丸谷才一 単に重陽の節句を祝つてだらうが、この日、獅子舞とや やこ踊が大内に召された。前者は御霊鎮送、災厄退散を まじなふ二人立ちのものだらう。後者は幼女の踊。帝は 紫宸殿で御酒を召上りながら御覧になり、むら井といふ 者を経て踊子二人には扇子、獅子には太刀を賜はつたと 『御湯殿の上の日記』にある。これは禁中御湯殿上の間 で天皇近侍の女官たちが記しつづけた、もちろん仮名書 きの当番日誌だが、当日の記載は日本藝能史の重要な史 料となつてゐる。この踊が歌舞伎のはじまりらしいと推 定されるからである。 すこし詳しく説明すれば、翌天正十年五月、奈良の春 日若宮で、加賀国の八歳と十一歳の童がややこ踊を踊つ たが、いたいけでなかなかよかつたと『多聞院日記』に 見える。同じ二人のやうだから、天正九年には七歳と十 歳である。そして十六年後の慶長三年五月二十三日には、 ややこ踊がいろいろの狂言をお目にかけたと『御湯殿の 上の日記』は記す。狂言とあるのを見ると、劇的要素を 増したのかもしれない。『時慶卿記』といふ公卿日記の 同五年七月一日の条には、出雲のややこ踊、一人はクニ、 一人は菊といふ者が近衛家に参上した、ほかに下座の男 女十人ほどとある。さらに『当代記』といふ年代記の同 八年四月の条には、近頃、歌舞伎踊なるものがある、出 雲の巫子お国とやらが京に上り、異様な風態の男装をし て、その男が茶屋の女と戯れる様をおもしろく演じるた め、京中の貴賤ことごとく喜ぶこと斜めならずと記され てゐる。従つてややこ踊と歌舞伎との関連はどうしても 認めるしかなからう。ただし天正九年の踊子二人が果し てお国と菊かは不明だし、ましてこのとき扇を拝領した 踊子のうちの一人が成人して出雲のお国となるかどうか はすこぶる疑はしい。生国が出雲とあつたり加賀とあつ たりするのは、何とか言ひまぎらすことができるとして も。 浜谷百合子はこのへんのことは承知の上で、天正九年 九月九日の踊子を敢へてお国お菊と名づけることにした。 時代小説には有名な人物が出て来るほうが段違ひに有利 なことは、三年前に直木賞を受賞した作家はよく心得て ゐたし、それに七歳と十歳とすれば、慶長八年にはお国 は二十八、九で、いかにも女歌舞伎の座長にふさはしい と思はれたからである。それゆゑこの『お国とお菊』と いふ長篇小説は、紫宸殿の南庭で二人の童女が最後の曲、 ……… 花も紅葉も一盛り ややこの踊振りよや見よや いつ面影の忘られぬ 鳥の習ひぞ いそ夜も明けよ いとしな、いとしな さても若衆はな 四方のやまやま 木の数よりもなほいとし をめでたく踊り納めて、扇をさづかる場面からはじまる。 織田信長の代官である所司代、村井貞勝が扇を手にし て歩み寄り、につこり笑つて、 「ししよりさきに」 と言ふ。これは、獅子は百獣の王ゆゑ第一番に獲物を くらふはずなのに、といふ心か。公卿たち、女官たちは 忍びやかに笑ふ。国と菊はきよとんとしてゐる。下座の 者十人ばかりも後ろでひつそりとかしこまつてゐる。二 人がありがたく扇をお受けした。次に獅子は、太刀を口 で頂戴してから、軽く一さし舞つて喝采を博する。この 獅子舞が春に向けて東へとゆるゆる下りながら、恩賜の 太刀を、そしてややこ踊が中国筋において拝納の扇を、 毎度宣伝の具として使ひ、箔をつけるとすれば、公家衆 および村井に用ゐた鼻薬も高いものではない。ただし所 司代の村井は明年六月、本能寺の変に際会して討死する のだけれど。そしてもちろん国も菊も、満面に笑みをた たへて扇をさづけたあの贅沢な身なりの武士が世を去つ たことなど耳にするはずはない。第一こんなに戦がつづ いてゐては、非業の死など珍しいものではなかつた。 とこんなふうにはじまる『お国とお菊』なのだが、作 者の意気ごみのわりには評判にならず、物語がまだ慶長 にはいらぬうち、連載は打切られた。単行本の売行もさ ほどではない。表立つた批評がないのはこの業界では普 通のことだが、連載中も単行本になつてからも、懇意な 編集者たちが話題にするのを避けてゐるやうに感じられ てならないし、面と向つて褒めるときも言ひまはしが何 か空々しい。歌舞伎学者二、三人から丁重な礼状が届い たほかは、出雲に住む菊といふ名の老女から、もつと菊 を活躍させてもらひたかつたと筋違ひな怨み言を言つて 来たのが主な反応である。百合子は、藝道ものは受けな いといふのはやはり本当らしいとか、『出雲のお国』と いふ題にすればよかつたかとか、さらに、色事をもつと 露骨に書くべきだつたかもしれないとか、あれこれと後 悔したが、次々と控へてゐる仕事の忙しさのせいで、愚 痴つぽい思ひは長くつづかない。 |