司馬遼太郎が愛した「風景」
1,540円(税込)
発売日:2001/10/25
- 書籍
“風景の目利き”司馬遼太郎に手をひかれ、旅に出かけよう。
書評
白洲さんと司馬さんからの贈り物
この秋、関東と関西にユニークなふたつの記念館がオープンする。ひとつは東京都町田市鶴川に、白洲正子さんの住居をそのままの姿で愛用の骨董などを展示する「武相荘」。いまひとつは東大阪市八戸ノ里、司馬邸の敷地つづきに開館する「司馬遼太郎記念館」である。これを機に、小社から『白洲正子“ほんもの”の生活』と『司馬遼太郎が愛した「風景」』と題した二冊のとんぼの本が刊行される。
初めて白洲正子さんにお目にかかったのは、一九六八年「芸術新潮」に氏の「かくれ里」が連載されていた時だった。当時の編集長・山崎省三にお供して、編集助手をつとめる挨拶に鶴川のご自宅を訪ねたのである。着流し風に軽々と着物をお召しだった正子先生は五十代の終わりの頃、素敵! それまで出会ったことのない類いの大人の女性だった。優しく接していただいたが、あいまいな答えをしたり、お愛想じみたことを口ごもると、ギロッと大きな眼が向けられる。ちょっと怖くもあった。でも、山崎編集長との打ち合わせがストンストンとはまって進むさまを、新米編集者の私はまるでテニスの試合を見物するみたいに、右、左と眺めていたっけ。その後は、月に数度、原稿や校正を頂くために鶴川通いを重ねた。
周辺は田園が広がり、裏山を背に厚い茅葺きの、きりっと美しい農家風たたずまい。深い竹林もあれば、風情ある折々の花が絶えない庭。冬ならば、庭先の侘助の大木から、白い椿がホタホタと降ってくる。そんな花々が上がり框脇の大壺にどっさり投げ入れてあった。内部は正子ワールドそのもの、うかがうたびに新しい発見と驚きがある。やきものの面白さ、骨董の魅力のほんの一端を知ったのもここでだった。「名品かどうか、そんな世間的な評価はどうでもいいの。語りあえるものが好きなだけ」と言われた。正子流ブレンドの焙じ茶が、実に香ばしくて美味しかったな。
以降「自伝」連載などたびたび「芸術新潮」にご登場願ったのも、白洲正子とは何者なのだろう、もっとこの〈ホンモノ〉を知りたいという思いが心の底にあったからだ。面とむかって聞いたら、「そんなこと知らないわ」と横を向く白洲さんに、何度も胸を借りては特集や対談を企画したものだった。そうしたエッセンスが、このとんぼの本には詰めこまれている。
白洲邸に武相荘の名をつけたのは、亡き夫君、次郎氏。武蔵と相模の境に位置し、音が無愛想に通じることを面白がられての命名ときく。今この辺りは宅地化の波がおしよせ、茅葺きの武相荘とその一画の自然だけが、島のようにぽっかりと取り残されている。十月十一日に開館。
司馬遼太郎さんが急逝されたのは一九九六年の二月のことだった。ショックだった。かつて、「帰りたい風景」というテーマで原稿をお願いしたことがあり、司馬さんは「涙腺に痛みをおぼえるほどに懐しい」風景として竹内街道の大和寄りの集落あたりをあげて下さった。そこに母上の実家があったのだ。幼時をすごした竹内の山河が、鮮やかに目にうかぶ名文だった。
急遽、特集を組むことになった。編集部が手わけをして、司馬さんの新聞記者時代の美術随想や『街道をゆく』シリーズなどを読みあさり、日本各地に取材に飛んだ。もちろん竹内街道にも。司馬さんの指差すものには必ず人間が添っていた。天才や偉人と同じ土俵の上に名もない無数の人々が、どっこい生きていた。司馬さんに手をひかれ、さまざまな出会いと体験を重ねた全員が心豊かになって帰ってきた。この特集をふくらませ、現地に足を運びたい方のための具体的な情報を加えて贈る『司馬遼太郎が愛した「風景」』である。
雑誌の取材に際し、東大阪市のご自宅にみどり夫人を訪ねた。膨大な蔵書が書斎から廊下へ、さらに玄関にまで溢れ出していた。書斎のすぐ外には、不思議なものがあった。輪切りにした太い土管が置かれてあったのだ。土を盛った土管に咲き乱れていたのは可憐な露草たち。夫人によると、執筆に疲れた司馬さんが愛でたのだとか。早春には、お好きな黄色い菜の花が土管を埋め尽くしたそうである。
十一月一日にオープンする司馬遼太郎記念館へは、この土管の脇を、書斎を覗き見る形で抜けていく。吹き抜けの館、高さ十一メートルに及ぶ壁面全体を本棚とし、司馬さんが執筆の手がかりとした二万冊を超える書籍で覆うという安藤忠雄氏の設計、雑木林に囲まれた記念館は司馬さんにふさわしい。
(やまかわ・みどり 前「芸術新潮」編集長)
波 2001年10月号より