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【冒頭部分掲載】

氷塊

平野啓一郎


 真夏の午後の太陽が、町の全体を頭痛に倦んだ巨大な白鳥のように抱擁していた。その翼は、人々の頭上を遍く覆って、風を遮り、熱気を籠め、アスファルトの上を行き交う彼らを少しく息苦しくさせていた。
 八月に這入って、最初の木曜日のことだった。

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 駅前のロータリーは、客待ちのタクシーで混み合っていた。バス停の屋根の連なりを潜って正面の信号を渡り、そこからまっすぐに市役所方面へと伸びる片側二車線の県道を歩き始めた少年は、ほどなくふと、通りの反対の歩道に視線を向け、そこに垂れ籠めたビルの影の見る目も涼しい長い連なりを認めて、覚えず周囲を見渡した。気がつけば、汗だくになって北側の歩道を歩いているのは彼独りだった。偶然だとは思えなかった。みんなわざと向こう側を歩いているんだ。それが真夏に街を歩く際の常識であるのか、それとも単に今のこの状況での自然な判断であるのかは分からなかったが、そうした一般的な知識から、或いは知恵から、ただ自分だけが取り残されているということに、少年は軽い驚きを覚えた。自分がそれを知らなかったということが不思議だったし、また、外の誰もが当然のように知っていることも不思議だった。南側の通りを歩く者達は、皆澄ました、当たり前だという風な顔をしていて、その眉間は、陽射しから逃れて皺一つなく晴々としている。その様を、疎らに行き交う自動車越しに眺めている少年の目こそは、眩しさに震えながら萎縮する上下の瞼の影を知っている。そして、その睫の隙に霞みを帯びて開いた視界には、駅を出て、刹那に見上げた太陽に激しく焼きつけられた光の残像が、今も瞬きに抗して執拗にちらついている。
 少年は、そうしたことに気がつきはしたものの、しかし、通りを渡って、五六階建てのビルが雑然と並ぶその歩道を歩こうとはしなかった。彼は今、まさしく県道の南側に面して建つ市立図書館を目指していたが、そこには、このまま北側の歩道を辿って行き、建物の正面入口に伸びる信号つきの横断歩道を渡る道順を考えていた。それまでは、決して振り返ってはならなかった。そして、どうにかあの公園横の喫茶店の前を通り過ぎることが出来たならば、信号を待つ一瞬の間を見計らって、店内を確認しようと思っていた。
 計画は、どんなことがあっても実行するつもりだった。今日を逃せば今度こそ永久にその機会は失われるに違いない。先週のあの取り返しのつかない過ち。……どうしてあの時、思いきって店内に這入って行く勇気を持てなかったんだろう? あんなに待ち望んでいたのに。あんなに激しく、苦しいほどに毎日、その瞬間のことだけを考えていたのに。……


続きは本誌にてお楽しみ下さい。