「最後の変身」 平野啓一郎
長い間、俺はじっと、部屋の片隅にうずくまっていた。 部屋に籠もりきりになってから、もうそろそろ二週間が経とうとしている。鏡に映し出された俺の顔には、野生そのもののように髭が這い出してきて、まったく無遠慮に頬から顎にかけてを覆っている。俺は何時も、小ギレイなカッコを心がけていたから、髪の毛だけではなくて、眉毛の生え具合にまで気を配っていたが、目許は既に廃屋を囲む雑草の茂みのように荒れ、そこに、何日も洗ってないために不潔な光を帯びた髪の毛が、掻き上げる度にだらしなく崩れかかってくる。 何もかもが億劫だった。体を動かそうとすると、恐ろしく不愉快な気分になる。俺はただ、時折、巨大な虫のようにゴソゴソと這い出して、運ばれてきた食事に口をつけ、家族の目を盗んで排泄しに行った。俺の背中は丸く、鎧のように堅くなって、その都度、鈍い痛みを発した。俺が自分の変化を知り、その急激な進行を感じたのは、恐らくはその痛みのせいだった。 ――そう、俺はぼんやりと、カフカの『変身』という小説のことを考えていた。俺はこの、手記のようなもの(考えてみると、俺はこれまで、書くことは愚か、一度も「手記」なるものを読んだことがない。あるのは、作家が架空の人物に書かせた、架空の「手記」だけだ。あの、ワザとらしいウソの序文だとか、注釈だとかがつけてある、よくある類のヤツのことだが。あまり深く考えたことはなかったが、どうして連中は、あんな面倒な書き方をするのだろう?)を書き始める前に、大学生の頃に一度だけ読み、ヘンな話だという程度の印象しか抱かなかったあの小説をもう一度読み返して、それから、同じ頃に買ったまま、それですっかり読む気を失って書棚に放置していた二冊の短篇集にも目を通し、今度はヒドく興味をそそられた。俺はまるで、ニキビヅラの中学生が、『人間失格』でも読んだ時のように、その中に俺自身の似姿を発見したのだ(ただし、感動も共感もなかった)。俺は自分が、どんなにおかしな具合になっているかを、改めて思い知らされた。俺は要するに、変身したのだろうか? 続きは本誌にてお楽しみ下さい。
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