妻の超然
1,540円(税込)
発売日:2010/09/30
- 書籍
文学がなんであったとしても、化け物だったとしても、おまえは超然とするほかないではないか。
インタビュー/対談/エッセイ
異色の「超然三部作」
妻の超然/下戸の超然/作家の超然/超然とは「受苦」である
妻の超然
辻原 最新刊の『妻の超然』、非常に面白かったです。収録されている三篇のうちの一つ目「妻の超然」は、小田原に住んでいる妻が主人公ですね。馬込の豆腐屋に生まれた、理津子という人。結婚は遅くて、夫はだいぶ年下。
絲山 合コンで知り合うんです。今でいう婚活というやつですね。
辻原 彼女はこの文麿という年下の男と結婚して、小田原に移り住む。ところがこの男がどうも浮気をしているらしく、理津子はそれに気づきながらいろんなことを考えている。夫の生態を妻の視点から観察している感じなんですが、これが絶妙で、彼女の周りには、舞浜先生という料理の先生に、妹の響、それからタクシー運転手をしている女友達などが配されていて、人間関係がとてもうまく描かれている。変わっていて、憎めなくて、でもちょっと辛辣、そういう人たちが近くにいて、夫は向こう側にいる感じなんですが、でも時々クロースアップのように迫ってきたりもする。彼女が「超然」という言葉をつかむまでの描かれ方に、すごくスリルがある。そして、その言葉をつかんだ時に夫はなぜか彼女のもとに戻ってきて、でも、超然たる妻と夫はまだまだこれからいろんな苦労をしながら生きていくんだろうなと思っていたら、ふっと窓の外を見て……最後の一言が面白いですね。
絲山 ありがとうございます。私自身はずっと独身で、妻の立場というのはまったくわからないまま書いたんですが……。
辻原 いえ、僕が妻なら(笑)、妻の立場が身にしみるように描かれている。三つ目の「作家の超然」で書かれているように、架空と架空でないものの世界は、実は地続きなんですね。妻としての経験が絲山さんになくても、逆にそのほうがものごとを言い当てていたりすることが多いと思うんです。これはそういう「言い当てる」部分の積み重ねで成り立っている小説だと思います。ラスト近くで、一緒の布団に寝るでしょう。ああいうところの間合いも見事ですね。
絲山 開かずの襖をずばりと開けて。彼がどうしてそこで襖を開ける気になるのか、私にもわからないんですよ。
辻原 そういうことが一番確かなんじゃないでしょうか。つまり書いているうちにふと思いついたところに、小説のリアリティというのは出てくる。でもそれは、小説全体の構造がしっかりしてないとうまくいかない。この作品ではそれが実にうまくいっていると僕は思う。ここに至るまでに、一人称に近い三人称で見事に夫を立体的に描いているからこそ、ここでの展開がリアルに感じられる。
絲山 こういう書き方をするには、百枚が限界かなと思うんです。辻原さんに選考していただいたデビュー作も百枚ですが、一番自分が出てしまう枚数なんですね。もっとあれば自分を隠すこともできるし、もっと短ければ、いいところだけ出すこともできる。
辻原 つまり自分の腕が全部見えてしまうわけですよね。でもそれに挑戦された。この三作、どれも百枚ぐらいでしょう。
絲山 はい。一つの言葉を使って百枚、というのを三回続けてできるかのトレーニングのような感じでもありました。
下戸の超然
辻原 二つ目の「下戸の超然」では、男の会社員が主人公で語り手です。北九州の出身で、福岡で大学院まで出て、つくばにある白物家電のメーカーの研究所に就職する。三十そこそこで、酒がまったく飲めない。
絲山 私のような大酒飲みが下戸について書くというのは、これもまた「妻の超然」と同じことで、読者や友人には「下戸の気持ちがわかるのか」「本当に書けるのか」なんて言われました。
辻原 そりゃ書けますよ。分かりますよ。この作品でも、土地のことがしっかり描かれていますね。北九州やつくばの地理、空間の移動がきっちりと書かれている。「作家の超然」でも触れられていることですが、空間の移動を書くということは、実は時間を書いているということなんですよね。「妻の超然」では、最初のうちから妻に超然とした態度と自覚がありましたが、この「僕」が超然という言葉に出合うのは、最後のほうですね。
絲山 恋人に「そうやっていつまでも超然としてればいいよ」と言われて、それに対してすごく反発を覚える。
辻原 結末近くにこれを持ってきたのがいいと思いました。超然という言葉への認識や語られ方は「妻の超然」とまったく違っていて、続けて読んでいくとそこが面白い。性別も違いますし。
絲山 実は私は、一時期から男性の一人称で書くほうが楽になってしまったんです。それが「作家の超然」を書く時に問題になってくるんですが。
辻原 単純な言い方ですが「下戸の超然」は、本当に女性が書いたとは思えない。
絲山 この語り手は、性別だけでなく、年齢も私とは違う。そこも挑戦してみたいところではありました。
辻原 親父さんがまた面白い。時々いなくなって、スクラブルというパズルゲームを持ってきたり、車を買ってきちゃったりする。手芸店をやっているお母さんもいいし、妹もいい。こういうところは絲山さんの真骨頂ですね。主要な人物だけではなく、それを取り巻く人たちの魅力というのがあって、なまじストーリーに囚われないで、周りの人たちが動いてれば、もうそれでじゅうぶん面白い。僕はそういうのが絲山さんの小説の本当にいいところだと思うし、非常に高く買うところなんです。
作家の超然
辻原 そういうふうに二篇を読んできて、最後がこの「作家の超然」ですが、これを最後まで読んで、僕はちょっと驚きました。主人公は作家らしき人物ですね。
絲山 私小説というわけではないですが、そう思われても仕方ないような書き方で始まります。
辻原 語りは「おまえ」という二人称。どこかに語っている誰かが隠れているような感じで進んでいく。途中、ひょっとしたらこれは怪しいぞ、というものも現れますね。病室の隅にいる黒いもの……
絲山 主人公を「おまえ」と呼んでいる人はあれなのか、と思われたんですか。
辻原 思いました。あいつがワッとつかみかかってくるぞみたいな感じが、読みながらしていた。結局、語り手は最後まで捉えがたいままなんですが。呼びかけられる側の「おまえ」が誰なのかということも、実ははっきりとは捉えがたい。
絲山 途中から「おまえ」というのはこの作家のことだけではなくなってきます。場所によっていろんな人を、読者を指さしていたり、作家志望の人を指さしていたり、言ってしまえば身も蓋もない、凶悪な小説なんですが、「おまえ」というのは、だんだん無差別に何かを糾弾していくような言葉になっていく。新聞についての描写のあたりからですね。
辻原 新聞というものが、「父的なもの」を代表しているんだ、という言及も面白い。
絲山 読み返していくと、実は父的なものが弱っていくというテーマが、三篇を通じて描かれているんです。
辻原 ああ、なるほど。「妻」の父もそうだし、「下戸」の主人公の父も手術をして、久しぶりに帰省した時には弱り切っている。
絲山 はい。ただ、三篇のうち、父が弱ることをどうしても信じたくないのが、この「作家の超然」の主人公です。
辻原 父的なものの没落を受け入れられずに、ソウル・ベローの「黄色い家」という父親の出てこない小説の中に、父を探したりもする。それから、経済学というものが出てくるのも面白いですね。
絲山 経済学というのはお金を使った何かのたとえであるという考えがずっと頭の中にあるんです。大事な場面で、ふとそこに垂れ下がっている縄梯子のようなものが経済学だったりする。
辻原 この作品で書かれているように、それは文学と同じなんだと僕も思います。恋愛だとか暴力だとか、裏切りとか偶然とか運命、これは文学が相手にする。そして、経済学は貨幣とか交換とか価値とか。どちらも確実なものではないけれど、人は何かの時にふとそれをつかんでいる。結末近くで語り手が「おまえはこの町に来て初めて知ったのだ」と言うとき、この「おまえ」はもう無差別、不特定なものではありませんね。
絲山 ここで戻ってきていますね。
辻原 そしてさらに、「おまえ」は語り手と一つになっていると思う。そして「文学は長い移動を終えて、ついに星のように滅亡するだろう」というとき……
絲山 もう語りの主体がいないですね。たぶん最後に、夕映えが現れるのを待っているときには、「おまえ」も語り手も同じ側に立っているんだと思います。
辻原 「おまえは待っている。ただ待っている」。ここにはある種の、救済というか、再生の気配があります。何かが「降臨」するのを待っていると言ってもいい。
超然とは「受苦」である
辻原 これを読んで僕が思い浮かべたのは「パッション」という言葉なんです。超然というのはパッションだなと。
絲山 「パッション」ですか。
辻原 イエスの「受苦」「受難」のことです。「超然」と「受苦」では正反対のようにも思えるけれど、実は、つまりイエスというのはそういう存在でしょう。すべてを受け入れるという。
絲山 確かに、一番超然としているのは誰かといえば、イエスかもしれませんね。
辻原 ラストの突き詰め方にも、「おまえ」という呼びかけ自体にも、一神教的なところがあるような気もします。
絲山 執筆中に「今どんなの書いてるの?」と言われると、「神様に説教されてるような小説」と答えていました。
辻原 結論を言うと、絲山さんはこの作品で、おそらく現在の書き手の中で最前線に躍り出たんじゃないかと感じました。今、こんなふうに文学について本質的な思索をしながら書いている人というのはいないと思うし、その思索が三つの物語の中でごく自然に納得できるように描かれている。本当に貴重な作品だと思う。
絲山 この作品では本当に苦しんで、もう二度と同じ思いはしたくないけれど、そういうふうに言っていただけると本当にうれしいです。
(つじはら・のぼる 作家/いとやま・あきこ 作家)
波 2010年10月号より
著者プロフィール
絲山秋子
イトヤマ・アキコ
1966年東京都生れ。早稲田大学政治経済学部卒業後、住宅設備機器メーカーに入社し、2001年まで営業職として勤務する。2003年「イッツ・オンリー・トーク」で文學界新人賞、2004年「袋小路の男」で川端康成文学賞、2005年『海の仙人』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、2006年「沖で待つ」で芥川賞を受賞。『逃亡くそたわけ』『ばかもの』『妻の超然』『末裔』『不愉快な本の続編』『忘れられたワルツ』『離陸』など著書多数。