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【冒頭部分掲載】



古井由吉


 何処に住んでいるのか。誰と暮らしているのか。そして生まれ育ちは――。
 構えて尋ねられたくはないことだ。答え甲斐もないようにも思われる。
 現住所は尋ねられれば差障りのないかぎり教える。手紙や書類にも欠かすわけにいかない。あちこちに登録されている。一切届け出ることのできぬ境遇に追いこまれれば、人の生き心地は一変する。しかし住所を書きこむ馴れた手が途中で停まりかける。にわかに、知らぬ所番地に見えてくる。ほんのわずかな間のことだ。既知が昂じると、未知に映ることはあるものらしい。
 嚊アとばばア、と『ぼく東綺譚』の「わたくし」は派出所の巡査に、住所氏名ばかりか家族のことまで問い詰められて、口から出まかせに答えている。女房とお袋、妻と母親とは男にとって、いずれ正しい答えなのかもしれない。しかし紙入れの中に、戸籍抄本と印鑑証明と実印を、偶々であったかどうか、携えていた。
 話がいつか自身の現在住まう界隈をめぐっている。相手は土地のことを知っていた。一時期繁く通った程度のことらしいが、そこに居を定める人間に出会ってみると、懐かしくなったものと見える。話は親密になる。ところが、現にそこで暮すほうがそのうちにわずかずつ、話に置かれる。相手の言うことはさらに仔細になる。四つ角あたりの光景が立ち上がる。声から雰囲気も伝わる。季節も時刻もある。それにつれて現住の人間は、知らぬ土地の話を聞かされているような、述懐されているような、隙間を覚える。相手のは記憶だが、自分のはただの、知識のようなものではないか、とひそかに怪しむ。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。