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ウェブを面白がる年寄りが面白がった二人の対談
養老孟司
ウェブなんて話題に、そもそも年寄りが口を出すものではない。それならなぜお前が口を出すんだよ。だって書評を頼まれたから、仕方がないじゃないか。それに同じ年寄りでも、私みたいなオタクの年寄りには、ウェブほどありがたいものはない。テレビなんてものを見ているより、はるかにマシな気がする。ところでウェブってなんだ。そう思った人は、インターネットを考えてくれればいい。それでわからなければ、メール。それでもダメなら、もう知らない。
時代というものがあって、いまの時代は年寄りが威張る。そのつもりはなくても、生きている以上、ジャマになるのは仕方がない。そんな時代に若い人はどうすればいいか。いちばんまともな生き方は、年寄りがダメな世界で頑張ること。ならばウェブは格好の分野ではないか。
だからこの『ウェブ人間論』は、『ウェブ進化論』を書いた四十代の梅田望夫と、三十代はじめの作家、平野啓一郎の対談になっている。とにかく一生懸命に話しているから、そこに大いに好感が持てる。私は高度成長期に生きたからひねくれていたが、いまは時代がひねくれているから、一生懸命のほうに加担したくなる。若い人に「べつにー」とかいわれると、頭に来るほうなのである。若いんだから、なんでもいいから一生懸命にやりゃいいじゃないか。というと、テロになったりするから、厄介だが。
ネット上の分身がブログだ、と梅田はいう。若いときから、社会的な分身を作ることができるというのは、面白い実験である。若い世代がはまる理由がわかる気がする。実際の社会は硬い。そこではそんな実験は簡単にはできない。大学のロッカーに変身用小道具を入れて、ときどき別な人物になるということを私は考えたが、面倒くさくてやらなかった。梅田は『ウェブ進化論』に対する意見を一万以上読んだというから、呆れた。私は一切読まない。でも若い人はさすがに違う。ウェブで人間が変わっていくはずだと、二人していうが、そうだろう。そもそもウェブがなければ、自著について、そんなに他人の意見を聞くことはできないのである。
平野が一九九八年にデビューしたとき、ネットでかなり嫌な思いをしたという。だから梅田とは少し立場が違って、やや慎重なもの言いになる。しかし梅田のいい分をそこで採用するなら、ネットのおかげで「人は育つ」のである。続いて、ネットをやる人間の意識には五通りあるという平野の説明が続く。そのうちリアル社会では露呈できない本音をネットで語る、あるいは妄想や空想のはけ口にする、そうしたいわばネガティブな面に平野は作家としての関心が向くという。たしかにネットはそういう面の宝庫かもしれない。
ウェブについて、平野は新しく発生した公的領域だという認識を述べる。これは重要な視点であろう。まさに私的に発生したものが、おびただしい人々の参加によって、必然的に公的性格を帯びてくる。それが二人のいう「リアル社会」にどう影響するか。すでに影響している可能性が高いのだが、それをどう測定するか。
梅田は十年後に出てくる新しいものは、いま皆が議論していることとは絶対に違うはずだ、という確信を述べる。ネットの世界はそれだけ急速に動いているという実感からであろう。そしてリアル世界の第一線で活躍している人ほど、知的好奇心の磨耗が生じているという。ネットの面白さに関心を示さないことが多いからである。
最後に年寄りの意地悪を一言。世界は二つに分かれる。「脳が作った世界(=脳化社会)」と、「脳を作った世界(自然、といってもいい)」である。私は「脳を作った世界」にしか、本当は関心がない。本書でいわれる「リアル社会」を、私はかねがね「脳化社会」と呼んできた。ネットの社会は、私から見れば、「リアル社会」がより純化したものである。「ネットに載る以前の存在」を「どうネットに載せるのか」、それだけが私の関心事だったし、いまでもそうである。ネットに載ったらそれは情報で、私の真の関心は情報化そのものにある。なぜなら私は年寄りで、情報化社会以前に発生した人間だからである。山中に閑居した李白は詠む。別に天地あり、人間にあらず。この人間はジンカン、つまり世間のことである。
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