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【冒頭部分掲載】

氷塊

平野啓一郎


 昼食後に居間で暫く母親と談笑し、二階の自室に戻って漸く外出の準備に取り掛かった女は、クローゼットの中を覗き込み、何を着ていこうかと思い迷いながら、今し方の母親の表情のことを考えていた。
「今日も、夕食は要らないのね?」と、椅子を立った娘に対して、彼女は努めて感情を表さぬように言った。女はそれに、「うん、外で食べてくるから。」とだけ短く答え、その顔色を窺い、すぐに目を逸らして逃げるように階段を上ってきた。深く事情を訊こうとする訳ではない。業を煮やした父親が、その話題に触れようとする時には、寧ろ庇ってくれさえしたが、だからこそ彼女には、本当は、もう事の一切が母親に知られてしまっているのではあるまいかと不安を感じていて、殊にそうした予感が強く働く時には、真面にその顔を見ることが出来ない。疚しさというより、何か申し訳のないような気持ちである。そして、そうした心情に、肌艶や体力以上に自分の年齢というものを感じる。
 部屋着を脱ぎ、ショーツを脱いで全裸になると、女は箪笥の引き出しから白いレイスの下着を取り出して、その上下を身に着けた。そして、膝丈ほどのスカートと薄手のブラウスとをそれぞれ数種類、ベッドに並べ、その組み合わせを考えた。
 あの人、今日は何を着てくるんだろう?……そんなことを考えながら、姿見の前でそれらを体に合わせてみる自分を、彼女は自嘲気味に健気だと思った。向こうは一度でも、デートの前にそんなことで頭を悩ませたことがあっただろうか? そして、ほんの軽い冗談のつもりだった、そうした不満の予想外の根の深さに、改めて思いを致した。彼とつきあい始めてからというもの、彼女は、費やされる愛情と与えてもらう愛情との均衡を考えないようになっていた。少なくとも、考えぬようにしていた。それが対等であることを望むのであるならば、そもそも「不倫」という関係など成り立たない筈である。必ずしも卑屈になっていた訳ではない。それ故の気楽さと自由とはあったし、向こうに負い目がある分、強く出られるところもあった。自分では、そうして存外、割りきって考えることが出来ているつもりだった。それが、もう、うまくいかなくなっている。折々、何の意識もなく、思ったり、考えてみたりすることの中に、よく目を凝らしてみると、丁度今のような、彼の愛情の不足を、或いは逆に自分の愛情の過剰を嘆く心情が入り混ざっている。それが彼女に、今更のように、そもそもの無理を自覚させる。しかし、それならばと、男がきっぱりと家庭を捨て、自分のところに来てくれることを望んでいるのかといえば決してそうではない。心の中では、そんな大変なことになってしまったらどうしようという不安がある。そして結局は、自分自身が一番だらしないのだと思って、嫌な気分になるのである。


続きは本誌にてお楽しみ下さい。