立ち読み:新潮 2017年4月号

劇場/又吉直樹

 まぶたは薄い皮膚でしかないはずなのに、風景が透けて見えたことはまだない。もう少しで見えそうだと思ったりもするけど、眼を閉じた状態で見えているのは、まぶたの裏側の皮膚にすぎない。あきらめて、まぶたをあげると、あたりまえのことだけれど風景が見える。

 八月の午後の太陽が街を朦朧とさせていた。半分残しておいた弁当からは嫌な臭いがしていて、こんなことなら全部食べてしまえばよかったと思った。
 僕は新宿から三鷹の家に早く帰りたかったのだけど、人込みのなかで真っ直ぐに立っていられる自信がなく、到底電車に乗れる状態ではなかった。どこでもないような場所で、渇ききった排水溝を見ていた。誰かの笑い声がいくつも通り過ぎ、蝉の声が無秩序に重なったり遠ざかったりしていた。ついにきっかけもなく歩き出してはみたけれど、それは家を目指して歩いていたわけではなく、ただ肉体に従い引きずられているような感覚に近かった。僕の肉体は明治通りを南へ歩いて行くようだったけれど、一向に止まる気配を見せなかった。
 自分の肉体よりも少し後ろを歩いているような感覚で、肉体に対して止まるよう要求することはできなかった。表参道とぶつかる原宿の交差点に近づくと、急に人が増えたように感じた。いや、少し前から人は増えていたのだと思う。人波にのまれ、あらゆる音が徐々に重なったが、自分の足音だけは鮮明に聴こえていた。暑さよりも人の匂いが鼻をついてむせた。一方で、何かに身を委ねている心地良さもあった。
 人と眼が合わないように歩く。人の後ろの後ろにも人がいて、更にその後方に焦点を投げていると誰とも目は合わない。人の顔の輪郭はぼやけていて、明瞭な線としてまとまりかけたら自分がうつむけばよかった。眼を下に向けると、いろんな靴があるものだなと思う。靴ははっきりと見える。みんな靴をはいている。こちらを睨むように見る人も、苦悩に充ちた表情の人も、誰もが靴を買いにいった瞬間があると思うとおかしかった。空の青さと何の形にも見立てることができない雲の比率がほとんど偽物のようだった。
 大勢の人間が途切れることなく流れ込んでいく右手の大きな商業施設を過ぎたところで、僕の肉体に向けて、「神様とか信じちゃうタイプですか?」と、笑顔で話しかける若そうな男がいたが、僕の肉体は男を見ることもなく、何事もなかったかのように道を右に折れようとしたので、僕もそれに従おうとした。それでも男は微塵も笑顔を崩さずに、「あっ、信じないタイプですね」と高い声を出したのだが、なぜか、その時だけは実体である僕と男の眼がはっきりと合致したように感じた。
 そう言えば、この男は以前もこの場所で、今日と同じように話しかけてきたことがあった。その時は、大学のサークルでアンケートを取っていると言われたので、なにか自分を楽しい渦に巻きこんでくれるのではないかと期待して立ち止まってみたのだが、いくつかの平凡な質問が続いたあと、「神様の存在とか信じますか?」と問われたのだった。
 しかし、その人物は今日の男とは全く別の顔をしていたし、声も共通する部分がなかったので、もしかすると別人かも知れなかった。依然、僕の肉体は街の喧騒を避けて進んでいるようだったが、時々、僕は僕の肉体に追いついたりもしたので、あるいは全ての行動が自分の意志によるものだったのかもしれない。だが、僕が僕の肉体を追い越すことは一度もなかった。
 原宿駅の脇を抜け、明治神宮の木々から響く蝉の声を背に受けながら歩道橋を越えた。もう歩きたくなかったが、急に止まると背中から汗が噴き出してしまいそうで、だからといって汗が噴き出すのが嫌だったわけでもなく、それなら、歩かなければいけない理由があったのかというと、そんなものもなく、かといって止まらなければいけない理由も特になかったので歩き続けることしか思いつかなかった。試しにあからさまな溜息などをついてみたが、自分の感情を表現するには及ばず、かろうじて自分が正気であることを確認するために、ずうたいが異常にでかい木偶の坊のような声で「鳥が触れません」と小さな声で囁いてみたりもした。
 中学時代に駅前で不良に顔面を殴られ鼻から血が噴き出た時にも、同じことをした記憶がある。この期に及んで、常識はずれなことを言えるということは、まだ大丈夫だと安心するための行為なのだが、「小鳥も触れないのか?」と、木偶の坊に直接問いかける声も耳の奥でして、その声も自分の意志なのだろうけど、もしかすると自分の範疇を越えているのかも知れないなと案外冷静に分析していたつもりが、次の瞬間には、アニメーション上の表現のように、頬肉が溶けるほどの猛烈な脱力感が押し寄せて、膝の内側の骨を地面に叩きつけてみたくなる衝動に駆られながら、なんか「衝動」という言葉は簡単で嫌いだなと思った。
 僕の肉体は代々木体育館に沿って歩いているようで、たまに左手を山手線が音を立てて走っていった。石垣が途切れたあたりに、古い家具を軒先に並べた古着屋があった。僕の肉体は今まで通り僕に確認もとらず、そこに吸いこまれるように入っていく。もう新宿からだと随分と長い距離を歩いていた。

(続きは本誌でお楽しみください。)