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写真日記 風邪とゲラの間で
三月一日 既に判っていた事だが、雑誌の都合で、今年
一杯するはずの連載が約半年中断する事になった。空い
た半年間は無論、来年するはずだった仕事と差し替えで
ある。今から十一月中旬までに、計四百二十枚、内訳は
中編三、短編三、行き先は既に全部決まっている。分量
を考えれば結構きついはずだが、書評や対談、講演、殆
どのエッセイを断る事にしたため、また細かい締切りが
ないため、心理的には休暇に近い状態となる。小説の執
筆だとかなり追われてもあまり苦にならないし、以前と
違って生活の心配や世間への気兼ねがない、今までが慌
ただし過ぎたのかもしれないのだが。――中断した連載
は十一月から岩波書店の「世界」で再開する。雑誌のイ
メージと私のキャラクターがあまりに違うのでいろいろ
からかわれてしまう。

三月三日 これで確か七年目、ぬいぐるみだけの雛祭り
をひとりでする。箱にしまってあるぬいぐるみを出して
桃の花やお菓子を供えるだけの事なのだが、以前エッセ
イにして、信頼する編集者から「不気味だ」と褒められ
た。可愛い、などと言わないところがさすがに私の担当
である。午後から知人の出産祝いを買うためデパートへ。
赤ちゃんの服を選ぶのは勇気がいる。他に本七冊。プレ
ゼント用に小山彰太のCD「一期一会」。――二十代で
全盛期の山下トリオを支え、ハナモゲラ語の起源と言え
る独自の言語を生んだスタードラマーが、四十代半ばに
して始めて出したリードアルバム。極北の境地に達しな
がら働き盛りのエネルギーが漲っている。

三月五日 既に第一回のゲラを受け取った連載「東京妖
怪浮遊」の取材でご近所、鬼子母神へ。住みはじめて三
年、ここに来るのは二度目。御神籤を引く。願い叶う、
と言われて心当たりなし。前に来た時建設反対とあった
マンションが完成している。お稲荷さんの鳥居の横のシ
ブい駄菓子屋でススキミミズク買う。千四百円。「ビニー
ルをかけておけば十年保つ」という。昼食は雑司が谷名
物「ギョーザカレー」。土田よしこのマンガで名前は知
っていた。味はいいが、組み合わせの必然性は一回では
判定しかねる。一旦家に帰って文芸誌「S」のTさんと
会う。短編の構想と猫の話。わざと個人名を書かないの
はこの日記を後々新潮社のホームページで公開すると聞
いているからだ。夜、連載のゲラを直しながら、知人が
このミミズクを欲しがっていたとやっと思い出す。薄情
な奴。「でも別にこれをあげてもいいし」。深夜、日本
酒ワイングラスに一杯半。泥酔。体調悪い。――普段の
私は夢日記と家計簿しか書いていない。この日記だって
一ヵ月丸々真面目につけるなんて絶対にしない。

三月六日 飲酒と外出の祟りで全身がだるい。熱が出て
咳をしたら喉が切れた。「新潮」の四月号が届く。自分
の短編の「間違い探し」。「あっしまったばっかやろう」
と二回叫んで自分を責めた後、他のページを読む。急に
爆笑。熱が下がってきたのでベッドの上で、遊びに行く
ところをいろいろ想像する。夜中に起きてしまい読書。

三月七日 早朝、いつでも後知恵……ゲラは自己模倣と
慣用句だらけ。手入れを終え、前の本を確認したりして
いて風邪悪化する。熱八度台。ファクシミリで送る。十
二枚の紙を送る間にくしゃみでティッシュ一箱を使い尽
くす。慣用句が残ったようで気になる。

三月八日 十日締切りのエッセイ少し。「休暇になって
ない」というべきなのだろうが、後が楽だと思うと、割
合平気。熱の乾きで鼻の頭がぼろぼろになってひび割れ、
血が出てくる。朝と昼ジュース、夕方、離乳食であった
というミルクとコンソメとチーズの入ったお粥を拵えて
食べる。ベランダに出るとまた熱が出そうなので洗濯物
は乾燥機で乾かす。

三月九日 熱少し下がると顔の皮べりべり剥げてくる。
別に肌が綺麗になるわけではなく、乾燥したせいでしみ
が増えるだけ。ずっとエッセイ。横になっても座ってい
てもフェリーのように揺れる。壁にミラーボール風の模
様まで浮かぶが、ワープロの前に座ると反射的に文章は
出る。床が凄く汚い。健康な時はあまり気にならないの
に。

三月十日 エッセイ、ファクシミリで送る。声が出にく
くなっているので通信は文章でと原稿に書き添える。こ
れで今月の締切りは二十日と二十八日のエッセイだけに
なった。後は四月十日締切りの連載第二回分三十枚のみ。
電話があり、二十日の新聞エッセイの締切りが十七日と
なり、新潮文庫「二百回忌」の準備に来月から入ると判
る。

三月十五日 流感ぶり返す。ふらふらして体がうまく持
ち上がらない。ワープロを打っているのじゃなく荒馬に
のっているような感じである。

三月十六日 誕生日に普通食。ベトナム春巻を食べる予
定だった。でもやっぱり休暇だ。何ら好きではないデビ
ッド・マッカラムが夢に出て来た。目の前から急ぎの仕
事が減ると、取り敢えず夢に、過去の物、人、景色。―
―寝ていて狼の群れと夜明けの草原を走っているような
妙な感じがして来る。以前に対談した松浦さんの言葉の
「日常生活における絶望感がとても深い」というフレー
ズを実は完全には判らぬままでいたけど、少し暇になる
と、そうか、なる程これの事だったのか、と思い当る。
夕方、追っ掛け読者の人から、バースデイファックス。
夜、誕生日を共有する友達から電話。

三月二十日 病気も下火、治りかけは何をしても楽しい。
音楽を聴きながら本を読み、パセリオムレツと豆ごはん
を食べ、靴を磨く余裕まであるが「床は汚いまま」。社
会と自分の関係が「どうもまずい」という困った自覚と
引換えに得る喜び。究極のアメーバ状態か。

三月二十五日 一生懸命遊び過ぎ、家事もし過ぎて風邪
ぶり返す。最悪。

三月二十九日 三日前に急に入ったBBCラジオのイン
タビューに行く。私は「国辱、それともタカ派」、んな
殺生な。深夜自作の英訳をつい見てしまった。風邪は治
ってる。

三月三十日 取材と数珠を買うために巣鴨へ、七十代位
のお洒落で元気な女の人達を見る。母は肺ガンのため、
昨年六十五歳で死んだ。本二冊と地蔵飴を買い、連載の
ための写真を撮る。六月に出る新刊「パラダイス・フラ
ッツ」の装丁にも自分の写真を使う。巣鴨駅構内で「マ
グレブ民謡集」CD。狩人みたいな歌が混じってる。出
掛ける度に巣鴨でまでCD買ってる。たまにしか出掛け
ないから別にいいんだけど。読書とビデオについて書か
なかったのはわざと。目を庇うため、ビデオは滅多に見
ない。今月の気になる本「蝶の皮膚の下」。ついに見た
ビデオは「東京画」という事で……。

三月三十一日 「風邪ぶり返す」。今月はよく外出した。
来月は沢山遊びたい。