タダイマトビラ
1,760円(税込)
発売日:2012/03/30
- 書籍
お母さん。私がたまたま自分のお腹から出てきたからって、好きになる必要ないよ――。
書評
波 2012年4月号より 家族小説に大きな一石を投じた物語
読み終えた後、しばらく言葉が出ない。物語の持つ力にひれ伏すとは、こういうことなのかと、ただただ呆然としてしまう。
「カゾクヨナニー」。本書に出て来るこの言葉こそが、物語の核だ。小三の時に、男子が大声で言った「オナニー」という言葉の意味を担任に尋ねた主人公・恵奈は、「難しく言えば、自分の欲求を自分で処理する、みたいな意味よ」と教えられて以来、「食欲も睡眠欲もなんでも、欲望を自分で処理することをオナニーというのだと思っていた」。試しにやってみた食欲の処理は割と簡単で、食べ物の匂いを嗅ぎながら、食べているところを想像すると満たされる。寒くて温もりたいときは、赤い折り紙を並べてじっと見ると寒さが和らぐ。音楽が聞きたければ、耳の中で音を想像する。トイレと睡眠はうまくいかなかったが、大概の欲望は、そんなふうに工夫して処理して来た。
そんな恵奈が一番夢中になったのが「家族欲」の処理で、それがカゾクヨナニーだ。自分の部屋で、「ニナオ」と名付けたカーテンと戯れること、それがカゾクヨナニー。窓から風を受けてふわりと膨らむニナオと恵奈が絡まりあうシーンは、息苦しいほどエロティックであり、たまらなく切なくもある。恵奈が母親からは得られない「家族欲」をそうやって処理するのも、母親に対して「産んだからなんて理由で、好きになんかなってもらわなくても」と思っているのも、恵奈の母親に母性が欠落しているからだ。掃除や洗濯、食事の支度といったことは、彼女にとっては「仕事」なのである。「産んだからって、どうして必ず愛さないといけないの?」というのが恵奈の母なのだ。
と、こうして書いてしまうと、崩壊家庭に育った少女の、家族を希求する物語、のように思われてしまうかもしれないが、違う。全く違うのだ。恵奈はないものは求めない、のである。恵奈が求めるのは「本当の家」だ。それは、恵奈が自分で開いた「トビラ」の先に存在するものなのだ。だから今いるのは「仮の家」で、恵奈は「肉体が膨らみ大人の形に成長するまで、ただ生き延びている」だけなのだ。
この、恵奈の強烈な矜持。それは、けれど、深い深い絶望と寂しさに裏打ちされたものでもある。なんて哀切な、と思いながら読み進めていくうちにも、物語は恵奈が求める「トビラ」の先へと、静かに、ゆっくりとではあるが、徐々に加速していく。
中学生、高校生と成長していくにつれ、いくつもの「トビラ」を開けていく恵奈。開けるたびに、まだ違う、まだ違う、と違和感を抱いていた恵奈が、やっと“本当の恋”と出会ったのが高校一年の時だ。高二の今、恵奈はその彼、浩平との未来こそが「本当の家」であると思っていたのだが、ある日、自分に全身を委ねた浩平の恍惚とした表情を見て、恵奈は気付いてしまう。
「この人、私でカゾクヨナニーをしている!」と。
この時の恵奈の、胸が張り裂けんばかりの悲鳴は、読み手の耳を直撃する。恵奈の悲鳴は「『本当の家』は私の背骨だった」というその恵奈の背骨が、ばきばきと音を立てて砕け散る音そのものだ。思わず耳を塞いでしまいたくなるような、怖い音だ。そして、その音の残響に揺さぶられているうちに、物語は一気に最後の「トビラ」に向かって突き進む。読み手を待ち受けるのは、カタストロフィーなのか、カタルシスなのか。
かつて、作者の村田さんは『ギンイロノウタ』刊行時のインタビューで、こう語っていた。
「私は人間は憎んでいませんが、世の中のシステムとか慣例とか空気を読まなければいけない空気とか、そういうのはすごく嫌で、そこからみんなを引きずり出したいという願望は強くあると思います」
村田さんのその願望が形になったのが本書だと、私は思う。本書は、間違いなく家族小説というものに大きな一石を投じた物語である。同時に、恵奈という一人の少女の、成長小説でもある。これほどまでに気高く、そして残酷な成長小説を、私は他に知らない。そして、その気高さと残酷さこそが、村田沙耶香という作家の“強度”であり魅力である。
「カゾクヨナニー」。本書に出て来るこの言葉こそが、物語の核だ。小三の時に、男子が大声で言った「オナニー」という言葉の意味を担任に尋ねた主人公・恵奈は、「難しく言えば、自分の欲求を自分で処理する、みたいな意味よ」と教えられて以来、「食欲も睡眠欲もなんでも、欲望を自分で処理することをオナニーというのだと思っていた」。試しにやってみた食欲の処理は割と簡単で、食べ物の匂いを嗅ぎながら、食べているところを想像すると満たされる。寒くて温もりたいときは、赤い折り紙を並べてじっと見ると寒さが和らぐ。音楽が聞きたければ、耳の中で音を想像する。トイレと睡眠はうまくいかなかったが、大概の欲望は、そんなふうに工夫して処理して来た。
そんな恵奈が一番夢中になったのが「家族欲」の処理で、それがカゾクヨナニーだ。自分の部屋で、「ニナオ」と名付けたカーテンと戯れること、それがカゾクヨナニー。窓から風を受けてふわりと膨らむニナオと恵奈が絡まりあうシーンは、息苦しいほどエロティックであり、たまらなく切なくもある。恵奈が母親からは得られない「家族欲」をそうやって処理するのも、母親に対して「産んだからなんて理由で、好きになんかなってもらわなくても」と思っているのも、恵奈の母親に母性が欠落しているからだ。掃除や洗濯、食事の支度といったことは、彼女にとっては「仕事」なのである。「産んだからって、どうして必ず愛さないといけないの?」というのが恵奈の母なのだ。
と、こうして書いてしまうと、崩壊家庭に育った少女の、家族を希求する物語、のように思われてしまうかもしれないが、違う。全く違うのだ。恵奈はないものは求めない、のである。恵奈が求めるのは「本当の家」だ。それは、恵奈が自分で開いた「トビラ」の先に存在するものなのだ。だから今いるのは「仮の家」で、恵奈は「肉体が膨らみ大人の形に成長するまで、ただ生き延びている」だけなのだ。
この、恵奈の強烈な矜持。それは、けれど、深い深い絶望と寂しさに裏打ちされたものでもある。なんて哀切な、と思いながら読み進めていくうちにも、物語は恵奈が求める「トビラ」の先へと、静かに、ゆっくりとではあるが、徐々に加速していく。
中学生、高校生と成長していくにつれ、いくつもの「トビラ」を開けていく恵奈。開けるたびに、まだ違う、まだ違う、と違和感を抱いていた恵奈が、やっと“本当の恋”と出会ったのが高校一年の時だ。高二の今、恵奈はその彼、浩平との未来こそが「本当の家」であると思っていたのだが、ある日、自分に全身を委ねた浩平の恍惚とした表情を見て、恵奈は気付いてしまう。
「この人、私でカゾクヨナニーをしている!」と。
この時の恵奈の、胸が張り裂けんばかりの悲鳴は、読み手の耳を直撃する。恵奈の悲鳴は「『本当の家』は私の背骨だった」というその恵奈の背骨が、ばきばきと音を立てて砕け散る音そのものだ。思わず耳を塞いでしまいたくなるような、怖い音だ。そして、その音の残響に揺さぶられているうちに、物語は一気に最後の「トビラ」に向かって突き進む。読み手を待ち受けるのは、カタストロフィーなのか、カタルシスなのか。
かつて、作者の村田さんは『ギンイロノウタ』刊行時のインタビューで、こう語っていた。
「私は人間は憎んでいませんが、世の中のシステムとか慣例とか空気を読まなければいけない空気とか、そういうのはすごく嫌で、そこからみんなを引きずり出したいという願望は強くあると思います」
村田さんのその願望が形になったのが本書だと、私は思う。本書は、間違いなく家族小説というものに大きな一石を投じた物語である。同時に、恵奈という一人の少女の、成長小説でもある。これほどまでに気高く、そして残酷な成長小説を、私は他に知らない。そして、その気高さと残酷さこそが、村田沙耶香という作家の“強度”であり魅力である。
(よしだ・のぶこ 書評家)
著者プロフィール
村田沙耶香
ムラタ・サヤカ
1979(昭和54)年千葉県生れ。玉川大学文学部芸術文化学科卒。2003(平成15)年「授乳」で群像新人文学賞(小説部門・優秀作)受賞。2009年『ギンイロノウタ』で野間文芸新人賞、2013年『しろいろの街の、その骨の体温の』で三島賞、2016年「コンビニ人間」で芥川賞受賞。著書に『マウス』『星が吸う水』『ハコブネ』『タダイマトビラ』『殺人出産』『消滅世界』『生命式』『変半身』『丸の内魔法少女ミラクリーナ』などがある。
判型違い(文庫)
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