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  地中海の中心へ
塩野 この本を書くにあたっては、随分とお世話になりました。ご専門のイスラムのことなどいろいろとお話をうかがいましたよね。
池内 まさに構想段階で偶然にご一緒する機会があったので、どういう本になるのかとても興味がありました。今回の本は、ローマ帝国が滅んだ後の地中海が舞台で、主人公はイスラム教を信奉するサラセンの海賊だということでしたが、初めてうかがった時は、果たしてそのようなものが書けるのだろうか、というのが第一印象でした。というのも、資料が極めて少ないからです。ヨーロッパ側には「バルバリア海賊」についての資料や文学があるのでしょうが、イスラム側から見れば、海賊に関することが、公式文書とか資料という形では簡単には出てこない。ただ、これまで塩野さんが書いてこられた作品には、多くの裏地や下地がある。『海の都の物語』や『ローマ人の物語』といった作品は、全体を反転させれば海賊が浮かび上がってくる。そういう趣向なのではと思いまして。
塩野 最初は、ちゃきちゃきの活劇を書こうと思ったんですけどね(笑)。でも、私が書くとなると、やはり文明論的な物語になってしまって。
池内 サラセンの海賊が拠点にした北アフリカの、今でいうアルジェリア、チュニジア、リビア辺りは、イスラム帝国の中心からの影響力が最も及ばなかった辺境です。そこで活躍した海賊はイスラム史から見ても非常に面白いテーマなのですが、とても書きにくい。公式的にはイスラム帝国、オスマン帝国の版図の中といっても、実際には北アフリカの現地の権力が自立化してゆき、中央の統治が十分に及ばない。資料はどうしても帝国の中心に残るので、資料と現実が違ってきてしまう。もちろん地域の資料もあったと思うのですが、どんどん散逸して、そう簡単には見られない。
塩野 私はイスラムそのものについてはあまりよく知らないので、イスラムの中枢の歴史には絶対に深く踏み込もうとはしなかった。それは、いずれ池内さんがお書きになることです(笑)。でも、私はイタリアに長く住んでいて、「サラセンの塔」というのは聞き慣れていた。「サラセンの塔」とは、海賊が襲ってくるのを見張るために設けられた監視塔ですが、上巻では、口絵で32ページにわたって、「サラセンの塔」がイタリア半島の沿岸各地にいかに多く残っているかを、詳細な分布図と写真を載せて示しました。かつての「サラセンの塔」は、今ではレストランになったり、ホテルになったりしている。住宅として売り出されているところもあって、一度は買おうとしたこともあったほどです。そんなことがずっと頭の中にあったので、今回、中世を書こうと思った時に、海賊を切り口としようとしたのは、私には自然のことでした。イスラム側の資料が少ないので苦労はしたのですが――。イスラムというのは、勢いのいい時は資料を残してくれますが、勢いが悪くなると黙ってしまうので。
池内 その傾向はあります。ムハンマドの布教や勢力拡大に関しては、独自の観点から膨大な「ハディース」という伝承記録を残して、後の時代にも注釈をつけ続けていますし、正統カリフやウマイヤ朝・アッバース朝の指揮下で周辺地域を占領していた時期については、各地を「開く」と表現して、歴史記述を膨大に残しています。軍事的な征服を、イスラム教という真理の秩序に対して扉を「開かせる」活動をしていたと認識しているんですね。
塩野 この本を読むと、イスラム教徒は文句を言うでしょうか。私としては、イスラム教側に厳しいことを書いたかもしれないが、キリスト教側も非難すべきところはきちんと書いたと思っています。
池内 イスラム教徒側の主観には沿っていませんが、公平に書かれていると思います。それにしても塩野さんの着想の出発点に、「サラセンの塔」が身近にあったというのは実に印象的です。塩野さんのこれまでの著作は、ヨーロッパの内側にしっかりと足場をおいて地中海を見ておられる。今回もそうなのですが、しかし思い切って地中海の中心に漕ぎ出された。そこから塩野さんの足場が三点ぐらいに分散されていく。イタリアの沿岸都市からだけでも、そして北アフリカのチュニジアなどからだけでも地中海は書けない。時に地中海の真ん中から両岸を見るような、危なっかしい視点もとらないといけない。海賊という媒体を使って、想像しにくい時間と空間を、読者に強制的に体験させる。資料も少なく、書くのは本当に難しかったと思いますが、それに挑戦されたのは実に野心的で、刺激そのものです。普通の手堅い研究では怖くて手が出せない。読んで本当に面白かった、刺激を受けたというのが率直な印象です。
塩野 私は学問の徒ではありませんから。
池内 中心テーマが、北アフリカの海賊から見た地中海世界という魅力的だが歴史学的には最も扱いにくい場所です。しかも海賊というものは、キリスト教とイスラム教の勢力範囲の接点と摩擦そのものです。宗教間の対立というのは、単に教義や理屈が争うのではなく、価値観と社会体制が違って、利害関係の異なる集団がいがみ合う。互いに相手を汚い犬、汚いひげと蔑みののしる関係です。その関係はきれいごとでは済まず、決して予定調和的ではない。特に日本では、描くのが憚られる面がないわけではない。そこに塩野さんは斬り込んでいく。
塩野 私は国際的に有名ではないから、首を掻っ切られる心配もなかろうと思いまして(笑)。
池内 ヨーロッパ側もイスラム側も、実際に対峙する現場に下っていって、近代的な建前を排して見てみると、お互いについて非常に露骨で、えぐい見方をしながら交流している。


  キリスト教世界とイスラム世界
塩野 この本を書いた少し真面目な意図を言うと、こういうことがあるんです。日本人は、キリスト教世界とイスラム世界が、なぜこんなにうまくいかないのだろうと思っているはずです。もうちょっとお互いに歩み寄ったらいいのではないかと。でも実は、キリスト教とイスラム教には、十字軍の戦いだけでなく、過去にこれだけいろいろな対立があり、歩み寄るのは非常に難しいんだということを日本人に知ってもらいたかった。
池内 本当になかなか理解されないですよね。でもそれは、日本人に限らないでしょう。例えばアメリカ人もよく理解していない。アメリカは、イスラム世界と直接に取った取られたというような経験をしていませんから。その点、ヨーロッパは、イスラムとの価値観の違いを目の当たりにしている。食べ物が違って、肌の色が違って、体臭も違うということを体で感じとっている。こちらは豚肉料理を美味しく食べているのに、豚を食べるなんてとんでもないといった人が間近にいるのですから。
塩野 その通りですね。ヨーロッパ人は、この本で書いたように、イスラムの海賊に一千年の間、苦しめられてきています。そうしたキリスト教世界とイスラム世界の確執を日本人もアメリカ人もよく知らない。今ヨーロッパ連合にトルコが加盟したがっていますが、なかなか進まない。日本人からすると、なぜダメなのか疑問でしょう。しかし、私のトルコ人の友人は、「やはり、一四五三年に、ビザンチンをやっつけたのがいけなかったのか」なんて言っています(笑)。
池内 EUの政治家や官僚が表向きに話すことはきれいごとが多いですよね。でも正式なインタビューが終わると、露骨に嫌悪感や敵意をむき出しにする。本音と建前の使い分けは日本にしかないなどという人がいますが、そんなことは全然ないわけです。
塩野 まったくそう。現実の問題として、もしトルコがEUに入ると、トルコの出生率からいって、早晩トルコはEUで最大の国になる。EU議会の構成は、各国の人口比で決まることになっているので、これは大変な問題なんです。
池内 本音と建前の乖離が激しいという点では、ヨーロッパにおけるイスラム問題ほど乖離が激しいテーマはありません。ヨーロッパには、「自由と平等」というような、近代のとても美しい理念があり、その理念は一応普遍でなければならないわけですが、そこにはイスラムは入らないじゃないかということを、ヨーロッパ人は感覚的にわかっている。しかし、それを言うと、「差別」「非寛容」とされてしまうから言わない。そしてさらに、イスラムに適用できないんだったら、そもそもヨーロッパの人権理念は普遍ではないことになってしまう。それもあって、決して言わない。
塩野 そうなんです。言えない。問題が複雑で。いつか池内さんにお聞きしましたよね。「イスラム世界にとって、ルネサンスはいつだったか」と。すると、池内さんは「それはイスラムが成立して拡大発展していった時期。イスラムがもっとも勢いのよかった時期。これこそがルネサンスだと思っている」とおっしゃった。しかし、イスラムの人たちはわかっているのでしょうか。ルネサンスとは、自らに疑いを持つことで、疑いを持って自分を見つめ切った後にしか、本当の飛躍がないことを。キリスト教世界はルネサンスを経験し、さらにもう一度、啓蒙主義も経るわけです。しかし、イスラムはそれらを経ていない。私が書いた時代の話ではなく、現代のイスラム世界のことですが、自分自身に疑いを持たない、つまりは自分の行動について反省をしない人間というのは、もしも不都合が起こった場合に、他人に責任を転嫁しませんか。それが、現代のイスラムに対する唯一の心配です。
池内 ヨーロッパの人々が、イスラム教徒を好きか嫌いかは別にして、ある種の根本的な倫理を共有してない、と受け止めていることをよく感じます。人間主義が定着した世界においては、ある絶対的な規範が神によって人間の外部から与えられている、と信じてそこからすべての論理と倫理を組み立てる人とは、一人の人間として同じ平面でお互いに語り合うことができない、というところに行き着いてしまう。


  魅力的な男たち
塩野 私が本を書くときには、まず書きたい男を決めるんです。ユリウス・カエサルを書きたい一心で、ローマ史を全部書いてしまった。常にそんな感じです(笑)。今度の本でもいろいろと面白い男がいました。
池内 下巻の主人公の一人ともいうべき、ジェノヴァ出身のアンドレア・ドーリア。海賊退治のために組織されたキリスト教連合国の海軍総司令官になる男ですが、実に魅力的ですね。
塩野 彼は書きたかった一人です。
池内 海賊に拉致されたキリスト教国の人々を取り戻しに行く救出修道会や救出騎士団の男たちもいいですね。
塩野 彼らは、現代で言えば「国境なき医師団」だと思います。私が言いたかったのは、彼らが活躍したのは、もう一方で、十字軍が組織され、他の多くの若者がパレスティーナに行っていたのと同時代だということです。脚光があたりやすい十字軍には参加せず、拉致された人々の救出に黙々と汗を流していた。ある種、キリスト教の組織のいい面ですね。
池内 私から見ると、「赤ひげ」と呼ばれるハイルッディーンもいい男ではないかと思います。アンドレア・ドーリアに対抗する海賊の頭目で、最後はトルコ帝国の海軍総司令官に昇りつめる人物ですが、トルコでは海賊ではなく、トルコ海軍の創設者として知られています。
塩野 私は、彼の組織能力を非常に買いました。創設者というのは、そういう面の能力がないとなれませんから。そのほか、大変素敵な男たちがいたので、書いていて楽しかった。現在の日本の政治家たちが少しも面白くないので、大分、欲求不満を解消させました。私は、やはり面白い男たちの顔を見たいんです。下巻には、多くの登場人物の肖像画を載せています。
池内 でも、イスラム史の最も難しいところは、顔がないことなんです。歴史上の偉人を、肖像画や彫像で形にして残すという伝統がない。コーランが禁じている偶像崇拝と見られかねないからです。
塩野 そう、イスラムには顔がない。私もそこは困りました。
池内 以前に塩野さんから、『ローマ人の物語』の後のイスラム史を書きなさいと言われた時に、人物の顔がない世界を描くのは本当に難しいと申し上げました。人間主義が定着していない文明の歴史を描く文体と形式はあるのか。すなわち個々の人間の顔を重視しない文明の歴史は書きうるのか。イスラム教徒なりの書き方はあります。神から宗教を下され、世界を開いていく歴史を彼らは書いたわけです。でもそれは、われわれの歴史観とは相容れないものがあります。
塩野 イスラム世界の人間で顔がわかっているのは、顔を西洋人の画家が描いたからです。
池内 ええ、下巻に登場するオスマン帝国のスルタン、スレイマンの肖像画は、かなり最近のものですね。


  政治の役割とは何か
塩野 この本ではそのスレイマンを始めとして多くの男を登場させていますが、一人の男には絞れなかった。むしろ「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)とは一体何だったのか、政治の役割とは何かを考え続けました。政治というのは、私は究極のインフラだと思っています。一般の人々は自分の身辺のことならば、適当に処理する能力を持っている。しかし、国家の安全保障や治安の維持ということになると、個々人では処理できない。それこそ政治が解決すべき問題です。わが日本の政治家は、政治を高尚なことと思っているのか、「美しい国」を目指すなんて言っているわけですが、大事なのは、食と安全の保障。それこそ「パクス・ロマーナ」が実現したことです。思えば、海賊についての資料は、『海の都の物語』を書いた時にすでに集めていたのです。でも、その時は海賊について書こうとは思わなかった。『ローマ人の物語』を書き終えた後だからこそ、今度の本のテーマにたどり着いたと思っています。
池内 「パクス・ロマーナ」が壊れるとどういうことになってしまうのか。それが『ローマ亡き後の地中海世界』の中心テーマなわけですね。
塩野 要するに、法の精神がなくなるとどうなるのか。腕力が前面に出てくる。
池内 自力救済の世界になってしまうわけですね。
塩野 よく言えば、自力救済ですが。
池内 しかし、大抵、自力だけでは対応できないので、宗教で補完するようにもなる。
塩野 宗教は個人的な精神の平安を与えてくれるのであればいいのですが、人々が絶望した時の希望を与えるようになると困るなと私は思っています。「パクス・ロマーナ」は実に簡単なことだった。紀元二世紀に、皇帝ハドリアヌスがローマ帝国全土を巡回します。文字通りの辺境の軍団基地を巡回しているのですが、驚くほど軽装で旅をしている。技術者集団だけを連れて、一個大隊にさえも警備をさせていない。つまり当時は、一般の人々も安心して移動ができた。私は自分をすさまじいくらいの平和主義者だと思っています。
池内 塩野さんは、ある意味で、極端なまでの近代主義者ではないかと思うんです。
塩野 そうですか。古代主義者じゃないですか(笑)。
池内 古代とつながった近代主義者。おそらく海賊をテーマにした本書は、まさに「近代」というものがなくなるとどうなるかを、露悪的といっては変かもしれませんが、そのままにリアルに書いている。
塩野 ゲーテが、「秩序なき正義」と「秩序のある不正義」のどちらを選ぶかと問われれば、後者を選ぶと言いましたが、私も同じ考えです。大金持ちとかVIPなど自警団を雇える人たちは自分で守れるからいい。でも普通の人は、ただ家を出ないという方法でしか自分の安全を守れなくなる。でも、それでは社会ではない。私は、普通の人々が安心して家を出て、旅ができるという世界を作るのが、統治者の役割だと思っています。
池内 ヨーロッパ中世というのは、沿岸部でも内陸部でもそういう安全が守られなかったんですね。陸でも海でも突然に連れ去られるということが当たり前にありえた世界。


  現代の海賊問題
塩野 本を書き始めた時は、全く予期していなかったのですが、最近、ソマリア沖で海賊が暴れている話が出てきて、にわかにきな臭くなってきました。
池内 つい十年ぐらい前まで、国際政治の中で海賊が大きな役割を果たすなんていうのは冗談の領域でしたが、海賊に対抗するために各国が海軍を派遣したり、国連安保理でも海賊を取り締まる決議がなされるようになってきた。国際政治の中に力の空白ができると、海賊はほんの数年で現われてくるものなのですね。
塩野 この本では、十九世紀半ばで地中海からは海賊が消えたというところまで書きました。もちろん、現代のソマリア沖の海賊については一言も触れていません。でもなんだか急に深刻になってきました。インド海軍が海賊船を撃沈したり、まるでアンドレア・ドーリアの時代が蘇ってきたみたいです。
池内 サウジアラビアのタンカーが海賊に乗っ取られ、身代金を要求される事件も起こっている。
塩野 なぜ海賊はタンカーがこの海域を通ることを事前に知っていたのでしょうか。もしそれを知らせる情報ネットワークがあったら深刻です。こう言っては悪いけど、あの海賊もイスラムですよ。
池内 今のところ彼らも非常に賢くて、アル=カーイダとはつながりがない、と強調していますね。
塩野 サウジアラビアはきっと身代金を払うでしょう。でも、私が最もいけないと思うのは、身代金を払えないような普通の人々が拉致されることです。自衛力のない人たちが一番損をするのであって、彼らがどういう目にあったかを、一千年にわたって書いたのがこの本です。よく塩野七生は指導者の立場から歴史を書いていると言われますが、今回は、まったくの民衆というか、海賊に襲われる一介の庶民の立場から書いたと思っています。
池内 しかしそれが国際政治や経済の「現代的関心」に重なり合うことになってしまいました。たしか、以前にお会いした時は、『ローマ人の物語』を終えてちょっと休む、というようなお話をされていたような気がするんですが。今回の作品も、またも国際情勢の最重要の課題を考えるのに、実に示唆的です。まことに、作家の想像力とは恐ろしいものです(笑)。
(しおの・ななみ/いけうち・さとし)

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