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【冒頭部分掲載】



辻仁成

 二度離婚し三度結婚をした私の人生はお話するには値しない。こっそりとこれを異国の地で認(したた)めながらも、このような半生を人さまにお伝えすることが小説家の仕事なのだろうか、と悩む。なのにこうやって書きはじめてしまった。私の中には幼い頃より一本の刀が棲み着いており、この頃は毎夜のごとく夢に出てきて、書け、と私を脅す。書かなければお前を切る、と刀は宣うのである。
氏家 透 


第一節



 一九五九年十月四日、私、氏家透は東京の郊外、辛うじて東京という地名を冠することができる現在の日野市にあたる日野町で生まれた。
 世間に出回っている「東京生まれ」という私の略歴に嘘はないが、生まれたところは首都東京のイメージからはほど遠い、郊外の寂れた田舎町。当時の日野駅前は、まだそこかしこに急築の営舎並の粗造建物がひしめいていた。
 昭和三十年代に入るとここに日本で最初のマンモス団地が建設された。保険会社に勤めていた父は見事公団の抽選を当て、一家は家賃三千円の都内のアパートから家賃四千八百円、共益費百五十円のこの団地へと引っ越した。私はまもなくそこで生まれる。
 八十七号棟、二○三号室の間取りは1LDKと狭かったが、薪で風呂を沸かし、汲み取り式便所が主流だったあの時代にあって、そこには既に洋式トイレが完備されていた。
 後の私の密かな自慢は同年代の仲間たちよりも一足早く、欧米の文化に触れたこと。九州の片田舎から出てきた祖母に洋式便器の使い方を説明しながら、私は戦後生まれの日本人である自負に酔いしれた。
 西洋を尻で受けとめ、すっかりかぶれてしまった祖母は、
 ――トオル、洋式便所は画期的ばいね。これで日本は変わるったい。
 と言い残し田舎に戻っていった。



 日野町の駅前には不二家があり、その店頭にはペコちゃんの等身大の人形があった。雨の日も雪の日も嵐の日も、ペコは健気に頭を振りつづけていた。後年、恋愛に明け暮れる私の、初恋はこのペコである。私は時間が出来るとペコに会いに行き、日が暮れるまでそのふくよかな体躯をうっとり眺めた。この頃、父親の給料が上がり、私たち一家は同じ団地の九十三号棟へと越した。間取りは3LDKでもちろん洋式トイレが備えつけてあった。
 当時母親は毎日のように団地の奥様方と階段の踊り場に集まっては、つまらない会話に勤しみ、その豊かな才能を腐らせていた。発明家であった祖父譲りの想像力と人心掌握術に恵まれていた母の才能が開花するのは、それよりさらに十数年後のこと。
 団地は男たちにとっては女を隠しておくに都合のいい金庫であり、女たちにとっては牢獄だった。私は団地の公園の滑り台の上から、ベランダの鉄格子に顔を押しつけぼんやりと世界を眺めているうら若き妻たちを何人も目撃した。団地の狭い踊り場に押し込められた主婦らは少ない話題で日々を繋ぎ、ブロイラーさながら脂肪と欲望を蓄積させていった。
 母親の不幸を目の当たりにしていた私は、子供ながらに女という生き物を、可哀相な人たち、と誤解していた。私は高校の歴史の授業で纏足の風習が長く中国で流行していた事実を知った。教師はそれが行われた理由について言明を避けたが、私は幼い頃に見た団地の妻らのことを思い出し、一人納得をした。
 幼い私が、男女の真実の関係を目の当たりにしては未来に不安を抱き、無意識下の畏怖に動かされ、人間の女への興味を持てなかったとしても、別段不思議なこととは思われない。私は女に裏切られるよりは、無償の愛を提供する不二家のペコと難しい事柄を飛び越えたプラトニックな関係でいる道を選びたかった。
続きは本誌にてお楽しみ下さい。