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新潮◆FORUM

Special 安岡章太郎氏の傘寿を祝う会
 長編小説「鏡川」を本誌四月号に発表した安岡章太郎氏が、五月三十日満八十歳の誕生日を迎えられた。もっとも本当の生年月日は四月十八日とのこと、四十日余りもさばをよんでいたことになるが、それはともかく、ライフワークの完成と傘寿を祝って、OBを含め親しい編集者二十人ほどが、六月九日代官山小川軒に集まり、氏を囲んで楽しい一夕を過ごした。
 元岩波書店社長緑川亨氏の乾杯の辞では、安岡氏の小説ではないが、担当編集者は申し合わせたように優等生失格の「悪い仲間」が揃ったと笑わせ(この際ついでに暴露すると、氏には昔から女性編集者はつかなかった!)、続いて挨拶に立った文藝春秋OB豊田健次氏は、安岡作品の題名を読み込んだ都々逸(?)を披露。このあたりから、あちこちでワイングラス片手に議論の花が咲き、途中で、わが新潮社からは七月末刊行予定の単行本「鏡川」の見本(箱入り。装丁は田村義也氏。安岡氏の親戚にあたる土佐の日本画家・別役春田の墨絵をあしらう)も回覧に供された。  かつて安岡邸での新年会では、二部屋ぶちぬいた真ん中に、この小川軒の骨付き生ハムがどんと置かれ、当日集まった面々は、それを取り囲むようにして皆あぐらをかいて、酒盃を手に議論を闘わせるのが常だった。この日はまさにそれが再現された具合で、宴たけなわともなると、やはり同会恒例だった安岡氏おハコの名唱「マック・ザ・ナイフ」も飛び出して、喝采を浴びた。
 傘寿の会にふさわしく夕刻から雨模様だったのに、散会時には満月が姿をあらわしており、会の熱気はさめやらなかった。それにつけても、安岡氏の近刊で氏の五十年近い作家生活の回想録「戦後文学放浪記」(岩波新書)のあとがきに「ファックスが盛んになって、作者と編集者が集って話し合う機会がなくなり、いきおい文壇というものが消滅したとは言わないまでも、影が薄くなった」と書かれてあるのは同感で、われわれ編集者にとっても、寂しい気持ちを否定できない。

Garden 丸山健二氏の「白い庭」
  小社刊「安曇野の白い庭」で世に知られることとなった丸山健二氏宅の庭。1キロ離れていても判別できるアルミ壁の家に、水田を突っ切って到着した庭は、「ベスト」と主が言う6月下旬に少し早かったものの、期待を裏切らぬ素晴らしさであった。
 まず驚かされたのは、ぼたんほどの大きさに咲く白いシャクヤクである。あまりに花が大きくて戸惑っていたところ、「蕾を枝一本に一つにして、後の蕾は摘んでしまう」と説明を受けて納得。玄関に向かう木道の前には、薔薇が数十本植えられているが、これも並の代物ではない。ガーデニングの本場英国から取り寄せたという白薔薇である。本当に少しだけクリーム色が掛かった白で、その気品と清潔さに息を呑む。
 満開だったのは、3日しか咲かないという山椒薔薇である。耳なれない名だが、日本の山野に自生する野生種の薔薇だという。丸山さんは、園芸種の毒毒しさを嫌い、野生種の素朴で野趣溢れる色彩を生かして庭を構成している。染井吉野を排し、山桜の風合いを採る、と言えば少しは伝わるだろうか。確かに、野生種だというつつじの橙色も、目に優しい見飽きない色だった。
「英国で庭を判定する基準は、40分間見ていられるかどうかだ」と丸山さんに教わった。選考をする専門家が、その庭のベストの時に訪れて、帰ってしまったら終わり、という方法だという。見て疲れない庭を作るためには、赤い薔薇などの派手な色彩はかえって邪魔になる。紅葉の根元に高山植物が配されていたり、珍しい日本産の蔓薔薇が壁に這わされていたりと、細部にも決して手を抜かない徹底ぶりは、氏の小説哲学のよう。「庭と小説を極めるためには、寿命が何年あっても足りないよ」と笑う丸山さんの半生を、本号巻頭一挙掲載の「生者へ」で堪能して頂きたい。

Adieu コミさん・ふらふら節
 去る二月二十六日、ロスアンジェルスで客死した田中小実昌氏(享年七四)の葬儀は、本人の遺志で行われなかったが、氏がこよなく愛した新宿ゴールデン街のママたち(「しの」木島三代子ママ、「あり」川鍋燿子ママ、「唯尼庵」太田喜代子ママ)が発起人となって、六月十日ゴールデン街にほど近い東京大飯店で「小実サンを偲び(小実ちゃんと、又、飲みたいなぁ)の会」が催された。
 集まったのは、そのゴールデン街や浅草での飲み仲間だった作家や映画監督、編集者、福岡高校の同窓生ら二百三十人。お馴染みの毛糸の帽子に、クリクリ目玉の遺影を前に、長部日出雄氏が「最初に会ったときから懐かしい人だった」とグラスを掲げ、団鬼六、筑紫哲也、若松孝二氏らが、つぎつぎと挨拶に立った。アトラクションも多彩で、シンガー・ソングライター三上寛氏の弾き語りが座を盛り上げ、ストリッパー嬢の踊りも飛び出すという、コミさんならではの豪華版。最後は義兄で画家の野見山暁治氏も舞台にあがって、三人のママさんや参会者全員と「浅草の歌」を合唱して打ち上げた。
 ところで、その日は時間の都合で歌われなかった「コミさん・ふらふら節」(作詞は福岡高校同窓の原田庸之助氏)が傑作なので、以下に抜粋を掲げ、共に故人の面影を偲びたい。
 コミさん今日もふぅらふら バスにゆられてどこへ行く 田舎の車庫で降ろされて 歩く姿もふぅらふら/コミさん夜もふぅらふら 脚は新宿歌舞伎街 通いなれたる花園裏 ゴールデン街をふぅらふら/コミさんどこでもふぅらふら 冬はアメリカ、ロスアンゼルス ショートパンツにサンダルで リトルトーキョーふぅらふら/コミさん兵隊ふぅらふら マラリア発熱髪が抜け 復員船は大揺れで 手摺りに掴まりふぅらふら/コミさん女にふぅらふら ピンク映画にストリッパー 楽屋のふとんにざこ寝して 寝つきがわるいとふぅらふら/コミさん受賞でふぅらふら 直木賞に谷崎賞 パーティ スピーチ苦手だよ そっと抜けだしふぅらふら/今日も明日もふぅらふら この世もあの世もふぅらふら コミさんいつでもふぅらふら みんなで飲もうよふぅらふら

Memories 後藤明生氏を東京で偲ぶ
  後藤明生氏が亡くなられたのは去年の8月2日だった。大阪で執り行われたお葬式の激しい暑さを、昨日のことのようによく覚えている。しかし、東京の文壇関係者など、出席がかなわなかった人などから、東京でも偲ぶ会を、という声が強く出て、このたびの会合となった。6月2日夜6時、上京した時に常宿にしていたホテル・エドモントにて、追分の別荘でご近所だった小島信夫氏の挨拶で会は始められた。小島氏は「自分の説に従わないと機嫌が悪い」という強情さと、話し(呑み!)出したら止まらない後藤さんの性癖をユーモラスに紹介し、会場の笑いを誘った。
 出版社の寮で一緒になり、毎晩酒と長話に付き合ったという田久保英夫氏、体育会系だったのではないかという黒井千次氏、追分の別荘を譲った平岡篤頼氏、近畿大学におけるタフ・ネゴシエーター振りを披露した渡部直己氏。そして、異口同音に「かっかっかっ」という独特の笑い声と長っ尻の陽気な酒を懐かしんだ。
 丸谷才一、坂上弘、加賀乙彦、高井有一、古井由吉、高橋英夫、立松和平、清水徹、奥泉光、島田雅彦、保坂和志、辻原登、鈴木貞美、芳川泰久、大杉重男の各氏など、出席者は150名ほど。老若男女、出席者はバラエティに富み、近畿大学の教え子も顔を見せた。そして、最後に暁子夫人が壇上に立ち、病状を報告。再発した癌の闘病の記録を聞くうちに、満場は静まり返る。亡くなる前の日、強くせがまれて病院を散歩した、という話が印象に残った。
「内向の世代」の代表的存在としての作家活動。晩年には大学の運営に腕を振るい、文芸学部創設十年を目前にした死であった。現役作家が、本格的な形で教壇に立つ現象の先鞭を付けた人である。その夜、後藤さん馴染みの酒場は、昔話に花を咲かせる文壇人で賑わった。

Books 大正文学全集刊行開始
 今世紀も終わりを目前に、大正期の文学を回顧するアンソロジーが刊行をスタートした。「編年体大正文学全集」がそれである。
 全集としては異例の、完全編年体の編集スタイル。新聞の文芸時評の隆盛や円本ブームによる書物の大衆化など、文学がジャーナリズムと密接に結びつき始めた、大正十五年間の文学動向が、小説のみならず同時代の評論・詩歌・児童文学などを同時に配置することで立体的に俯瞰される。
 既に刊行された第一巻大正元年1912では、森鴎外「興津弥五右衛門の遺書」、夏目漱石「雨の降る日」など大家の円熟期の作品にまじって、萩原朔太郎や田村俊子、志賀直哉、荒畑寒村、野上弥生子、谷崎潤一郎らの作品も併置され、デモクラシー機運の下、白樺派耽美派プロレタリア文学と、新時代の文学の萌芽が多様に分岐展開していく姿をみることができるだろう。
 各巻の編集構成は紅野敏郎氏、曾根博義氏ら第一線の国文学者が一人一巻を担当、編者同士の魅力ある目次の競い合いも見どころだ。次回配本の第二巻大正二年1913では、中原中也晩年の療養日誌発見で久方ぶりに注目された(小誌四月号新潮欄参照)、中也の主治医で漱石門下の中村古峡の代表作「殻」五百枚が全文掲載される予定。「全集ばなれ」が口にされて久しいこの時期に敢えてスタートした本企画。長谷川潔ら当時の人気版画家の作品を大きく用いた瀟洒なカバー装幀も親しみやすく、新組の文字も二段組ながら緩く読み良い。書架に眠らない活用される全集として愛書家の手許におかれることが期待される。隔月配本。問い合わせは、ゆまに書房(○三-五二九六-○四九一)まで。