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【冒頭部分掲載】

レシート

多和田葉子


 黄色い救命用チョッキは意外にすんなりと身に付けることができた。垂れている紐をきゅんと引けばふくらむのだろうが、機内でふくらましてはいけないといつか誰かに言われたような気がする。前回、飛行機に乗った時のことだろうか。それとも、この飛行機に乗ってからのことだろうか。
 機内は無気味なほど静まりかえっている。救命用チョッキからぶらさがった紐の先についた赤いプラスチックのツマミを見ていると、すぐにでも引っ張ってみたくなる。引っ張ったとたんに静けさが破れて一斉に鼓膜を引き裂くような警報が鳴り出すかもしれない。決して引っぱってはいけない。そう思うと、ますます引っぱってみたいという気持ちが抑えられなくなってくる。
 座席の前のポケットには、いつものように「安全のしおり」が入っていて、水上に浮かんだ飛行機と、そのとなりに浮かんだゴムボートの絵が描かれている。ボートの中には、のっぺらぼうが数人、輪になってすわっている。機内で乗客がシートベルトを締めている場面では個々の顔がきちんと描かれているのに、ボートに乗っている場面になるとなぜか目鼻がない。のっぺらぼうになってしまった人間たちの乗った救命ボート。その絵が平和な雰囲気をかもしだしている理由はもう一つある。空が青く塗られていて、そこにかもめが描かれていること。イラストレーターはかもめを描き足す時、何を考えていたのだろう。
 まわりの乗客たちはみんないやに口数が少なく、友達や家族連れも、たまに声を殺してささやきあうだけだった。何を話しているのか全く聞き取れない。斜め前にすわった背広姿の男は時々、ドリルが壁に穴を開ける時に出すような短いうなり声を漏らしては、あわててそれを掻き消すように咳き込んだ。
 機体がぐっと前に傾いた。急降下し始めたのか。わたしはうつむいたまま上体を前に傾け、つむじを前の座席に押し付け、後頭部で両手を組もうとしたが、左右の指の長さが違ってしまったようで上手く組めない。右手の中指は以前からこんなに長かったか。左手の小指はこんなに短かったか。平和で暇な時間に指をゆっくり点検しておけばよかった。目をつぶり、上の歯と下の歯をきちんと噛み合わせようとしてみる。歯は指よりは上手く噛み合っているようだ。最後の親知らずを去年抜いて、上の歯と下の歯の数を揃えておいてよかった。噛み合わせが悪ければ顎に力が入らないだろう。靴は飛行機に乗った時から脱いでいた。自分の靴下が白すぎて他人の靴下のように見える。爪先にハンドバッグが落ちていた。口があいて鍵が飛び出している。拾おうか。やめようか。そう思った瞬間、飛行機が腹をぶつけて一度はずんでから停止し、大雨がトタンを乱打するような音と同時に人々の声がイナゴの大群のように湧き上がってきたが、気がつくとすでに静寂があった。「海に降りたのね」と誰かの言う声が聞こえた。船のような揺れがないので水に浮かんでいるという感じはしない。非常口がいっせいに開いて、教会のステンドグラスを通して入ってくるような光がさし込んできた。放送が聞こえてきた。「機外に出る時には荷物はすべて置いていってください。」「すべて」という箇所をいやに強調している。放送は次々いろいろな言語で繰り返された。十か国語くらいあっただろうか。文章の中で妙に強調されている単語がどれも「すべて」という意味なのだろうと思った。すべての所有物を捨て、光のさしこんでくる出口に向かってみんなで裸足で歩いていくのだ。乗客たちは、新興宗教の教祖に集団催眠術でもかけられたように無表情に次々と席を立って、従順に一列に並び、黙って非常口に向かって進んでいく。わたしもそれに従った。非常口が近付いてくる。自分の番が来た。わたしは救命用チョッキから垂れた紐を思いっきり引いた。チョッキが、溜め息のような音をたてて膨らんだところで、わたしは映画の中の尼僧のように両腕を胸の前で重ね、滑り台のてらてら光るオレンジ色の上に脚を伸ばしてすわった。用意はいいかと訊かれて頷こうとするが、首が硬直して動かない。「はい」と大声で返事したつもりが、かもめの叫び声のようになってしまった。誰かに背中を押され、滑り始め、どんどん速くなって、目の前に真っ青な太平洋が扇を開くように広がった。お尻に火がついたように感じたのも束の間、すぐ下に着いて、自分で身を起こす前に脇に立っていたスチュワーデスがぎょっとするほど強い力でわたしの肘をつかんで持ち上げて立たせてくれた。お礼の言葉を口にしようとしても舌が奥の方でまるまったまま伸びない。「ボートに乗ってください」と言うスチュワーデスの発音はニュース番組のアナウンサーのようにはっきりしている。顔には非の打ちどころのない笑顔が浮かび、制服の胸に結ばれたバナナの色のリボンも少しも乱れていない。救命ゴムボートに足を踏み入れると、ボート全体がぐらっと揺れたが、ボートにすでに乗っている人たちはわたしの方を見なかった。スチュワーデスの強い腕に突き放されて、ボートは機体を離れた。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。