〔短期集中連載 第一回〕 「ハイスクール1968」 四方田犬彦
何故なら、彼は何であっても、「物事のお終い」が大好きであったからだ。即ちそこにある、何処か遠方へ出発する前夜のような、それとも取片付けを終えて何かを待つばかりになったとでも云うような、静かな一刻に憧(あこが)れていたからだ。 稲垣足穂『弥勒』
第1章 1968.4 1-1 1968年4月、わたしは東京教育大学農学部附属駒場高等学校に入学した。学校は井の頭線の駒場東大前の駅から南に六百メートルほど歩いたところにあった。その二年前まで、駒場と東大前とは別の駅だったが、あまりに距離が近すぎるというので、ふたつが合併したのである。附属中学から続けて進学したわたしには、学校の同じ敷地内で校舎が隣に移ったというだけの違いしかなかった。 高校に進学する前の年の夏休みに、わたしの一家は世田谷区下馬町に父親が借りていた、自動車会社の狭い社宅を出て、杉並区下高井戸四丁目にある百坪ほどの土地に移っていた。引越しをしてまもなく、ここは浜田山二丁目と住所表示が変わった。新しい家は、わたしが子供のころから親しんでいた大阪は阪急沿線の終着駅である箕面の、猿がときおり庭に降り立って柿の実を狙うといった、鬱蒼とした田舎の家とは、まったく何もかもが対照的だった。新しく建てられた家は万事が西洋風で、庭には芝生が植えられていた。薔薇のアーチが設らえられてあって、その手入れはわたしに一任された。庭の一角には井戸があって、まだ滾々と水が湧きでていたので、一家ではそれを利用した冷房装置を取り付けた。暖房にはセントラルヒーティングが用いられた。まだこうした装置が珍しかったせいもあって、製造元の石油会社は、取付けが完成してしまうと母親をTVのコマーシャルに起用しようとした。万事において目立つことを好まなかった彼女は、それを丁重に断った。 ヴェトナムでは僧侶が次々と抗議の焼身自殺を行ない、枯葉剤が密林に散布されていた。ボリビアではチェ・ゲバラが処刑され、シナイ半島はイスラエルの奇襲作戦によって占拠されていた。悲惨は世界のいたるところにあった。だが、それはほとんどわたしの耳許にまで達してこなかった。イザナギ景気とよばれる好景気が続き、TVを点けると山本直純が「大きいことはいいことだ」と連呼していた。1968年、日本はアメリカ、西ドイツに次いで世界第三位の国民総生産を誇るまでになっていた。米はあまるほどに収穫され、ピアノの生産台数は世界一に達していたのだった。 続きは本誌にてお楽しみ下さい。
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