地中海の猫
2,420円(税込)
発売日:2000/11/30
- 書籍
地中海には猫が似合う、なぜか……。大好評『ニッポンの猫』姉妹編。
ゆったりと時間の流れる街で、猫たちは、人々の暮らしを自由に行き交う。エーゲ海の猫の島、古代ローマ遺跡の片隅、スペインの片田舎、トルコのイスラム寺院、カイロ旧市街の裏通り、モロッコの迷宮都市……六つの国で、ひたすら猫を撮り続けた猫写真の決定版!
書誌情報
読み仮名 | チチュウカイノネコ |
---|---|
発行形態 | 書籍 |
判型 | A4判変型 |
頁数 | 88ページ |
ISBN | 978-4-10-414803-5 |
C-CODE | 0072 |
ジャンル | サイエンス・テクノロジー、写真集・写真家、画家・写真家・建築家、暮らし・健康・料理 |
定価 | 2,420円 |
書評
波 2000年12月号より 猫の世界の最前線 岩合光昭写真集『地中海の猫』
猫の写真は難しい。猫はすぐカメラを意識するし、カメラより前に人を意識するし、だから自然な表情が撮りにくい。
猫に表情があるのか、というご意見もあるだろうが、たしかにその顔には人間みたいな表情筋というものがないし、いつもじっとハンコみたいな顔でこちらを見ている。
でもハンコとはいえ、飼い主にとっては表情が感じられるわけで、顔はたしかにハンコでも、その素振りとか、身のこなしとか、ひょいとした時間的なタイミングとか、そういうものが表情としてあらわれている。つまり猫の表情というのはその顔面を置き去りにして、その周囲の空間時間にまで広がってあるわけで、やはり表情はあるのだ。
だからカメラを持った人間が近づくと、その空間にまで広がった表情の末端にレンズがピッと触れて、猫の表情がピッと強ばる。だから自然な表情を撮るのが難しい。
でもこの岩合さんの写真集を見ると、その猫の表情のバリアをすっと通り抜けて、その中にまで入ってパチパチ写真を撮っているような印象をうける。レンズの先にマタタビでもついているんじゃないか。
いやこれは冗談。じっさいにマタタビがついていたら、逆に猫がレンズに寄って来過ぎてかえってまずい。
だからそういう物理的なことではなくて、何かもっと気持の上でそのバリアの中を泳ぐ術を体得しているのではないか。じっさいに動物写真家としての岩合さんの写真には、え、よくこの位置でこういう野生動物が撮れたなあ、と思うのがよくある。それもさりげなくそうあるので、むしろふと見たときは気づかずに、写真を見ながらよくよく考えていって、一拍遅れで驚いたりする。
この本の場合は野生とは違って猫だけど、やはり同様に驚く場面にしばしば出合う。猫は野生ではなくペットで、中には「戸籍」なしの野良猫も多いけれど、その場合も町とか村のペット的な存在として棲息している。だから人間との関係は微妙である。人間の生活にくっついたり、離れたり。
この写真集はそういう猫の、地中海の街での優雅な暮しを追っている。でも地中海の風景に優雅を感じるのは人間だけで、猫は「せっかく」地中海の街に暮しながら、それを何とも思ってないのだから、この世に同じ生命体として生れながらも、運命というのはいたしかたのないものである。これを見ながら、この猫たちと交代したいと思う人もいるだろう。どうせ生きているなら、いまの日本で人間をやっているより、この猫たちとトレードしてもらった方がいいかもしれないと。
そういう猫の生きザマを撮り歩いているわけだが、その場面を想像しながら、これはほとんど従軍カメラマンの仕事だと思った。戦場写真である。ロバート・キャパをはじめとして、戦場カメラマンには名人が多い。みんな兵士と同じヘルメットを被り、軍靴を穿いて、流れ弾のピュンピュン飛んでくる戦場に、身を低くして接近していくわけである。つまり兵士と同じ状態で、ただし銃の代りにカメラを持って、戦場に潜り込んでいく。
それと同じで、地中海の猫の世界に、人間世界から派遣されたカメラマンが潜り込んでいく。戦場だから決死の覚悟、というのとはちょっと違うが、でもできるだけ身を低くして、人間を迷彩服で隠すようにしながら、猫世界の最前線に近づいていくのだろう。
いろいろと名場面があるけど、モロッコの家の絶壁みたいな白い壁の、窓の庇から庇へぴょんと飛び移ろうとしている猫の写真なんて、思わず「それはムリだよ」と言いそうになる。でも猫はもう飛んでしまっていて、いま正に隣の庇に飛びつこうとするその中空で、影とともに写真に定着されている。正に決定的瞬間というもので、この後この猫はどうなったのか。
昔の野球放送の古風な言葉で「打ちも打ったり、捕るも捕ったり」というのがあるが、この場合は、「飛びも飛んだり、撮るも撮ったり」だ。あのキャパの、銃弾に撃たれて倒れる兵士の写真を連想する。
戦場写真からはよくピュリツァー賞が出ていたものだが、この場合は、なんて思ってしまう。
それにしても猫というのは何故こんなことをするのだろう。そう思う写真がたくさんあった。
▼岩合光昭『地中海の猫』は、十一月三十日発売
猫に表情があるのか、というご意見もあるだろうが、たしかにその顔には人間みたいな表情筋というものがないし、いつもじっとハンコみたいな顔でこちらを見ている。
でもハンコとはいえ、飼い主にとっては表情が感じられるわけで、顔はたしかにハンコでも、その素振りとか、身のこなしとか、ひょいとした時間的なタイミングとか、そういうものが表情としてあらわれている。つまり猫の表情というのはその顔面を置き去りにして、その周囲の空間時間にまで広がってあるわけで、やはり表情はあるのだ。
だからカメラを持った人間が近づくと、その空間にまで広がった表情の末端にレンズがピッと触れて、猫の表情がピッと強ばる。だから自然な表情を撮るのが難しい。
でもこの岩合さんの写真集を見ると、その猫の表情のバリアをすっと通り抜けて、その中にまで入ってパチパチ写真を撮っているような印象をうける。レンズの先にマタタビでもついているんじゃないか。
いやこれは冗談。じっさいにマタタビがついていたら、逆に猫がレンズに寄って来過ぎてかえってまずい。
だからそういう物理的なことではなくて、何かもっと気持の上でそのバリアの中を泳ぐ術を体得しているのではないか。じっさいに動物写真家としての岩合さんの写真には、え、よくこの位置でこういう野生動物が撮れたなあ、と思うのがよくある。それもさりげなくそうあるので、むしろふと見たときは気づかずに、写真を見ながらよくよく考えていって、一拍遅れで驚いたりする。
この本の場合は野生とは違って猫だけど、やはり同様に驚く場面にしばしば出合う。猫は野生ではなくペットで、中には「戸籍」なしの野良猫も多いけれど、その場合も町とか村のペット的な存在として棲息している。だから人間との関係は微妙である。人間の生活にくっついたり、離れたり。
この写真集はそういう猫の、地中海の街での優雅な暮しを追っている。でも地中海の風景に優雅を感じるのは人間だけで、猫は「せっかく」地中海の街に暮しながら、それを何とも思ってないのだから、この世に同じ生命体として生れながらも、運命というのはいたしかたのないものである。これを見ながら、この猫たちと交代したいと思う人もいるだろう。どうせ生きているなら、いまの日本で人間をやっているより、この猫たちとトレードしてもらった方がいいかもしれないと。
そういう猫の生きザマを撮り歩いているわけだが、その場面を想像しながら、これはほとんど従軍カメラマンの仕事だと思った。戦場写真である。ロバート・キャパをはじめとして、戦場カメラマンには名人が多い。みんな兵士と同じヘルメットを被り、軍靴を穿いて、流れ弾のピュンピュン飛んでくる戦場に、身を低くして接近していくわけである。つまり兵士と同じ状態で、ただし銃の代りにカメラを持って、戦場に潜り込んでいく。
それと同じで、地中海の猫の世界に、人間世界から派遣されたカメラマンが潜り込んでいく。戦場だから決死の覚悟、というのとはちょっと違うが、でもできるだけ身を低くして、人間を迷彩服で隠すようにしながら、猫世界の最前線に近づいていくのだろう。
いろいろと名場面があるけど、モロッコの家の絶壁みたいな白い壁の、窓の庇から庇へぴょんと飛び移ろうとしている猫の写真なんて、思わず「それはムリだよ」と言いそうになる。でも猫はもう飛んでしまっていて、いま正に隣の庇に飛びつこうとするその中空で、影とともに写真に定着されている。正に決定的瞬間というもので、この後この猫はどうなったのか。
昔の野球放送の古風な言葉で「打ちも打ったり、捕るも捕ったり」というのがあるが、この場合は、「飛びも飛んだり、撮るも撮ったり」だ。あのキャパの、銃弾に撃たれて倒れる兵士の写真を連想する。
戦場写真からはよくピュリツァー賞が出ていたものだが、この場合は、なんて思ってしまう。
それにしても猫というのは何故こんなことをするのだろう。そう思う写真がたくさんあった。
(あかせがわ・げんぺい 作家・画家)
▼岩合光昭『地中海の猫』は、十一月三十日発売
著者プロフィール
岩合光昭
イワゴウ・ミツアキ
1950(昭和25)年、東京生れ。19歳のときに訪れたガラパゴス諸島の自然の驚異に圧倒され、動物写真家としての道を歩み始める。以来、地球上のあらゆる地域をフィールドに撮影を続けている。作品は、『海からの手紙』(木村伊兵衛写真賞受賞)、『ニッポンの犬』『スノーモンキー』『ニッポンの猫』『ホッキョクグマ』『海ちゃん』『パンダ』『ネコを撮る』『そっとネコぼけ』『ネコに金星』『しばいぬ』『イタリアの猫』『岩合光昭の世界ネコ歩き』『ふるさとのねこ』など多数。
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