天才の栄光と挫折―数学者列伝―
1,210円(税込)
発売日:2002/05/17
- 書籍
きらびやかな衣の下に隠された、天才たちの生身の人間像。
ニュートン、関孝和、ガロワ、ハミルトン、コワレフスカヤ、ラマヌジャン、チューリング、ワイル、ワイルズ。いずれおとらず、天才という呼称をほしいままにした九人の数学者たち。が、選ばれし者ゆえの栄光が輝かしくあればあるほど、凡人の何倍もの深さの孤独や失意に、彼らは苦悶していたのではなかったか。同業ならではの深い理解で綴る錚々たる列伝。
書誌情報
読み仮名 | テンサイノエイコウトザセツスウガクシャレツデン |
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シリーズ名 | 新潮選書 |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 256ページ |
ISBN | 978-4-10-603511-1 |
C-CODE | 0323 |
ジャンル | 科学史・科学者、科学 |
定価 | 1,210円 |
書評
波 2002年6月号より 天才数学者たちに祈りを 藤原正彦『天才の栄光と挫折―数学者列伝―』
ところが、数学となるとどうだろう。もちろん数学の世界にも天才は存在する。そのことはよく知っている。けれど残念ながら私には、フェルマーの最終定理を証明したアンドリュー・ワイルズの論文を、一行たりとも理解することはできない。三世紀半にわたり、幾多の天才たちの挑戦をしりぞけ、最大の難問として君臨し続けた定理が、一人の控えめなイギリス人によって遂に解きあかされた、という事実に、ただ感嘆のため息を漏らすばかりだ。
凡人の頭では一行も理解できない証明が、完全無欠の論理に貫かれた、永遠の真理を示す……そこに、天才数学者たちの魅力の秘密が隠れているように思う。彼らは何者かによって特別に選ばれた人間として、私たちには到底たどり着けない、存在の気配にさえ気づかない真理を、数の世界を通し、一つ一つ明らかにしてゆく。そうして人間の精神に栄光をもたらす勇者となる一方で、選ばれた者としての代償を、払うことになるのだ。
『天才の栄光と挫折 数学者列伝』に取り上げられた九人の天才たちの生涯を追ってゆくと、数学がいかに深く、美と結びついた学問であるかがよく分かる。ボウリングのスコアが計算できない、ホテルの部屋番号が覚えられない、私のような人間にとって、数字はただの無機質な記号でしかない。しかし一流の数学者の手に掛かると、そこに、物語が発生する。
例えばハミルトンは、ワーズワースと親しく交際し、詩作にも才能を発揮したのだが、“数学の目ざす真と詩の目ざす美とは同一物の二側面である”と言っている。九人中、ただ一人の女性コワレフスカヤは、永遠を求める数学と、有限の生を描く文学を共存させることで、自らのバランスを保った。また先に述べたワイルズは、最終定理が解決した時の閃きについて、“形容できない、美しい瞬間でした”と述べ、絶句している。
不条理にあふれる混沌とした世界を、一つの定理が統制する。しかもそれは未来永劫、真理であり続け、不滅である。そんな定理を生み出す数学者たちは、この世を支配する時空から解放され、永遠の美に手を触れる。
従って彼らは必然的に、神の領域を意識するようになる。ニュートンは“神の御業を知ることは神に栄光を加えること”という信念で研究に没頭し、インド出身のラマヌジャンは、この世のものとは思えないほどに美しい公式の誕生を、“ナーマギリ女神のお告げ”によると信じていた。
神の声を聞いてしまった者たちが払う代償は、あまりにも大きい。九人の天才たちが確立した美に物語があるのと等しく、それぞれの人生で味わった挫折にもまた、物語がある。ある者は病に倒れ、ある者は恋に破れ、またある者は決闘で命を落とす。
著者の藤原正彦氏によれば、綿々と思い続けるのが数学者の特技であるらしいのだが、その特異な集中力が数学を離れ、実生活にまで及んでくると、途端に物事はうまく運ばなくなる。ハミルトンやチューリングが、初恋の人に寄せる思いの深さは、純情を通り越して痛ましくさえある。
特に不器用なのは、自ら同性愛を警察に告白し、自殺したチューリングだろう。第二次世界大戦中、国家を救うため暗号解読に才能を捧げながら、その同じ国家によって破滅させられたのだ。十五歳で出会った初恋の人の、踏んだ土をも崇拝したという彼の一途さを思うと、胸が痛む。
数学音痴の私が読んでも、本書は真っすぐ感情に響いてくる。それはたぶん、天才たちに寄せる藤原氏の敬愛の情が、全編に流れているからだろう。コワレフスカヤの墓の前で、いちいの木の実を掌に置く場面や、一九三三年だけ空白になった、ヘルマン・ワイルの著作リストを眺める場面など、映画のラストシーンを見つめるようだった。
本書を閉じた時、目に見える実益とは無縁の、純粋で崇高な真理に命を掛けた人々に、そっと祈りを捧げたい気持になった。
▼藤原正彦『天才の栄光と挫折―数学者列伝―』は、発売中
担当編集者のひとこと
天才の栄光と挫折—数学者列伝—
どんな天才でも神様であるはずはない。
自身も数論を専門とし、米コロラド大や英ケンブリッジ大で教鞭をとった経験をもつ数学者である著者にとって、本書に登場させた九人の数学者たちは、ずっと「神のように思ってきた」存在でした。
しかし、ゆかりの地に実際に足を運び、関連書物を渉猟して、彼らの人生を追ううち、「神ではなくなった」そうです。 それはなぜか。では、天才とは、一体何者なのか。
例えば、本書のトップバッターのニュートン。リンゴが木から落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見した、あの知らぬ人のいない天才ニュートン。みな彼の人生を選ばれし者ゆえの祝福に満ちたものと考えているでしょう。が、ニュートンの父親は、生まれたときにすでに亡くなっており、三歳の時には母親が彼をおいて再婚、寂しい幼年時代をすごし、その心の傷を彼は終生胸に秘めていた。
ニュートンばかりでなく、関孝和、ガロワ、ハミルトン、コワレフスカヤ、ラマヌジャン、チューリング、ワイル、ワイルズも同様。本書に登場する天才数学者たちは、九人九様ながら、人間としての深い悩みや挫折感を抱えて生涯を送ったらしい。
数学者として彼らの業績の凄さを知りつくした著者が得た結論、それは、天才としての栄光が輝かしくあればあるほど、凡人の何倍もの深さの孤独や失意に、彼らは苦悶していたのではなかったか、ということでした。
同業ならではの深い理解と愛情をもって綴られた、力作評伝です。
2016/04/27
著者プロフィール
藤原正彦
フジワラ・マサヒコ
1943(昭和18)年、旧満州新京生れ。東京大学理学部数学科大学院修士課程修了。お茶の水女子大学名誉教授。1978年、数学者の視点から眺めた清新な留学記『若き数学者のアメリカ』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞、ユーモアと知性に根ざした独自の随筆スタイルを確立する。著書に『遥かなるケンブリッジ』『父の威厳 数学者の意地』『心は孤独な数学者』『国家の品格』『この国のけじめ』『名著講義』(文藝春秋読者賞受賞)『ヒコベエ』『日本人の誇り』『孤愁 サウダーデ』(新田次郎との共著、ロドリゲス通事賞受賞)『日本人の矜持』『藤原正彦、美子のぶらり歴史散歩』『国家と教養』等。新田次郎と藤原ていの次男。