なら相馬に到着している。
 大震災で混乱する中、岩沼付近で火事があったかどうか、確認しようかどうか迷っていた。そんな折、小社刊『小説新潮』5月号に旅行中に震災に遭遇した作家の手記が掲載されていることを知る。それが作家彩瀬まるさんの「川と星 東日本大震災に遭って」だった。彩瀬さんはなんとこの244Mに仙台から乗車、「線路沿いが燃えている」影響で電車がのろのろ運転するようすをしっかりと書き留めている。やはり沿線の火事でダイヤが乱れていたのだ。

常磐線 <投稿日:2011年10月17日>

 作家の川本三郎さんが『東京人』に連載している「東京つれづれ日誌」で、本誌を取り上げてくださった(11月号)。書影まで添えてあり、「鉄道への愛情には敬服する」と、これ以上ない励みのお言葉を頂戴した。ありがとうございました。
 さて常磐線はいわき~広野が10月10日に運転再開、亘理~岩沼は4月12日に再開しており、現在広野~亘理が不通で、移転問題などもありいまだに再開の見込みはたっていない。

常磐線 <投稿日:2011年10月13日>

(1)では野蒜付近でL字に脱線したあおば通行き列車にふれた。この列車と野蒜で交換した石巻行き快速は、約600m走って上り坂の途中で停車した。こちらの列車は乗客全員が列車の中に留まり、津波をやり過ごし、さらに一晩を過ごしている。列車も乗客も無事だった。外は雪が降り、車内の温度も下がり、過酷な一夜となった。本誌p29「ドキュメント乗客の証言」で渋谷節子さんが生々しくその時の様子を証言している。

仙石線 <投稿日:2011年10月10日>

 3月11日の地震発生後、JR東日本は午後10時20分に、仙石線野蒜~東名を走行中の普通列車1本と連絡がとれていないと発表した。その後、発表時間は不明だが、午後10時半現在として、野蒜駅付近を走っていた列車4両がL字形に脱線した状態で発見され、乗客の安否は不明と発表した。地震直後の混乱の様子が伝わって来る報道である。
 地震発生時、野蒜付近には2つ列車が走行中だった。あおば通に向かっていたのが石巻発普通1426S列車、石巻に向かっていたのがあおば通発快速3353S列車。どちらも野蒜14時46分発だった。

仙石線 <投稿日:2011年10月06日>

 親の代から購読している朝日新聞に「目が覚める」記事が載った。10月1日付け朝刊である。看過できないので、ここに紹介したい。
「新駅、街づくりの中核に」「被災JR線、移設合意」という見出し。仙石線や石巻線で沿線自治体とJRが内陸移転に合意したという記事。「目が覚めた」のは後段の部分。交通手段見直しを求める声もある――として「8月に開かれた岩手県大船渡線の復興計画策定委員会では、『JR線復旧の必要はない』と委員から廃線を求める声が相次いだ。

大船渡線 <投稿日:2011年10月03日>

 原武史さんが「絶景」と強く推薦していた万石浦を見に行ったのは、2009(平成21)年6月だった。石巻線沢田付近から浦宿まで、万石浦の静かな水の風景を堪能し、浦宿で降りて「撮り鉄」も楽しんだ。その足で女川まで行った。どん詰まりの終着駅には、鉄道ファンを惹きつける魔物が住んでいる。
 大震災の数日後、新聞に載った女川の写真を見て、戦慄した。駅に停車していた列車の1両が丘の中腹にある墓の上に横たわっていたのだ。駅施設はホームを残してほぼ消滅し、ホーム横で温泉施設の休憩所として使用されていたキハ40も、駅から数百メートル離れたところに無惨な姿で横転していた。

石巻線 <投稿日:2011年09月29日>

 明治学院大学教授原武史さんのゼミ旅行に同行して、三陸沿岸を駆け足でまわってきました。原ゼミ13人の学生(女性11人、男性2人)に新聞社、出版社など記者・編集者9人が便乗参加、久慈から気仙沼まで1泊2日という強行軍のバスツアーでした。
 午前中に盛岡駅に集合した一行は、日本屈指の閑散路線JR山田線の快速「リアス」で宮古へ。三陸鉄道北リアス線の列車に乗り換え、通常運転よりかなり遅い速度で走る気動車で小本へ。駅前で待つバスに乗り込んで、バスツアーがスタート。まず島越駅へ向かいました。

三陸鉄道北リアス線 /JR山田線 <投稿日:2011年09月26日>

 今回は自社メディアの宣伝をさせていただきます。小社には「@バンチ」という月刊コミック誌があります。来月10月から三陸鉄道を題材とした連載が始まります。「東日本大震災の記録」マンガ版ということになります。予告編では「マンガ版は三陸鉄道にスポットライトを当て、未曾有の災害に立ち向かう人間たちの熱いドラマを描く」と謳っております。本誌には「ドキュメント 乗客の証言」のページでタイトル通り地震発生時三陸鉄道の列車に乗っていた乗客の証言を掲載しておりますが、マンガでは乗客はもちろんのこと、乗務員をはじめ三陸鉄道の人たちが「あの時」何を考え、どう行動したのかをドキュメントドラマとして描こうという構想です。
 9月21日発売の「@バンチ」11月号では、その予告編が掲載されています。その一部をここに紹介させていただきます。

 気仙沼線最後の開通区間は、1977(昭和52)年の柳津~本吉である。宮脇俊三氏のデビュー作『時刻表二万キロ』の最終章には、開通日の沿線の喜びがユーモアたっぷりに描かれている。それはさておき、この間、陸前戸倉から陸前小泉までほぼ太平洋を右に見ながら走る。それだけに津波被害も大きかった。
 取材中、大きめの石がごろごろしている印象があったのだが、調べてみると陸前横山から陸前小泉まですべて石積みの築堤上にあるのだ。写真はこれまで通り北から紹介する。なお陸前小泉は駅施設が完全に消失しているので割愛、志津川は回をあらためて紹介したい。

気仙沼線 <投稿日:2011年09月19日>

 これまで大きな鉄道橋が流された現場をいくつも見てきた。山田線の第34閉伊川橋梁、大槌川橋梁、大船渡線の気仙川橋梁など。閉伊川橋梁は橋桁10本のうち6本が流されたが、橋脚は流されず、傾くこともなかった。大槌川橋梁は橋桁すべてが流され、一部橋脚も傾いていた。この2つは河口から数百メートルのところにある。気仙川橋梁は河口から3km以上も上流にもかかわらず、橋桁が流失、落下した。
 この津谷川橋梁は河口から2km弱。橋桁すべてが流失し、橋脚もすべて上流側に傾き、鉄筋が剥き出しになるなど無惨な姿となった。

気仙沼線 <投稿日:2011年09月15日>

 南気仙沼から南下すると松岩付近から気仙沼湾に沿って走る。松岩の標高は1.7m、次の最知が2.6mである。地震発生時、この2つの駅間に気仙沼発小牛田行き普通2942Dが走っていた。キハ48×2両。当初行方不明と報道された列車である。この列車のニュースはほとんど聞かなかった。乗客乗務員が避難したのち、築堤上に停止していた車両は、すぐ横の水田に押し流された。
 5月27日、現場で半分に切断され、運び出された。

気仙沼線 <投稿日:2011年09月12日>

 気仙沼線は前谷地~気仙沼72.8kmの路線である。最初の開通区間は1957(昭和32)年2月11日の本吉~気仙沼。支線の南気仙沼~気仙沼港(貨)の開通が1956(昭和31)年4月11日。ん? 日本鉄道旅行地図帳2号「東北」の編集中、この謎を解くのに時間がかかったのを思い出す。解いてみるとそれほど複雑ではなかったが、珍しいケースではあった。

気仙沼線 <投稿日:2011年09月08日>

 大船渡市在住の梅澤直氏から情報と写真をご提供いただきました。下船渡~大船渡に長い間停止していたキハ100系2両。地震当日は盛発一ノ関行き338Dとしてこの区間を走行中だった。築堤の高さは5mぐらいであろうか。津波で床下浸水し、結局廃車に。7月26日、キハ100-38が現場で2つに切断され、28日に運び出された。
 バンダイに「Bトレインショーティ」というユニークな鉄道模型があるが、それを思い出してしまった。

大船渡線 <投稿日:2011年09月05日>

 今日は9月1日、防災の日です。大正12年9月1日、相模湾を震源域とする関東大震災が発生、10万人以上が死亡するという大災害になりました。神奈川県内を走る東海道本線は、地震や地震に伴う土砂崩れなどでたいへんな被害が出ました。被害の様子は「写真サイト」にて駅ごと、区間ごとに写真を整理しご紹介しています。

<投稿日:2011年09月01日>

 今回は内容紹介の番外編、関東大震災で大きな被害を受けた横浜市電の写真を紹介します。これも前回紹介をした『大正十二年 鉄道震害調査書』(鉄道省)に掲載された写真ですが、最後の1枚以外は「地図帳」でも「写真サイト」でもご紹介できなかった写真です。横浜は東京と同様、地震後の火災による被害が甚大でしたが、震源域に近いこともあり、瀧頭車庫や馬車道の様子から、地震そのものの被害も大きかったことがわかります。写真の説明文は内田宗治氏にお願いしました。

<投稿日:2011年08月29日>

 内容紹介の3回目は特別企画「関東大震災と鉄道」です。地図帳p44~45には大正12年の地図、p46~47には内田宗治氏執筆による記事を掲載しています。地図と記事の作成にあたり参考にした1冊として、当時の鉄道省が残した『大正十二年 鉄道震害調査書』という本があります。非売品です。

<投稿日:2011年08月25日>

 前回の地図につづいて「被災路線駅名一覧」をご紹介します。この表は日本鉄道旅行地図帳で駅名一覧として作成した表に、駅の標高、震災後の開通日、各駅各区間の状況を加えた表です。ただし駅名の変遷は割愛しました。
 1路線につき数点の写真も掲載しています。


<投稿日:2011年08月22日>

 日本鉄道旅行地図帳「東日本大震災の記録」が8月24日(水)発売になります。これまでこのブログで取材記と写真を公開してまいりましたが、いよいよ「地図帳」が全国の書店で発売になります。その内容をいくつかご紹介いたします。


<投稿日:2011年08月18日>

 JR東日本は3月末にこの大震災で流失した23駅を発表した。鹿折唐桑駅はその23駅に含まれていない。確かに駅舎は残り、ホームもある。駅舎には少なくとも6台の自家用車が突っ込み、待合室はぐちゃぐちゃ、ガラスも割れて粉々だった。片付け清掃だけで元の姿に復元できるだろうか。

大船渡線 <投稿日:2011年08月15日>

 陸前高田の一駅気仙沼寄りにあるのが竹駒。陸前高田から2.9km。ほぼ気仙川に沿っている。小さな待合室はかろうじて残っているが、中は瓦礫が入り込んでぐちゃぐちゃだった。今回の地震津波で全壊、半壊した駅の中でも、もっとも海から離れているのではないか。気仙川が広田湾にそそぐ河口からも約3km、津波はこの竹駒駅だけではなく、周辺の家屋を押し流しながら、さらに上流の気仙川橋梁までも押し流した。

大船渡線 <投稿日:2011年08月11日>

 陸前高田に向かう車の中で、身構えている自分に気づいた。この東日本大震災でも南三陸町と並んで被害が大きかった陸前高田市。新聞テレビの報道でも、この2つの町の名前を見ない日はなかった。空からの映像・写真を何度も見た。何度見ても胸を突かれる光景だった。そして、平らになってしまった高田の町を目にして、言いようのない喪失感が身体を支配した。

大船渡線 <投稿日:2011年08月08日>

 小友から陸前高田方面に向かう。山田線や三陸鉄道南リアス線よりも、大船渡線の被害は大きいように思う。被害がなくてホッとする場所がほとんどないのだ。広田湾を望む「両替」地区でも線路は激しく破壊され、柵のように立ち上がっていた。さらに進むと緩やかな傾斜地にでた。どう表現したらよいのか? 全体が津波でぐちゃぐちゃになり、ここを横断する大船渡線の線路は、線路を目で追えないほど破壊されていた。再開する日が本当に来るのだろうか、とこの日1日で何度も思ってしまった。

大船渡線 <投稿日:2011年08月04日>

 三陸鉄道南リアス線(3)で紹介した綾里は、明治三陸津波で津波同士がぶつかるという惨事があり、大量の死者行方不明者を出した。東日本大震災では大船渡線小友駅がある広田半島の付け根で津波同士がぶつかった。大船渡線はこの広田半島の付け根を横断する。現地は水が引いた沼地のようになっていた。築堤はかろうじて判別できるものの、線路が完全に消失しているところもある。

大船渡線 <投稿日:2011年08月01日>

 大船渡線には少なくとも1度以上乗ったことがある。にもかかわらずこの細浦駅の存在を知らなかった。細浦の町は大船渡湾の一郭にある小さな浦にある。小さな湾は、太平洋から大船渡湾に侵入した津波が見過ごしてもおかしくない向きに湾入している。
 瓦礫の町を進んで駅前に辿り着く。駅舎はなく、作業用のプレハブ小屋が建っていた。ホームに上がると元下り線側に大きな桜の木が目に入る。大きな木が3本、花は散ったばかりだった。大船渡方、陸前高田方にも大きな屋根が流れ着いた。

大船渡線 <投稿日:2011年07月28日>

 大船渡には3つの鉄道がある。JRは大船渡線で大船渡駅は町の中心地にあるが、終点は盛駅。この盛で接続しているのが、三陸鉄道南リアス線と岩手開発鉄道だ。南リアス線の盛~吉浜は、昭和59年まで国鉄盛線だった。盛から一つ目の駅が陸前赤崎。駅の標高が12.7mで被害は軽微だったが、1枚目の写真のように、ホームから見える赤崎地区の様子は息をのむ。

大船渡線 <投稿日:2011年07月25日>

 ……ほかに連絡が取れないのは、宮城県気仙沼市の松岩―最知を走行中だった気仙沼線(2両編成)1本と、岩手県大船渡市の大船渡線(同)の2本。大船渡線の1本は大船渡―下船渡、もう1本は盛駅付近を走行していたとみられる。地震発生直後は連絡が取れたが、その後連絡がつかなくなった。――

大船渡線 <投稿日:2011年07月21日>

 小石浜の次は綾里。この2つの駅の間にはかつて白浜海岸という臨時駅が夏の間だけ開設されていた。綾里湾の湾奥に位置する白浜海岸は、明治29年の明治三陸津波で津波遡上最高記録(38.2m)を残した。小さな半島の付け根を津波が両岸から襲い、津波同士がぶつかったという。被害戸数296戸、溺死1350人と石碑に刻まれている。

三陸鉄道南リアス線 <投稿日:2011年07月19日>

 南リアス線を訪れた5月2日、沿線は心地よい春の日差しが降り注いでいた。三陸駅のホームから見る越喜来湾(おきらいわん)の静かな碧さが目にしみた。この海が突然どす黒いヨダ(三陸沿岸では津波をこう呼ぶらしい)となって陸地を襲った。作家高山文彦氏はヨダについてこう解説する。「怪物でも呼ぶようなこの言いかたは、津波というものがまるで別世界のものではなく、つねに身近に存在する恐ろしいものとしてとらえられていたことを教えている」(『オール讀物』平成23年5月号)
 三陸駅は難を逃れたが、同じ越喜来湾を望む甫嶺(ほれい)駅はよだの餌食になった。ホームは残ったが線路・路盤はずたずた。東大地震研究所の津波調査地点ともなり、15.5mの記録を残した。

三陸鉄道南リアス線 <投稿日:2011年07月14日>

 すでに2区間で運転再開をしている北リアス線とは違い、未だ全線で運休が続いている。「トンネルを出ると津波被害」が南リアス線の状況。全線至る所で寸断されている。ホーム下の駅事務所が浸水した釜石から2駅目の唐丹。奥州藤原氏の唐との密貿易を起源とする説もある地名らしい。
 唐丹駅は唐丹湾に面して、道路を隔ててすぐ前が海。地形からするとひとたまりもない感じがある。しかし、駅前の自動販売機等は流出したようだが、ホーム、待合室などはほぼ無事。われわれが訪れた時は、瓦礫が多少残っている程度だった。

三陸鉄道南リアス線 <投稿日:2011年07月11日>

 大槌湾には2つの川が流れ込んでいる。ひとつは前回紹介した大槌川。大槌の惨状を後にして山を越えると、また惨状が目の前に広がった。鵜住居(うのすまい)川が大槌湾に注ぐ河口付近にできた平野部が鵜住居地区。ここは釜石市内である。築堤上の線路が消え廃線跡のようである。鵜住居橋梁を渡るとすぐに鵜住居駅。中世に鵜住居氏の居城がここにあったことから、この地名が残っているという。印象に残る地名である。駅は瓦礫の集積で何がどうなっているのかわからない状態だった。

JR山田線 <投稿日:2011年07月07日>

 車がトンネルを抜けると破壊された町が目の前に広がった。大槌川の手前海側の新港町では自衛隊が瓦礫の整理にあたっていた。その向こうに山田線の築堤から線路が斜めに落ち、切れているのが見える。大槌川橋梁の橋桁はすべて消失。東大地震研による津波の測定値は12.7mである。何もかもが破壊されている。

JR山田線 <投稿日:2011年07月04日>

 参考図書をふたつ紹介する。ひとつは昭文社『東日本大震災 復興支援地図』。B4版に津波被災地域を中心に編集してあるので、重宝している。津波浸水範囲に網掛けも施してある。売れ行き好調とのこと。山田湾に面している駅は前回紹介した陸中山田と織笠。取材時、織笠と次の岩手船越を割愛して先を急いだため、写真がない。その織笠は『鉄道ジャーナル』8月号が写真入りで紹介している。写真ではそれが駅かどうかわからないほど破壊されている。吉村昭『三陸大津波』(文春文庫)を持ち出すまでもなく、記録を残すことはメディアの最重要の仕事である。ファンの視点で記事を掲載することの重要さを『鉄道ジャーナル』の誌面は伝えている。

JR山田線 <投稿日:2011年06月30日>

 山田線が盛岡から陸中山田まで開通したのは1935(昭和10)年のこと。線名に冠されるほど重要な町である。その中心に陸中山田駅がある。津波と火災。これ以上の惨状を思い浮かべることはできない。この惨状があまり話題にならないところが、この大震災の被害の深刻さを表しているとも言える。

JR山田線 <投稿日:2011年06月27日>

 山田線の盛岡~宮古は、今回の震災で不通になった線区のなかでももっとも早く運転再開した区間である。鉄道ファンなら誰でも知っているように、列車本数が極度に少ない。北リアス線と山田線の取材では、盛岡から山田線のライバル「106急行」バスに乗った。国道106号線は山田線に沿って宮古に達する。新緑の沿線に目を奪われ、列車に乗れば楽しめない鉄橋をいくつも見て感激する。バスに乗って山田線を見直す皮肉なことになった。

JR山田線 <投稿日:2011年06月23日>

 3月11日の地震から間もなく、義捐金の募集が全世界で始まりました。津波の映像が世界の人々に「何かしないといられない」という気持ちを起こさせたのでしょう。私も「何かしなきゃ」と思ったひとりです。できれば鉄道ファンとして、鉄道の復興に貢献できることがないか。そう思っていたところに原武史さんから電話があり、「三陸鉄道の切符を買おうと思うんですよ」と言う。なるほど、切符を買えば確実に三陸鉄道の収入になる。何枚買うつもりなのかその時は聞きそびれてしまった。

三陸鉄道北リアス線 <投稿日:2011年06月20日>

 今回の取材でお世話になっている三陸鉄道冨手淳氏から提供していただいた3枚の写真を紹介する。1枚目は島越駅のホーム。左手が海。海側に駅舎があり、駅舎裏から高架をくぐる階段でホームに上がるようになっていた。

三陸鉄道北リアス線 <投稿日:2011年06月16日>

 三陸鉄道北リアス線は宮古と久慈を結ぶ71kmの第3セクター鉄道。国鉄宮古線(宮古~田老)と久慈線(久慈~普代)を引き継ぎ、1984年(昭和59年)に田老~普代を新線開業して、三陸鉄道北リアス線となった。

三陸鉄道北リアス線 <投稿日:2011年06月13日>





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