――今回の受賞作「百年泥」は自分の意思に反してインド・チェンナイで日本語教師をすることになった女性が、現地で百年に一度という大洪水に見舞われ、川の濁流に押し流され堆積した泥から現れた品々にまつわる出来事を追体験するという内容です。石井さんご自身がチェンナイで日本語教師をしているとのことですが、実体験が物語に反映されているのでしょうか。
主人公は元夫から借りた金を返すため、日本語教師の仕事を紹介されチェンナイに移り住みますが、私も理由は違えども似たようなものです。夫がサンスクリット語の研究者で、インドに滞在するために現地のIT企業での日本語教師の仕事を見つけてきました。それが三年前のこと。インドやその周辺には何度か滞在したことがあり、以前ネパールに住んでいた時には私も日本語教師の真似事をしていたことがありました。それで夫が「妻も経験があります」と面接で話したところ、相手のインド人役員が「じゃあご夫婦で来てください」ということになっちゃった。私は行きたくなかったのですが、夫の都合で連れて来られたんです。これも主人公と同じく、日本語教師としての資格もなく、毎日手探りで教えています。ですから、この小説には夫への恨みが多少入っているかもしれません(笑)。
――この大洪水も実際に経験されたのですか。
二〇一五年の十二月にチェンナイで起った大洪水をモデルにしています。三日間家から出られず、ようやく水が引いて会社に行こうとしたら途中の橋が泥だらけで、それを見物しようとあちこちから人が大勢集まって身動きが取れなくなってしまいました。それを警官が怒鳴り散らして群衆を追い立てて……その出来事が印象深く、いつか小説に書きたいと思っていました。
――インドといえば、混沌というイメージがありますが、この作品でもそれが濃厚に出ていると思います。
私にはむしろあっけらかんとしているという印象なんです。確かに日本との違いにいろいろと驚くことも多いですが、特にチェンナイのある南インドは北に比べて人も温厚で気候も幾分過ごしやすい(といっても最高気温は四〇度ですが)。小説でも書いたように、みんな信心深いですが、あくまで現実が大事であって、崇高な精神性というのはあまり感じません。私が経験した大洪水でも、それを日常として受け入れているように見えました。それは暮らしやすいということでもあるのかもしれませんね。しかし一方で、カーストの問題は根深いですし、持参金が少ないからといって花嫁を殺してしまう「持参金殺人」やいわゆる「名誉殺人」もいまだに後を絶ちません。単に能天気な人々を描くだけでなく、そういった闇の部分についても描いたつもりです。クラスの冷笑的な生徒として登場するデーヴァラージの生い立ちにその面を担ってもらっていますが、彼の人生にまつわるエピソードは創作しました。
――インドの話だけでなく、主人公の人生、特に母親との関係の描き方は大変巧みだと選考会でも評価されました。
私の母親はまだ存命ですが、あんな性格ではないですね。作中の母親はいわゆる緘黙症(特定の場面や状況で話せなくなる)ですが、主人公を、話の都合上「愛想がなくて人付き合いの苦手な人」と設定し、その由来を説得力あるものとするためにあの母親を造形してみたら、こういう話になりました。そして彼女が何を考えているのかを表現しようと考えたら、昔の同級生の同じく物静かだった女の子の存在が自然と現れてきたんです。
――それぞれのエピソードの完成度も高く、翼を背負って飛ぶ人々のような非現実的な設定にも説得力が感じられるという声も聞かれました。いわゆるマジック・リアリズムの作品としても読まれうると思います。
たしかに、ガルシア=マルケスが大好きですから、影響は受けています。現実をそのまま書くのではなく、非現実的なことを書くことでありのままを描くということを目指しています。世界というのは、会話にせよ出来事にせよ、論理的にはつながっていないことのほうがむしろ当然であって、人がそれを論理に当てはめて理解しているだけだと思う。そういうけったいな――大阪出身なので「けったいな」という言葉が好きなんですけど――、荒唐無稽な小説が好きです。
――構成もよく練られていて、橋を渡り始めるところから始まり、渡り終えて物語が終わるというのが非常に小説的だと思います。
その設定を思いついたところで、書けると思いました。
――何作も書いているように見受けられましたが。
子供のころから文章を書くのが好きで、小説らしいものが書けるようになったのは大学に入ってからなんですが、以来ずっと書き続けてきました。新人賞にも毎年のように応募していましたが、唯一二十年前に文學界新人賞の最終候補に残ったくらいで、あとはどこからも声がかからないまま書いてきました。おそらく百作近くは書いてきたと思います。でも、私の小説はやっぱりけったいなものばかりだから評価されないのかなと思っていたので、今回受賞できてうれしいですし、びっくりしています。
「百年泥」は、昨年日本語教師の仕事がちょうど暇になった三か月間があって、その間に書くことができました。チェンナイに来てから初めて書いた小説で、インドで出会った生徒たちのおかげでこんなけったいな小説が書けたんだと思います。だから彼らに感謝しなきゃならないかもしれませんね。そして結果的にきっかけを与えてくれた夫にも(笑)。
――どのエピソードも一筋縄ではいかないところなど、人生経験が反映されていると思いました。
まあ、若くはないですから。学生時代から小説を書き始めて、八〇年代半ばですから当時はバブル真っ只中でしたが、同級生たちが次々と大手企業に就職を決めるなか、自分は就職するつもりがまったくありませんでした。でも生活するために働かなくてはならず、様々な職を経験しました。作中のサラ金の場面は、実際にそういう会社で働いていましたし、元夫が登場するくだりでは、こういう「紹介屋」(多重債務者に借金先などを紹介する)に勤めたこともあります。あまりに胡散臭いので一日で辞めましたが。他にも洋菓子職人やスナックのホステス、医学実験用の動物を販売する会社、草津の温泉旅館で仲居など、いろいろあって思い出せないくらいです。そういう経験が小説で活かせるとしたら、無駄ではなかったということですね。
――主人公が達する諦観の境地に、宗教的なものが感じられるという意見も選考会で出ました。
大学院で仏教を研究していました。仏教には「刹那滅」という言葉があります。世の中は一瞬一瞬がその都度生起しているという考え方です。だから「恒常的なもの」はすべて疑わしい。そういう思想はごく自然に受け入れています。
――先ほどガルシア=マルケスの名前が出てきましたが、特に好きな小説はなんですか。
代表作の『百年の孤独』ももちろん好きですが、一番は『族長の秋』です。どこから読んでもほんの二、三行の中にとても濃密なエピソードが書かれていて、いくらストーリーがもつれこんがらがってもずっと読んでいられます。
ちなみに同じように好きなのが三島由紀夫で、小説を読み始めた高校生の頃に手に取って、以来愛読しています。中でも『愛の渇き』は以前インドに滞在していたときに日本から唯一持っていった小説でした。読み終えるとまた読み始めて、読み終えたらまた読み始めて……それを何度繰り返しても飽きません。ストーリーを楽しむというよりは、文章を通じて浮かび上がってくる情景を経験するのが好きなんだと思います。
他には、セリーヌの『夜の果てへの旅』が大好きで、これも何十回も読み返しています。でもおそらく、セリーヌというより生田耕作の訳が好きなのでしょう。他の人の訳で読んでもあまりピンと来ませんでした。
ちなみにいまの職場の机には日本から持ってきたこれらの本が並んでいます。作中の主人公と同じく私も授業で失敗することばかりですが、その度にこれらの本を開いて自分を慰めています。
――今後はどのような小説を書いていきたいですか。
やっぱり、けったいで、ほんまかいなと思わせるような小説を作りたいです。私もそういう小説を読みたいですし、書いていても楽しい。
先ほども言いましたが、私はあまり仕事が長続きしないんです。決して飽きっぽいわけではないものの、どういうわけか続けられなくなる。もう私が持っているカルマ(業)としか言いようがない。しかしそんな中、唯一続けてこられたのが小説です。私にとっては、小説を書かなくなるということは人間を辞めることに等しくなってしまう。ですから何を言われてもこれからも書き続けようと思います。