——三島由紀夫賞の受賞記者会見で、作品が「向こうからやってきた」と語られたのが印象的でした。「伯爵夫人」という小説がやってくるに至ったきっかけを中心にうかがえればと思います。
さまざまなものがいきなり弾け始めてこちらにやってきたのですが、もともとあったのは、大学の学部時代に読んだアンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』(一九二四)のなかで言及しているポール・ヴァレリーの言葉でした。つまり、散文のフィクションの敵ともいうべきヴァレリーは、「侯爵夫人は五時に家を出た」という一行を例に、「散文のフィクションはこのように凡庸な言葉からなっている」といったというのです。
それが本当にヴァレリーの言葉かどうかはわかりませんが、その点をめぐっては、クロード・モリヤックが彼なりに反論を試み、『侯爵夫人は五時に家を出た』(一九六一)という小説をヌーヴォーロマン風に書いているのですが、これはまったく面白くなかった。それを読んだとき、「俺ならもっとうまく書ける」とまでは思わなかったにせよ、「これは違うんじゃないか」と思い、考えこんでしまいました。以来、ずっと「侯爵夫人」という言葉が頭の中に渦巻いていたのですが、それがさまざまな過程を経て、「伯爵夫人」へと変わっていったのです。なかでも、淀川長治先生が、山田宏一さんと三人で話していると、わたくしのことを「この人はカラムジンだから。偽伯爵だからね」と盛んにからかっておられたのですが、その命名を大変誇りに思っていました。カラムジンとはエリッヒ・フォン・シュトロハイム監督の『愚なる妻』(一九二二)で、シュトロハイム自身が演じた破戒無慙な偽伯爵なのです。
こうして、ヴァレリーの「侯爵夫人」が、自分のなかでいつのまにか「伯爵夫人」の方に傾いていったのですが、それで小説の構想がまとまるわけではなく、ごく最近のものでもあれば、かなり遠い過去のものでもある三つの出来事がどうも重なりあっているような気がします。
一つは去年、三島由紀夫と同級の一九二四年生まれで、いまもお元気なジャズ批評家の瀬川昌久さんとお話ししたことです(河出書房新社刊『瀬川昌久自選著作集』に大谷能生氏を交えた鼎談を収録)。一九四一年十二月八日、真珠湾攻撃がなされた夜、「大学受験の勉強に疲れまた戦争の将来を思いあぐんで混乱した頭を、しばし癒さんものと」、自室にこもって「愛聴」のトミー・ドーシー楽団による「Cocktails for Two(愛のカクテル)」のレコードを派手にかけられたら、ご両親から「今晩だけはおやめなさい」とたしなめられた(笑)。「ということは、『今晩以外』にはアメリカの音をきいておられたんですか」とお尋ねしたら、「ずうっときいてましたね」と悠然と答えられたので、戦前の日本はこうした強者を生みだすほどに豊かな文化的な環境だったのだと深い感銘を覚えました。「伯爵夫人」には日付はでてきませんが、開戦の日の晩という記述や、二朗が大学受験を控えているといった細部は、そこからきていると思います。それに、「姦婦と佩剣——十九世紀のフランス小説『ボヴァリー夫人』を二十一世紀に論じ終えた老齢の批評家の、日本語によるとりとめもないつぶやき」(「新潮」二〇一四年八月号)で書いた山田爵(じゃく)先生の青年時代の記憶が混じりこんでいるかも知れず、二朗はわたくし自身より十歳以上も年上の人物として設定されています。
二つめは、ほぼ同じ頃、ふとタクシーに乗ったところ、かなり老齢の運転手さんから「(昭和)十五年辰とお見かけしますが」と突然いわれたことがあります。彼は「あっしは十三年寅ざんす」と。それで「残念でした。十一年子です」と答えたところ、「こりゃあおみそれしました」と、ちゃきちゃきの江戸弁なんです。それで話が盛り上がり、いかに戦時中のことを人々は知らないか、いちばんひどいのは戦争が終わってからであり、それと比べれば、普通に生きていた人間にとって戦時中というのはさほどひどいものではなかった、と車中で語り合いました。そして、戦後に疎開地で彼の母上が被った苦労話を聞かせてくれたのですが、そのとき、漠然とながら「書くとしたら戦前だな」と思ったとまではいいませんが、戦前から戦中にかけてのことが何か気になっていたのは確かです。
そして三つめですが、これは登場人物の赤毛のキャサリンという女性に関係があります。一九六二年九月、フランス政府給費留学生として、フランス郵船ヴェトナム号に乗って横浜を発ったのですが、見送りにきてくれた友人の知人という女性がたまたま同じ船に乗っていて、彼女はドイツ人と結婚するために欧洲に行くのだという。そこで、東大の先輩の方とわたくしとで、彼女に悪い虫がつかないようにお守りをしていました。そうしてシンガポールに着いたのですが、そこにやってきた女性の知人の知人というのが、海峡対岸のマレーシアのサルタン(イスラム王侯)の兄弟なんです(笑)。で、その連中に「今夜は俺たちとジョホールバルまで行ってひと晩すごそう」と流暢な英語でいわれ、サルタンの乗ってきた高級車で狭い海峡の橋をわたっていくと、怖そうな警官が「こいつらはマレーシア入国のビザを持ってない」という。ところが、サルタンのひとりが “I guarantee!”(俺が保証する)って言ってあっさり国境を通れちゃいました(笑)。ホテルでたくさんの料理をご馳走になり、夜遅くなってからバーにいったところ、当時二十五、六歳の私の目には大層美しいと思えたヨーロッパ系の赤毛の女性がピアノを弾いており、そのうちにジョン・フォードの『リオ・グランデの砦』(一九五〇)で使われた “I'll Take you home again, Kathleen”(故郷まで連れて帰りますよ、キャサリン)を歌いはじめた。その映画で、ジョン・ウエインと別居中の女性「キャサリン」役を演じていたのがアイルランド系のモーリン・オハラ。そこでピアニストに「あなたはアイリッシュか」と聴いたら、「そうですとも」と彼女は胸を張って、もう一度“I'll Take you home again, Kathleen” を歌ってくれ、いたく感動した記憶があるのです。本当はアイルランド民謡ではないのですが、当時のわたくしはそう誤解しており、しかもフォードの作品で聞き覚えたメロディーがジョホールバルで歌われていたことに深く胸をうたれたのです。もう半世紀以上も昔のことですが、その赤毛のキャサリンが「伯爵夫人」に出てきてしまいました。そのキャサリンに「伯爵夫人」がマレー半島まで会いに行くエピソードも用意されていたのですが、あまりに煩雑すぎるのでオミットしてしまいました。
ですから、ある意味ではわたくしの個人的な体験が——もちろんその通りに書いたものはひとつもありませんけれども——ある種のフィクション化をこうむって、向こうからやってきたといってよいと思います。
(続きは本誌でお楽しみください。)