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【冒頭部分掲載】

残光

小島信夫


 第一章
 これから、時々、その名が出てくるかもしれない、山崎勉さんという人は、英文学者で、たいへん魅力的な声をしている。この人は、前にぼくの八十八歳の祝いの小さい小さい会が催されたときに最初に演壇にあがってしゃべってくれた人である。そのあとに続いて、保坂和志さんがぼくのことを語ってくれた。その一部始終は、「青ミドロ」というタイトルで、当時出 た「新潮」に載っている。
 山崎さんは、保坂さんの『プレーンソング』も芥川賞になった『この人の閾(いき )』も『カンバセイション・ピース』も読んでいた。『カンバセイション・ピース』は、ぼくが電話をかけて、読んでくれるように頼んだ。そのときの読後感も話してもらった。それ相応にきびしいところもあったりして、そのあとも保坂さんのものは、おおよそのところ読んで報告 してくれる。
 彼は年に二、三度、以前から関係している「二十世紀文学研究会」にぼくが出席するさいに、市ヶ谷駅でぼくを迎えて会場の法政大学まで歩き、帰りには電車で国立駅で降りてぼくの家まで送りとどける。時間が時間なので、玄関口まで出たぼくの娘が礼をいってぼくを引き取るが、一度も家に上ったことがない。妻が家にいなくなってからのことなので、娘も特に無愛想しているというわけでもない。
 山崎さんに度々電話をかけるのは私の方で、彼が電話口に出てくるまで、夫人の声がきこえ、たいていそういうときは、犬の吠声 がする。犬の調教師を訪ねて吠えないように頼んだとき、今からでは手遅れである、叱ったあとはしばらく相手の眼を見てはいけな いのだ、といわれた。彼はしばらく前に、ヘンリイ・ミラーの選集のうち最初の作品を含む『黒い春』を送ってくれて、その中で、 青年であった作者自身が叔母を市電に乗せてニューヨークのある精神病院に入れに行った。そういう役を青年が引き受けさせられた のだ。青年の家は洋服の仕立屋であるが、なかなか新しく仕立の注文がなく、たいていは直しであった。彼は貧しい人の多い街を歩 くとき小説の一つぐらい出来上っていた、と書いている。しかしこの日は違っていた、ということが書いてあったかどうか忘れた。 そういう役目はありがたいものではない。役目を果して引上げてくるとき、叔母は、手紙を出すとか、ケーキを送ってくれとかいっ た。鉄柵から出された手を握ると、ぎゅっと握りしめて、彼女の二つの眼が涙で溢れたということを書いていたかもしれない。その 涙に溢れた眼のことを、山崎さんはくり返しいった。人間の眼がすべてを語るのですよ、とくり返した。私がそのときいったことを、 彼は覚えていた。
続きは本誌にてお楽しみ下さい。