股間若衆―男の裸は芸術か―
1,980円(税込)
発売日:2012/03/30
- 書籍
“曖昧模っ糊り”の謎を追求する本邦初、前代未聞の研究書。
露出か隠蔽か修整か? 幕末から現代に至る“古今”日本人美術家たちの男性の裸体と股間の表現を巡っての葛藤と飽くなき挑戦! 付録に「股間若衆」巡礼モデルコースも。駅前に、役所に、公園に、体育館に……気がつけば雨の日も風の日も裸のまま、“彼”は、あなたのそばに佇んでいる!
目次
第一章 股間若衆
第二章 新股間若衆
第三章 股間漏洩集
第二章 新股間若衆
第三章 股間漏洩集
こぼれ落ちた問題の数々
付録 股間巡礼
股間若衆の予備軍 小便小僧に会いに行く/生息地探索/股間もいろいろ/考える人たち/モデルコースI 西武池袋線沿線をゆく/モデルコースII 城下町金沢になごむ
あとがき
初出一覧
初出一覧
書誌情報
読み仮名 | コカンワカシュウオトコノハダカハゲイジュツカ |
---|---|
雑誌から生まれた本 | 芸術新潮から生まれた本 |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判 |
頁数 | 192ページ |
ISBN | 978-4-10-332131-6 |
C-CODE | 0095 |
ジャンル | アート・エンターテインメント |
定価 | 1,980円 |
書評
波 2012年4月号より 男の股間(沽券)にかかわる本
『股間若衆―男の裸は芸術か―』。「古今和歌集」をもじった「股間若衆」、それに「男の裸」とくれば、猫にまたたび、シモネッタの名を持つ私が手に取らないはずはない。しかもこのタイトル、不純な購買動機をカムフラージュしてくれる「芸術」という2文字が後に加えられているので、臆することなく書店のレジに本が出せる。こんな細やかな気配りができる著者、ただ者ではない。
著者の木下直之氏は、江戸の粋人を思わせる言語センスの持ち主だ。「和漢朗詠集」は「股間漏洩集」に、日本の裸体彫刻特有の中途半端な股間は、曖昧模糊をもじった「曖昧模っ糊り」に、北村西望の甘い妥協は「とろける股間」にと、洒脱な表現が次々に繰り出される。だからといって軽いお遊び本かと思えば大間違い。ベースになったのは、氏の「日本近現代彫刻の男性裸体表現の研究」というから、アカデミックで読み応えがあるのも当たり前。
ベネトンのPR写真で名を馳せたオリビエーロ・トスカーニが、月替わりカレンダーに、昨年は女性器、今年は男性器のアップ写真を使い、イタリアで国をあげての大論争を巻き起こしている。カレンダーを作らせた弱小組合はその宣伝効果で販売増を享受。「政治、宗教、戦争、経済、すべては下半身から始まる」と彼が皮肉ったように、股間は、権力を愚弄する挑発や、経済を動かすツールにもなる。その影武者的な実態を、史実を通して見せてくれるのが本書。イデオロギーを振りかざさない姿勢がなんとも粋だ。
木下氏は東大の文化資源学の教授。この人の手にかかれば、股間も立派な文化資源。その博覧強記ぶりは尋常ではなく、股間をめぐる考察は、民俗学、社会学、図像学をカバーし、彫刻、写真、絵画、検閲、進化論、風俗など多彩なテーマに広がっていく。文相の指示で、自分の彫刻から股間部分を切り取る朝倉文夫、三島由紀夫の聖セバスチャンへの傾倒、額縁ショーの裏話、「わだつみのこえ」の彫像が辿った運命、日本初の裸体画展の宣言文など、面白い話題も満載で読み物としても楽しめる。真面目な内容なのに、「赤羽駅前にある男性裸体像がもし生身の人間だったらどうなるか」という仮定で冒頭から笑わせてくれるし、難解な文の合間には、とぼけたボケもかましてくれるから嬉しい。
それにしても、性的なものを卑下する象牙の塔で、東大教授が沽券ならぬ「股間にかかわる」本を書く。かなりリスキーな決断だ。だがご乱心の木下先生、一読者の心配をよそに、パンツ姿の著者近影?まで披露して、最後まで人を食ったユーモアを忘れない。
唯一残念なのは、この本を最も喜んで読んだであろう米原万里がいないことだ。
一緒に読んで笑えない寂しさを噛みしめていたら、何と、著者も「こんな話を『パンツの面目 ふんどしの沽券』を残してくれた米原万里さんとしてみたかった」と書いていた。万里が没して6年、バトンは木下氏に引き継がれたようだ。
本書には、他の特典もある。まず、豊富な図版。駅前や街頭、ビル内の裸体彫刻や古い写真が目を楽しませてくれる。中でもアメリカから130年ぶりに里帰りした松本喜三郎の生人形が素晴らしい。特に股間は、初めて勃起のメカニズムの解明に挑んだレオナルド・ダ・ビンチのデッサンと並ぶ精巧さで、まちがいなく芸術だ。
もうひとつの特典が、街で遭遇する彫刻作品を、新たな視点で観賞できるようになること。木下氏は、古寺巡礼ならぬ「股間巡礼」を付録につけ、街歩きの楽しみまで提供してくれるのだ。私たちも、この本を読んだあとは、股間若衆を探す旅に出よう。そして、目のやり場に“迷わず”股間を注視し考察を深めよう。
最後に、股間を論ずるのは下品と決めつけるお固い人、是非この本を読んで欲しい。知性で料理されたサブカルチャーの面白さに魅せられるはずだ。本書は、知性やユーモア指数、とりわけ心のゆとりを測るリトマス試験紙なのだ。
著者の木下直之氏は、江戸の粋人を思わせる言語センスの持ち主だ。「和漢朗詠集」は「股間漏洩集」に、日本の裸体彫刻特有の中途半端な股間は、曖昧模糊をもじった「曖昧模っ糊り」に、北村西望の甘い妥協は「とろける股間」にと、洒脱な表現が次々に繰り出される。だからといって軽いお遊び本かと思えば大間違い。ベースになったのは、氏の「日本近現代彫刻の男性裸体表現の研究」というから、アカデミックで読み応えがあるのも当たり前。
ベネトンのPR写真で名を馳せたオリビエーロ・トスカーニが、月替わりカレンダーに、昨年は女性器、今年は男性器のアップ写真を使い、イタリアで国をあげての大論争を巻き起こしている。カレンダーを作らせた弱小組合はその宣伝効果で販売増を享受。「政治、宗教、戦争、経済、すべては下半身から始まる」と彼が皮肉ったように、股間は、権力を愚弄する挑発や、経済を動かすツールにもなる。その影武者的な実態を、史実を通して見せてくれるのが本書。イデオロギーを振りかざさない姿勢がなんとも粋だ。
木下氏は東大の文化資源学の教授。この人の手にかかれば、股間も立派な文化資源。その博覧強記ぶりは尋常ではなく、股間をめぐる考察は、民俗学、社会学、図像学をカバーし、彫刻、写真、絵画、検閲、進化論、風俗など多彩なテーマに広がっていく。文相の指示で、自分の彫刻から股間部分を切り取る朝倉文夫、三島由紀夫の聖セバスチャンへの傾倒、額縁ショーの裏話、「わだつみのこえ」の彫像が辿った運命、日本初の裸体画展の宣言文など、面白い話題も満載で読み物としても楽しめる。真面目な内容なのに、「赤羽駅前にある男性裸体像がもし生身の人間だったらどうなるか」という仮定で冒頭から笑わせてくれるし、難解な文の合間には、とぼけたボケもかましてくれるから嬉しい。
それにしても、性的なものを卑下する象牙の塔で、東大教授が沽券ならぬ「股間にかかわる」本を書く。かなりリスキーな決断だ。だがご乱心の木下先生、一読者の心配をよそに、パンツ姿の著者近影?まで披露して、最後まで人を食ったユーモアを忘れない。
唯一残念なのは、この本を最も喜んで読んだであろう米原万里がいないことだ。
一緒に読んで笑えない寂しさを噛みしめていたら、何と、著者も「こんな話を『パンツの面目 ふんどしの沽券』を残してくれた米原万里さんとしてみたかった」と書いていた。万里が没して6年、バトンは木下氏に引き継がれたようだ。
本書には、他の特典もある。まず、豊富な図版。駅前や街頭、ビル内の裸体彫刻や古い写真が目を楽しませてくれる。中でもアメリカから130年ぶりに里帰りした松本喜三郎の生人形が素晴らしい。特に股間は、初めて勃起のメカニズムの解明に挑んだレオナルド・ダ・ビンチのデッサンと並ぶ精巧さで、まちがいなく芸術だ。
もうひとつの特典が、街で遭遇する彫刻作品を、新たな視点で観賞できるようになること。木下氏は、古寺巡礼ならぬ「股間巡礼」を付録につけ、街歩きの楽しみまで提供してくれるのだ。私たちも、この本を読んだあとは、股間若衆を探す旅に出よう。そして、目のやり場に“迷わず”股間を注視し考察を深めよう。
最後に、股間を論ずるのは下品と決めつけるお固い人、是非この本を読んで欲しい。知性で料理されたサブカルチャーの面白さに魅せられるはずだ。本書は、知性やユーモア指数、とりわけ心のゆとりを測るリトマス試験紙なのだ。
(たまる・くみこ イタリア語会議通訳・エッセイスト)
著者プロフィール
木下直之
キノシタ・ナオユキ
昭和29年(1954)浜松生まれ。浜松市立中部中学校在学中に「ケケ坊」というあだ名をつけられ、同級生から今なおそう呼ばれる。東京藝術大学大学院中退、兵庫県立近代美術館学芸員、東京大学総合研究博物館助教授を経て、2017年4月現在は東京大学大学院人文社会系研究科教授。文化資源学の一環として、股間若衆研究をつづけるうちに、あだ名の語源が「ケケボーボー」であったことを思い出した。著書に『股間若衆』(新潮社)、『銅像時代』(岩波書店)、『近くても遠い場所』(晶文社)などがある。2015年春、紫綬褒章受章。『股間若衆国人名事典』より。
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