本・雑誌・ウェブ

【冒頭部分掲載】

第三十六回新潮新人賞受賞作
真空が流れる


佐藤弘


 編集した映像を最初からチェックしているとまるで誰かの作品を見ているような気分になって、前に啓介に話したことを思い出した。僕は家族が寝静まった後のリビングで借りてきたビデオを一人でヘッドフォンをつけながら見るのが好きなのだけれど、その日はつまらない映画にあたってしまって、注意力が散漫になりながらふと外を見ると蛾が何度も窓にぶつかっていた。僕の家はカーテンではなくて、外にシャッターを降ろすようになっていて窓とシャッターの間で蛾はもがいていた、というより僕にははしゃいで見えた。大きくて茶色と黒の混じった汚い色で、それが嫌だからというよりも、慈悲のような気持ちで指で窓を叩いて逃げるのを促していると、いったんは指から逃げるのだけれどまた違うところでこちら側に当ってくる。何回それを繰り返しても結果は同じだから結局ほうっておいてまたつまらない映画を頭の中で文句つけながら流し見をしていたということを冗談を言うように啓介に喋ったら、「もう何が正しいのか分からないなそれは」と啓介は言った。こんなのは友達に喋っても「お前なに言ってんの」と流されるようなことで、そうなってもいいように話したつもりだったので、啓介が何を言っているのかがよく分からなかった。考えようとしたのだけれどやはり頭の中は冗談混じりの状態だったから、僕は笑って流してしまった。そこからその話がどうなったのか覚えていない。
 思い出している間にも映像は流れていて、目は画面を見ていたけれど頭は全く追っていなかったので、その分だけを巻き戻した。玄関の鍵が開けられる音が部屋に響いてきて、母が帰ってきたことに気付いた。急いでスピーカーにヘッドフォンの端子を繋いで映像の音が聞こえないようにする。「ただいま」という声に僕は「おかえり」と聞こえるかどうかぎりぎりの計算をして言葉を発した。すぐに部屋をノックしてきて「直ちゃん」とドアを開けずに母は言った。
「大丈夫?」
 僕は今度は平静を装いながらそれでも元気過ぎずに「大丈夫」と答えた。どちらにも次の相手の出方を窺っているような重い空気が流れる。それに気付いて逃げるように母が向こうへ行く足音が聞こえる。画面は巻き戻しを続けていて、ずっと前までいってしまったので停止を押した。笑っている啓介がこっちに向かって何か喋っている。ヘッドフォンにしているから何を言っているのか分からないけれど、編集作業で何回も同じ場面を見ているから、笑い顔と周りの風景だけで啓介が僕が始めてタバコを吸ってむせた思い出話をしているのが分かる。笑顔の啓介はただはしゃいでいるだけに見えて、今の自分が笑われているような気がする。「俺のせいで大変だねえ」とか「親に隠れて何やってんの」とか「シコシコと地味な作業ばっかだ」と笑いながら啓介にバカにされているような気がする。つられて僕も笑ってしまった。ヘッドフォンをつけた。
 そこにはあの日の啓介がいる。夕日を背に浴びて、啓介からもれた陽射しがこちらからでは眩しい。逆光で啓介の顔がよく分からない。笑っているように見える。僕は逆光なのに気付いてゆっくりと横にずれた。
「逆光?」
 啓介がこめかみに銃をつきつけながら笑って言った。
「かっこよかったよ」
 と僕が言うと、
「もっともっとかっこよく撮れよ」
 と啓介が笑いながら言った。
「大丈夫、夏は日が暮れるのが遅い」
「劇的な台詞」
「わざとだよ」
「あっ」
「なに?」
「危なく撃ちそうになっちゃった」
「もう死ぬのかよ」
「いつ死ぬか、分からないよ」
 この約二時間後に啓介は自殺する。編集したこの映像では三十分後に啓介は自分のこめかみを撃つ。僕は何度もその場面を見ている。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。