ゆっくりさよならをとなえる
1,540円(税込)
発売日:2001/11/22
- 書籍
道草したい、日もあるさ。カワカミヒロミ的日常生活を綴る最新エッセイ!
「今までで一番多く足を踏み入れた店は本屋、次がスーパー、三番めは居酒屋だと思う。なんだか彩りに欠ける人生ではある」――。春夏秋冬、いつでもどこでも本を読む。居酒屋のカウンターで雨蛙と遭遇したかと思えば、ふらりとでかけた川岸で釣り竿の番を頼まれもする。道草したみたいに愉快になれます。
書誌情報
読み仮名 | ユックリサヨナラヲトナエル |
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発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判 |
頁数 | 224ページ |
ISBN | 978-4-10-441202-0 |
C-CODE | 0095 |
ジャンル | エッセー・随筆、文学賞受賞作家、ノンフィクション、ビジネス・経済 |
定価 | 1,540円 |
書評
さりげない異化
「原風景」ということでいえば、小川洋子は清潔な病室、川上弘美は私鉄沿線の飲み屋、とだいぶ違うけれども、この二人の作家は、日常と異界とがゆるやかにつながっているという点で共通している。現代アメリカの女性文学は、現実の人間関係のしんどさを繊細に写実することが主流になっていて、こういうのびやかさにはあまり出会えない。その意味でもこの二人は、アメリカ文学を一応専門としている人間にはとりわけ魅力的である。
最近の川上弘美の小説は、いわゆる日常――とまで言えなければ、現実、と言ってもいい――にひとまず似ている世界での出来事を扱う度合いがやや増していて、前ほどあっさり異界に移行しなくなってはいる。とはいえ、近作『センセイの鞄』でも、主人公がいつのまにかセンセイと二人で、見知らぬ、ほとんど来世のような雰囲気の干潟に来ている章などは、この小説のなかでもっとも魅力的な箇所のひとつになっている。異界への滑らかな移行は、依然として川上弘美の大きな魅力でありつづけている。
しかし、今度出るエッセイ集『ゆっくりさよならをとなえる』を読んで思ったのだが、川上弘美を読む上で、そもそも〈日常/異界〉が〈可燃ゴミ/不燃ゴミ〉みたいに分別可能であるかのように考えるのは、実は見当外れなことなのかもしれない(実は可燃ゴミと不燃ゴミだってほんとはそんなに分別容易ではないかもしれないが、まあそれは別の話)。
たとえばこの本の、マルグリット・デュラスについて語ったエッセイのなかで、著者はデュラスを読んで「日常というものが『平凡』という言葉をはりつけるだけで済むはずのないことに、ほんの少しだけ気づかされたのである」と書いている。このエッセイ集もまさに、デュラスの小説とは違った意味で「日常というものが『平凡』という言葉をはりつけるだけで済むはずのないこと」を静かに伝えている。町内で見たパレードの様子や、一見何の変哲もない川べりの情景や、「ベタベタ」「とうとう」といった言葉に関する考察……等々ごく日常的な話題が、その絶妙の文章によって、さりげなく異化されていく。
ゆるゆると、パレードは市民大通りを進む。何も考えずに、パレードと同じはやさで道を歩いた。頬が熱い。パレードの音がすぐ横で鳴っているのに、遠くで聞こえているみたいな気分だ。バトンがきらきらと光って、海にいるみたいだ。行進している子供や少女たちが、人形のように見える。海を流されてゆく人形たち。
どこかで昼の花火があがった。ぱん、と遠い音がして、空はあかるい。小鳥がちくちくと鳴いている。鏡屋の奥の鏡に、今日の空はうつっているのだろうか。もう一度ぱん、という音がした。
ゆるゆると、パレードは流されてゆく。わたしも一緒に流されてゆく。(「パレード・正午」)
このように、ごく日常的な情景を、ことさら新奇に描くのではなく、淡々と、しかし確実に川上色に染めていく。そういう魅力的な文章にこのエッセイ集は満ちている。
以上、まとめると、川上文学の大きな魅力が「異界」へのゆるやかな移行にあることは確かであるが、一見「異界」の対極と思える「日常」もやはり微妙に異化されていて、結局は〈日常/異界〉という二分法が無効になるような世界がそこにはあるのだ。
以上、リクツ終わり(そんなリクツ最初っからわかってたぞという皆さん、ごめんなさい)。
リクツはともかく、僕は小説はもちろん、川上弘美のエッセイの大々ファンなのである。
このエッセイ集にも入っている「コーヒーのころ」を初出時に読んだときなどは、あんまり面白いので数少ない友だちにファクスしまくった。大々ファンだから、自分と同じような傾向を著者に発見するともう嬉しくて仕方ない。「拾い癖」というエッセイには「私は道に落ちているものをよく拾う。/今までで一番大きな拾いものは、木製のロッキングチェアである」とあるが、僕も今までにいろんなものを拾っていて、一番大きな拾いものは、木製の事務机である。このエッセイ集には収められていないが、かつて渋谷に存在した某喫茶店のことを書いた川上エッセイを発見したときには、僕もその時代遅れの喫茶店が大好きだったので狂喜した。さらに、著者は大女を自称し、靴のサイズが「二十五半」で「楽に履ける靴がない」(かつて女性の靴はおおむね二十四半までだった――しかし川上さん、昔の中国に生まれなくてよかったですね)。僕は小男であり、靴のサイズが「二十四」でやはり「楽に履ける靴がない」(男性の靴は、いまもおおむね二十四半から)。対極は通底するのだ(と、ファンは勝手に決める)。
そしてまた、川上弘美のエッセイは、舞い上がりそうになるとすっとさりげなく顔を出す程よい自虐性も大きな魅力であり、今回も自虐性の匙加減は絶妙であるが、本書の場合、書物を語ったエッセイも多く(藤枝静男、ヘミングウェイ、つげ義春……)、本を読んだときの感動だけは自虐的限定をあまり加えずストレートに語っており、これもこれで別の大きな魅力と説得力がある。
しいて言えば、初出時に新聞雑誌で読んだときには、これだけ少ないスペースによくぞここまで濃い中味を、と思ったものが、単行本に収まると、こんなにスペースがあるのに何もこんなに短くまとめなくても、もったいない、と思ってしまうということはある。でもこれは、ある程度読み方の問題でもあるだろう。面白さにつられて、すいすい読んでしまってはいけない。じっくり、一文一文味わって読みたい本である。
(しばた・もとゆき 米文学者)
波 2001年11月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
川上弘美
カワカミ・ヒロミ
1958(昭和33)年、東京都生れ。1994(平成6)年「神様」で第一回パスカル短篇文学新人賞を受賞。1996年「蛇を踏む」で芥川賞、1999年『神様』でドゥマゴ文学賞、紫式部文学賞、2000年『溺レる』で伊藤整文学賞、女流文学賞、2001年『センセイの鞄』で谷崎潤一郎賞、2007年『真鶴』で芸術選奨文部科学大臣賞、2015年『水声』で読売文学賞、2016年『大きな鳥にさらわれないよう』で泉鏡花文学賞を受賞。その他の作品に『椰子・椰子』『おめでとう』『ニシノユキヒコの恋と冒険』『古道具 中野商店』『夜の公園』『ざらざら』『パスタマシーンの幽霊』『機嫌のいい犬』『なめらかで熱くて甘苦しくて』『猫を拾いに』『ぼくの死体をよろしくたのむ』『某』『三度目の恋』などがある。