ホーム > 新潮新書 > 新書・今月の編集長便り > ベストセラーの始まり

新潮新書

今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

ベストセラーの始まり

 新聞報道等ですでにご存知かと思いますが、9月1日、『バカの壁』が400万部に到達いたしました。発売から2年半が経っても依然として毎日コンスタントに読まれており、まことにありがたいことだと思っています。おかげさまで新書分野の記録も更新し続けているのですが、今回の400万部到達で困ったのは、「で、その400万部というのは、新書だけではなく単行本も含めたベストセラーとしては、歴代何位なんですか?」という問い合わせが多かったことでした。

 実を言えば、この質問に対しては「わかりません」としか答えようがないのです。もちろん歴代の大ベストセラーとしては、700万部を超えたといわれる『窓ぎわのトットちゃん』、500万部の『五体不満足』、上下で400万部の『日本沈没』などの書名がすぐに頭に浮かびます。しかし、これらが最終的に何部まで行ったのかは版元でなければわかりませんし、いずれもすでに文庫に収録されていますから、その部数まで含めるとちょっと見当がつきません。
 新書の「記録」が見えやすいのは、新書も文庫もペーパーバックであり、新書から文庫への再録は原則として行われないから、ともいえるのです(もっとも最近では新書を文庫で出し直したり、本来は文庫で出すべき名著を、タイトルを変えて新書で出し直すようなことも行われているようですが……)。
 ちなみに、こうした部数については「どうせ出版社が水増しした“公称”だろう」と疑う向きもあるかもしれませんが、一般的にはそれはあり得ません。著者に対する印税の問題もありますので、部数は常に正確に発表しなければ出版社も自分の首を絞めることになるからです。少なくとも新潮社の場合、増刷のたびに印刷所の発行する証明書(いつ何部刷ったか)を著者にお渡しするようにしています。
 ただし、念のために申し添えておくと、こうした「部数」はあくまで「出版社が発行した部数」であって、その時点で正確に何部売れているかはどの出版社もわかりません。本の流通が委託販売制というシステムをとっているからなのですが、とはいえ刷り過ぎれば返品の山になりますし(大赤字)、刷らなければ品不足になるわけですから(売り損ない)、最終的には発行部数と実売部数は自ずと近づいていくのです。
 そのあたりの出版流通の基本的な仕組みをお知りになりたい方は、『だれが「本」を殺すのか』(佐野眞一著、新潮文庫)をご一読ください。

 さて、「歴代何位か」という質問には、はたと困ってしまったのですが、そもそも100万部を超すようなミリオンセラーがいつ頃から登場したのかという問いに設定し直すと、がぜん興味がわいてきます。

 戦後の大ベストセラーといえば、昭和20年に360万部の大ブームを起こした『日米会話手帳』が半ば伝説になっており、これが嚆矢ということになるでしょう。さらに、昭和29年に創刊されたカッパ・ブックスは、『英語に強くなる本』をはじめミリオンセラーを連発し、昭和30年代の出版界を席巻しました。そもそも「ベストセラー」という言葉も、カッパを作り上げた神吉晴夫が定着させたといわれています。
 では、戦前はどうだったのか。ミリオンセラーはなかったのか。
 結論から言えば、どうもよくわからない、というのが真相のようです。というのは、流通システムも違いますし、伝票や帳簿が残っていないため、「発行部数」すら正確につかめないのが実情なのです。例えば、昭和初期に「円本ブーム」を巻き起こした改造社の「現代日本文学全集」も23万部説から60万部説まであって、はっきりしません(塩澤実信著『定本 ベストセラー昭和史』を参照)。
 ただ、そのような不確かな数字であることが前提ではありますが、巷間「100万部売れた」とされている作品はあります。最もよく知られているのが、改造社が円本より前に刊行した、賀川豊彦の『死線を越えて』でしょう。
 改造社は、“政治家兼ジャーナリスト”とでも言うべきユニークな人物であった山本実彦が一代で興した(そして一代で消えていった)出版社ですが、その出版活動は大正8年の雑誌「改造」の創刊に始まります。ところが、最初の年はまったく売れず、経営も火の車。そこにたまたま翌9年の新年号から無名の社会運動家の自伝的な小説を載せたところが、これが大人気。連載を途中で打ち切って、単行本として刊行されたのが『死線を越えて』でした。この本は、翌10年にかけて100万部に達したといわれています(松原一枝『改造社と山本実彦』)。
 余談ながら、大正10年にバートランド・ラッセルが、そして大正11年にアインシュタインが来日しますが、彼らを招待したのも山本です。いうまでもなく、その原資となったのは『死線を越えて』の収益でした。当時中学生だった湯川秀樹がアインシュタインの講演を聴いて物理学の道へ進むことを決めたといわれていますから、山本や賀川の存在、そして1冊のベストセラーの誕生が、日本が誇る大物理学者を生んだともいえるわけです。人の巡り合わせというのは、本当に面白いものです。

 われわれの仕事が、果たして人様のお役に立っているかどうかはわかりませんが、「新潮新書は『バカの壁』1冊で消えた」などと言われないように、これからもベストセラーを目指して、読み応えのある面白い本を作っていきたいと思っています。
 この秋も新潮新書は粒ぞろいですので、書店でぜひ手にとってみてください!

2005/09