立ち読み:新潮 2018年4月号

ヒロヒト/高橋源一郎

ひろい講堂へひとりひとりのあなたが、
わたしのたったひとりの朗読会を聴きにやってくる、
詩のなかには過去からの歴史があり、
声になってその中心で読まれつづけていまに至り、

死んだこどもたちのことばのために、
たったひとりの朗読会場をあたえてくれますか、
歌わぬ歌をささげるふしぎの国の、
音にならないひびきにわたしがかりたてられるから、

   ――「悲しみをさがす詩」藤井貞和

   *
『昭和天皇実録・第五』(東京書籍)に昭和四年六月一日のヒロヒトの行状が記されている(三六七頁から三六九頁)。全文を引用してみる。

「    六月

一日 土曜日 午前八時、御召艦長門は和歌山県田辺湾内に投錨する。甲板上において、奉迎のため来艦の第四師団長林弥三吉・和歌山県知事野手耐ほかに謁を賜う。九時三十分、綱不知桟橋より御上陸になる。降雨のため海軍マントを御着用になり、沿道の奉拝者に御会釈を賜いつつ、徒歩にて磯沿いに三十五分ほど進まれ、京都帝国大学附属臨海研究所に御到着になる。便殿において京都帝国大学総長新城新蔵・同名誉教授荒木寅三郎・所長駒井卓ほかに謁を賜い、隣室において同大学講師石川成章より南紀の地形・地質・温泉について、駒井所長より紀伊沿海の動物について、同大学理学部助手黒田徳米より紀伊産貝類について、同研究所助教授赤塚孝三より浮遊生物について、同助手井狩二郎より海藻類について、同大学理学部教授小松茂より海藻の色素と夏蜜柑の生化学的研究について、それぞれ研究成果を御聴取になる。終わって野手知事より地方物産について、駒井所長よりは貝類標本等についての説明を受けられた後、水槽室ほか所内各施設を御巡覧になる。
午後、駒井所長等と共に研究所の和船に御乗船になる。四双島・塔島付近において地元潜水夫が海中より採集したウミトサカ・テヅルモヅルほかを御観察になり、海藻に付着したヒドロゾアを御手ずから切り取られる。ついで神島に御上陸になり、南方熊楠より神島についての説明を御聴取の後、繁茂する樹陰に入られ、粘菌の採集を試みられるも成果なし。ついで畠島に向かわれ、御上陸になる。磯にてドラベラ・ウミウシ・珊瑚等を御採集になり、続いて石川講師より漣岩等についての説明をお聴きになる。午後五時四十五分、御召艦に御帰艦になる。艦内において南方熊楠より約三十分にわたり粘菌・地衣類・海蜘蛛・ヤドカリ等に関する講話をお聴きになり、日本産粘菌類の献上を受けられる。終わって、六時三十分、田辺湾を御出港になる。七時、内務大臣望月圭介・野手知事・駒井所長ほかに御夕餐の御陪食を仰せ付けられ、御食事後、長門・那智乗組員等による相撲を御覧になる。入御後、南方より献上の粘菌を御覧になる。御召艦は、十時過ぎ串本港沖に投錨する」

『昭和天皇実録』の編纂者はこの部分について下記の文献を参照したとしている。即ち、侍従日誌・侍従職日誌・内舎人供奉日誌・供御日録・幸啓録・行幸録・宮内省省報・官報・牧野伸顕日記・奈良武次日記・関屋貞三郎日記・加藤寛治日記・南方熊楠日記・南方熊楠邸保存顕彰会所蔵資料・南方熊楠記念館所蔵資料・京都大学理学部附属瀬戸臨海実験所所蔵資料・行幸記念光栄録・和歌山県行幸記録・和歌山県政史・串本町行幸謹記・田辺市誌・和歌山県田辺町誌・白浜町誌・京都帝国大学史・行幸記録・千載の感激・超人南方熊楠展図録・望月圭介伝・東京日日新聞・和歌山新報である。いわゆる「ヒロヒトのクマグス訪問」に関するすべての史料を網羅して書かれたものであるにもかかわらず、ここには、実際に何が起こったのかは書かれていない。あるいは、巧妙に削除・消去されている。それは、あらゆる「公」の文が持つ宿命である。

  第一回・昭和四年六月一日

 昭和四年三月五日、和歌山県田辺市のクマグスの自宅を生物学御研究所の服部広太郎博士が訪ねていた頃、服部博士に随行していた野口・木下の両侍従は、白浜温泉の旅館・白浜館で、クマグス訪問の結果をやきもきしながら待っていた。

 服部博士は、ヒロヒトが摂政宮の頃から生物学を進講し、ヒロヒトを生物学の研究に導いた人物である。やがて、ヒロヒトの希望により生物学研究所が赤坂離宮に作られたが、ヒロヒトがもっとも興味を持っていたものは、「粘菌」であった。
 服部博士のクマグス訪問の三年前、大正十五年春、ヒロヒトは、東宮御所で、英国から取り寄せたグリエルマ・リスターの『粘菌図譜』を読んでいた。リスターは英国菌学会会長であり、ヒロヒトはかつてリスターに採取した粘菌の標本を送り、2つが新種として認定されたことがあったのである。その粘菌には「ミカド」の名称が採用された。
『粘菌図譜』の頁をめくっていたヒロヒトは、突然、頁をめくる手を止めた。そこには、ヒロヒトが知らない、粘菌の新属が記載されていた。見つめていると目眩に襲われそうな奇異な形状をした、その粘菌の名称は「ミナカテルラ・ロンギフィラ」。日本語では「ミナカタの長い糸」であった。ヒロヒトには、その粘菌が、生きて怪しく動いているようにさえ見えた。そのとき、ヒロヒトの胸の内に、ある名状し難い思いが浮かんだ。ヒロヒトは動悸が早まるのを感じた。しばらくすると、ヒロヒトは服部博士を東宮御所に呼ぶようお付きの者に命じた。数時間後、服部博士が勤務先の学習院から慌てて駆けつけてきた。
「服部」
「はい。なんでございましょうか」
「ミナカタクマグスを知っているね」
「クマグス……ああ、もちろん、知っておりますが。いったい、どうして?」
「服部は、リスター女史の『粘菌図譜』を読んだか?」
「わたしのもとにはまだロンドンより届いておりません。おそらく、この国でいちばん早く読まれたのは殿下でございましょう」
「その中に、粘菌の新属として『ミナカテルラ・ロンギフィラ』というものが掲載されていた。それを発見したのがクマグスだ」
「殿下」と服部博士はいった。「残念ながら、我が国には『粘菌』の専門家といえるような者は三人しかおりません」
そういうと、服部はヒロヒトの耳元にそっと囁くように、こう続けた。
「おそれながら、殿下とわたくし、そしてクマグス、その三人だけでございます」
 ヒロヒトは、服部博士に向けていた視線をそっと外し、しばらく窓の外をぼんやり眺めていた。そこには、東京の真ん中にあるとは思えぬ、深い緑で覆われた広大な森がどこまでも広がっているのが見えた。
「服部。わたしは、クマグスと話をしてみたい。いや、クマグスの進講を受けてみたいのだ」
「……殿下。それは無理でございます」
「なぜだ?」
「……クマグスは無位無官の身でございます。そのような者がご進講をした例はありません。それに……」
「それに、なんだね?」
「いや、なんでもありません」

(続きは本誌でお楽しみください。)