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第16回 三島由紀夫賞

主催:一般財団法人 新潮文芸振興会 発表誌:「新潮」

 第16回 三島由紀夫賞 受賞作品

阿修羅ガール

舞城王太郎

新潮社

 第16回 三島由紀夫賞 候補作品

 エミリー 嶽本野ばら 集英社
 キャベツの新生活 有吉玉青 講談社
 世界がはじまる朝 黒田晶 河出書房新社
 阿修羅ガール 舞城王太郎 新潮社
 壊れるほど近くにある心臓 佐藤智加 河出書房新社
 ジャンピング・ベイビー 野中柊 「新潮」2003年4月号

選評

筒井康隆

筒井康隆ツツイ・ヤスタカ

「阿修羅ガール」を推す

 少女漫画にはよく現代女子中学生や女子高生の言葉遣いがそのまま使われていて、いずれもリアリティがあり、刺戟的で面白い。これは小説の中でも使われることがあるが、少なくとも三島賞の対象となるような作品において使われたときはなぜかわざとらしく不自然で、たいていは失敗に終っている。だが今回受賞した舞城王太郎の「阿修羅ガール」では、これが女主人公の一人称として生き生きと使われている。長篇の大部分がこの女の子の一人称だから、作者には相当の自信があったのだろう。文章が今までになく躍如としていて、これは初めての成功例と言ってよく、ひとつの功績として残したい作品だ。本来の文章力そのものは第三部「森」の章で証明されている。

 自分のことになるが、最近「ヘル」という長篇を書いた。文芸誌の八月号に一挙掲載されるが、その作品の雰囲気がこの「阿修羅ガール」に似ていて、こういう若い人の作品と共時性を持ったことは嬉しくもあり誇らしくもある。候補作品の中では唯一、ファンタジイ、実験、笑いというわし自身が勝手に設定した現代文学の三つの条件をクリアしているので、多くの難をかかえている作品ではあったが一番に推した。難のひとつはあまり面白くないことで、エンターテインメントとしてはさらに面白くないことになるが、ホラーとしてはなかなか怖い部分もあり、文学としては新鮮に思えた。

 難点としては「汚らしい」という意見もあって、これは確かに最初のうち読みたくなくなるほどの汚らしさに辟易させられたが、第二部になり舞台が異世界に移って以後は目まぐるしい展開で作品のレベルが上昇し、最後の数ページでようやく合格点に到達する。実は今回のこの作品の受賞はこの長篇の力というより他の作品に力がなく新鮮さもなかったからでもあるのだ。

 今回の他の候補作はいずれも描かれている世界があまりにも狭く、書くことが他にないのかと思えるほど男女の愛やデートやセックスの話ばかりであり(何度も言うようだがセックスとは書くものではなくするものだ)、短くすればよくなる筈の話を一冊の長篇にするためにだらだらと引き伸ばしていて退屈だったり、書いていてさすがに世界が狭いと感じたのか陳腐な政治論や戦争論が出てくるもののそこが一番つまらなかったりする。自分の少女時代のひ弱な感性をそのまま描いている作品が多かったが、これは女性の一部からは共感を得るかもしれないが逆に言えば読者を限定していることにもなり、つまりは日記や感想文と同じでそれだけの作品にしかならないことを知るべきだろう。普遍的に文学に高めるにはそんな描写をし続ける自分=作者に対する疑問や、そこから発展して現代の文学のありかたを否定するくらいの大きな視点が必要になってくる。

 その中で、十七歳でデビューした人だが、佐藤智加「壊れるほど近くにある心臓」の前半は、逆に若い人の感性でしか書けない作品としての高いレベルを維持していて、一定の水準と緊張感を孕んだ文章はなかなかのものと思われ、このまま最後まで続けばあるいはと思わせたのだが、あいにく陳腐な芝居のくだりとなって若さが露呈し、それまでのよさが水の泡になってしまった。主人公たちの、年齢を重ねてもなぜか不自然にそのままのトラウマが、まさにそのままで舞台に提示されるという工夫のなさ、あるいは象徴化する力のなさによって、若い感性だけで長篇を構築することが至難の業であることをつくづく思わされた。最後まで読み終えてみると主人公たちのリビドーがどうなっているのかなどの疑問点がいっぱい出てくる。これはやはり決定的に力不足であるとしか言いようがない。

 近年、某社からやたらに若い女性の書き手が登場するが、本来的に二十歳以前の文学は無理なのである。だいたい井伏鱒二やトオマス・マンが毎年ふたりも三人も出るわけがないのであって、売り出すとすればまさにその年齢でしか書けない感性によるしかないのであろうが、そんな才能だけでいつまでも書けるわけがなく、大学に入ってからの文学修業など知性の末端肥大や混乱を招くだけであって、彼女たちの将来を考えればティーンエイジャーの文学デビューをここいらで打ち切りにした方がよいと考えられる。出版社はホリプロではない。ティーンエイジャーの女性文学者だけで「モーニング娘。」を作ってどうするのか。大人の読者を馬鹿にした所業としか思えず、架空の想定による彼女たちの追っかけめいた若い文学愛好者など当てにしてはならない。選考会の席上でも高樹のぶ子委員を中心にこの問題が噴出し、担当者も返事に困っていたから、今後このての作品が候補になることは滅多になくなると思われる。彼女たちのデビューを邪魔しようとするものではないので、彼女たちに相応しい別ジャンルでの活躍は大いに望まれるが、少なくとも文学を標榜することは慎んでいただきたいものである。

宮本輝

宮本輝ミヤモト・テル

お子さま相手

 舞城王太郎氏の「阿修羅ガール」の受賞に反対したのは私ひとりだった。

 選考会は最初からそういう流れで蓋をあけてしまったので、私は反論する意欲もほとんど失せて、他の四人の委員に、この小説のどこがいいのかと教えを請うたが、どの意見にも納得することができなかった。

 下品で不潔な文章と会話がだらだらつづき、ときおり大きな字体のページがあらわれる。

 そうすることにいったい何の意味があるのか、私にはさっぱりわからない。幼稚に暴れているパフォーマンス、もしくは無邪気な媚としか思えないのである。

 どっちにしても、面白くもなんともないただのこけおどしだ。

 この小説の試みに新しい文学の流れ云々……という意見に、百歩譲って聞き耳を立ててみても、で、それがどうしたと言い返すしかない。

 いったい何人のおとなが「阿修羅ガール」を最後まで読めるだろうか。

 舞城氏のなかには、何か形にならない大きなエネルギーがくんずほぐれつなままとぐろを巻いている。しかしそれはいまのところ支離滅裂で、氏自身が持て余しているといった印象を受ける。そのようなエネルギーは、まだ人さまにお見せできるものではない、というのが私の意見である。お子さま相手に小さなマーケティングを始めてしまったら、せっかくの大きなエネルギーが泣くではないか。

 嶽本野ばら氏の「エミリー」に、私は少し好感を持った。Emily Temple Cuteというブランドの服で身を纏い、都会の雑踏のなかで孤独に坐りつづける少女が良く書けている。この少女の姿は、私には哀切なひとつの姿となって、いまも刻まれている。

 だから嶽本氏が、この少女だけを小説化できていたら、私は受賞作として強く推したと思う。けれども少女が放つ一種の純度は、他の登場人物によって消えてしまった。

「エミリー」は優れた短篇の素材を内包しているのに、刈り取ることをせず、余分なものをあちこちに附着させすぎて、人間の繊細な気配というものから遠ざかってしまったのだ。ここのところが、今後の嶽本氏の課題だと思う。

 有吉玉青氏の「キャベツの新生活」は、透明な世界を貫いて丁寧に書かれている。けれども有吉氏はこの小説で二度と使えない手を使った。登場人物のほとんどがじつは死者であったと最後の数ページで明らかにされるのだが、読む側としては、ひょいと梯子を外されたような、うまく騙されたような気分的な落ちに釈然としない。

 私は好意的に受け留めたが、それでもなおこの小説も長すぎる。というよりも、あえて長篇にするために、類型的で冗長な人物設定とか場面とかを無理に作りださねばならなかった……。私にはそんな気がした。そこが受賞作として推せなかった理由である。

 野中柊氏の「ジャンピング・ベイビー」は、数年前の野中氏と比べると数段に文章に落ち着きが加味されている。文章の手練さにおいては候補作中随一といってもいい。

 だが、今回の作品と数年前のそれとは、内容においてまったく変化がない。歳月を経て、登場人物も歳をとり、さまざまな事情で環境に変化があった……。ただそれだけなのだ。この変わらなさは、読み様によってはある種の才能だと読めないこともないが、私には退屈な才能である。野中氏には野中氏のこだわりがあるのだろうが、もっと異なった世界に踏み出してはいかがかと思う。そのための力は持っている作家である。

 黒田晶氏の「世界がはじまる朝」は、十六歳の少年と十四歳の少女の恋物語である。昨今の小説には珍しい若者のひと目惚れによる恋である。私はほほえましく読んだが、どうして作者は、ただそれだけの恋物語にしておかなかったのかと惜しい気がした。この小説も余分なものだらけなのだ。

 とりわけ少女の「かたっぱしから記憶が消えていく病気」が、このほほえましく熱っぽい恋から小説としての魅力を奪ってしまった。どうでもいい、つまらない理屈が入ってしまったのだ。

 佐藤智加氏の「壊れるほど近くにある心臓」は、もう無理矢理語彙を並べて、お伽噺をでっちあげたという代物である。自分のなかにないものを出そうとしている。ないものは出ない。

 以上六篇、ことしの三島賞の候補作は私には読むのがつらかった。選考にたずさわっていなければ、どれも最後のページまで辿り着けなかったであろう。

 どの作者もみな同じ方向に視線が向いているような感じがする。どこに向いているのかわからないが、少なくとも、おとなの読者のほうにではないようだ。

高樹のぶ子

高樹のぶ子タカギ・ノブコ

困難な若者の長篇

 生活体験の乏しい若い人が、二、三百枚の長篇を書こうとするときの困難さが、今回候補作六篇を読んでいて、強く印象づけられた。

 まず、知り得た世界が狭く限られているので、人間関係が親族中心になりがち。登場人物たちは外部の異質な人間と知り合ったり格闘したりしない。親や兄弟姉妹、あるいは婚姻や性関係も含めて、みな同じ小さな円盤の上に乗っている。

 その小さな円盤上の人物を動かして小説を書かなくてはならない、となると、登場してくるのは心理的な病癖である。幻が視えたり記憶障害にかかっていたり。限られた舞台を小説的に深めようとする場合、病癖はとても便利な道具なのだ。病癖まで行かなくても、エキセントリックな人物が必要になってくる。

 さらに若い世代はコミック感覚だ。

 コミックでなぜ悪い? という、今文学世界が大真面目に考えなくてはならない問題を別にして、とりあえずコミックの特徴をあげてみると……名作『ベルばら』のように、コミックは男女の性が比較的容易に入れ替ったりクロスオーバーしたりする。性だけでなく、自他を区別し個を確立している要素が、現実より遥かに曖昧なまま、物語が編まれていく。死や病いも観念的に美化されやすい。また、ある状況が「説明」され、読者はそれを納得した上でコミック世界に入るので、「表現」より「説明」になりがちだ。

「エキセントリックな性格」をもった「限られた人間関係」が、都合よく「説明」されていく、と言えば少々酷かも知れないが、もうひとつ問題なのは「省略の意志がない」ことか。「へとへとに疲れた」「ニッコリ笑った」のへとへととニッコリに意識が及ばないのは、ちょっと困る。いや、大変困る。

 やはり幼いのだ。それでも単行本は出版される。賞の候補にもなる。候補になれば受賞するかも知れない。そうやって、若さという商品価値が消費されていくのだろうか。

 私はかねがね「小説は大人のものだ」と思っている。無論、作者の年齢のことではない。三島由紀夫は十代で書き始めたが「老成」の相で現れた。既存の地平を切り裂いて現れる真に新しい才能は(ごく稀ではあっても)最初から大人びた顔をしてやってくるのではないか。大人たちが視線を低くして手を差しのべるのは、逆効果に思えてならない。

 今回の候補作の中にも、今この未熟な状態で無理やり二百枚三百枚書くより、もう少し実人生を生きたのち書いた方がいいように思われる作品が、いくつかあった。ただそれでも、大人の私には見えないところで、書く者と読む者の間に共通の感動が授受されるフィールドが存在しているというなら、謙虚に一歩退がるつもりだ。理解不能のものだからといって、そのフィールドを潰す力を行使してはならない、とだけは思っている。

 以上、作品評の前にこのように書いたのは、今回初めて〇がゼロ、△が二つ、という評価で選考会に臨んだからだ。私にとっては初めてのことで辛かった。

 △のひとつが受賞作となったが、突然巨大な活字が出現したり、「死ねーっ」が十二回連発されたり、「ウンコパ〜ン。デ、デレッデ!」などの擬音多用を良しとするわけではない。音声的視覚的に何らかの効果があるにしても、馴れてしまえば目ざわりになる。新しい試みの方向が、このような表記上のものに向かうなら、とうの昔に筒井康隆氏がやっている。彼一人だけが新しく、二人目からは古く見えてしまう。この上はもう、恋の場面で甘い匂いがしたり殺人の場面で血の匂いがする頁を作るとか、腹が立ったら頁を破って喰ってしまえるとか、そんな冒険しか残されていないのではないか。それでも私が×でなく△にしたのは、この作者の暴力感覚は、社会的あるいは道徳的な枠組みを越えて生命の本質的なところに潜在しているように見え(これは私を著しく不快にする)、その特異な体質が読後に一定の手触りを残している点を、無理やり自分に認めさせた結果である。徹底した「まっとうさ」への反発と憧れが、不気味な熱気を生み出しているのは確かだろう。この作者の描く暴力は「痛み」ではなく「血なまぐささ」を読者に与え、登場人物に流れる血も赤くなく青い印象だ。要するに気色悪い。幼くはないし、コミックを越えてもいるので△にした。

 もうひとつの△は『キャベツの新生活』

 キャベツやキーウィの名をもつ透明人間のような若者たちの、フワフワした関わりが、臨海副都心のガランとした部屋で繰り広げられる。存在の希薄さは、死者たちの物語だからだと考えれば納得がいくし、ならば長年に亘る話なのに人物たちが大した成長や変化をとげなくても仕方がないのかもしれない。残念なのは、その非現実的な仮構世界に、一人でいい、リアルな人間を置いて欲しかった。

 キーウィの不倫相手の先生が、悪い大人としてのリアリティを持っていたなら、他のすべての仮構世界が生きたのに、と惜しまれる。

福田和也

福田和也フクダ・カズヤ

まだ見ぬものへの畏怖

 いつも通り評価の低いものから。

『世界がはじまる朝』黒田晶は、敏腕テレビ・プロデューサーの母とデザイナーの父、父のゲイの愛人という状況設定があまりにもいかにもというもので、こういう環境にあこがれているんだろうなあ、と思わせるものの、そのあこがれなり、何なりを思いつき以上のものに見せる力がない。「あとがき」に云う、「うぬぼれやすくて落ち込みやすい」女の子を等身大で書く試みをしては如何。

『壊れるほど近くにある心臓』佐藤智加も、年齢相応の自意識の産物とみれば、笑ってすませることも出来ないではないが、設定も人物も少女漫画的紋切り型をきわめている。会話や情景もどうしようもなく類型的で、これでは、フェイクにすらならない。写生文をしっかり書くという水準でやりなおすべきであろう。

 上記二作については、候補として選んだ新潮社社内委員会の姿勢や、単行本版元の良心を問う声が、選考委員のなかであった。私も同感である。この水準で単行本にしたり、候補にしたりすることは、若ければいい、話題になればいいという安易な態度で、若い書き手を使い捨てにする所業と見られても仕方がないのではないか。この点、猛省を促したいところである。

『キャベツの新生活』有吉玉青は、それなりのたくらみをもった作品であり、そのたくらみをもって作品全体を統御するという目論みは達成できているかのように見える。残念ながら、ただ見えるというだけの話しで、小説として、何ほどかのことを成しとげたのかといえば、心細いかぎりである。

 作者が、目論みにたいして真剣にとりくんだことは判るのだが、その取り組みが真っ正直にすぎて、文章がその一点に集約されすぎているために、非常に自動的だという印象、つまりその一点にむけて文章が動員されており、読み手の自由気儘がまったく許容されない構造になってしまっている。

 とくに、この作品の眼目であり、読む上でのスリルを構成する、「キャベツ」以下の状況を示唆する手続きは、いかにも稚拙でいただけない。こういう仕掛けに乗れる(引っかかる)読者もいるだろうが、両義性が、しかけとしてでなく小説として結晶化したものを見せてくれないのでは、何とも致し方ない。細部に神経を通して、読者の自問を小説のスリルに転化しうるだけの広い視野と意識を持っていただきたい。

『ジャンピング・ベイビー』野中柊は、なぜ二百八十枚という長さにしなければならなかったのか、それが一番の問題点であるように思われた。作中のエピソードは、短篇小説として四十枚程度に仕上げれば、なかなかの出来になったのではないか(もちろん、短篇は短篇としての技量が必要であることは、今更云うまでもないことであり、その技量が著者にあるか否かは、私の判ずるところではないのだが)、と思わせるものであった。結末も、長篇というよりは、むしろ短篇むきの終わり方で、外的な事情から作家が無理やりこのような体裁にしたのかという疑念を禁じえなかった。

『エミリー』嶽本野ばらが、候補作として示されたことを私は喜んだ。嶽本氏の作品を読むことが出来ることで(もちろん、プライヴェートでは読んでいるが、候補作として読むという)、三島賞の選考委員を務めさせていただいているということの贅沢さを満喫した。

 嶽本氏の作品は、エレガントである。エレガントであるから、必然的に排他的なありさま、一般的な理解を拒否している。その拒否の仕方が、一方で強い読者の支持を生み出すとともに、まったくわけが判らないという拒絶を招くのは当然かとも思い、その限りでは氏の確信的な振る舞いの作用といえないこともないのだが、本作はそうした敷居を越えて評価されるべきものだと思われたので、残念な結果だった。Emily Temple Cuteを着て、表参道のビルの入り口に座っている少女の相貌は、今日小説が書くべき、その自由に委ねられて顕現する数少ないリアリティであると感じさせられた。

 受賞作となった『阿修羅ガール』舞城王太郎については、率直に云って、安堵しているというのが本当のところだ。勿論、結果についてである。三島由紀夫の名前を冠している文学賞をもって、舞城氏を送りだせなければどうしたらよいのだろうか、という不安が強かったのだ。昨年、「熊の場所」が候補になった時のとりつくしまもない有様が想起されて、私のような人間が、やや胃の痛む有様であった。とはいえ、そんなたいした痛みではないのだが。

 ページから、どんどん風が吹いてくる。レッド・ツェッペリンとかブラック・フラッグとかのLPをはじめて聞いた時の感じ。その感触が、まだ見ぬものへの畏れを喚起する楽しみ。これからである。

島田雅彦

島田雅彦シマダ・マサヒコ

阿修羅がる男

 また村上隆のフィギュアにバカ高い値がついた。アメリカの成金相手の商売はぼろい。生身の芸者ではなく、工房で作った少女像を嬉々として身請けする奴の顔を見てみたいが、きっと誰かさんみたいにどこにも顔を出さないだろう。少女フィギュアを買った奴に、今なら少女フィギュアの自意識も格安でお付けしますよ、と商談を持ち掛けたい。舞城王太郎という奴がいて、少女フィギュアに憑依して、あれこれ語っていますよ。

 少女の名前はアイコ。昔、「1980アイコ十六歳」という小説が書かれ、現在、教科書にも載っているが、古いアイコはどうしているだろう? 新しいアイコは思いっきり男の妄想を精液と一緒に振りかけられて、暴走機関車となって何処までも走ってゆく。途中、「あれ、この語り手は男だったっけ、少女だったっけ」と錯覚を起こす場面もあったりするが、走るのをやめるわけにはいかない。ガールズ・トークには落ちも終わりもないのだ。意味や帰結を求めたら、少女の化けの皮がはがれ、妄想野郎の男根が剥き出しになるから、自意識がぶっ壊れても構うものか、走れ、走り続けるのだ。

——ええかげんにせえや。

 宮本輝サンはそういって、×をつけた。それに勝る批評はあるまい。許しがたいだろう、こんな奴。おととし中原昌也に授賞させたと思ったら、今度は阿修羅かいな。輝サンはマジで怒っており、最初に〇をつけた筒井サンの首を絞めそうだった。しかし、民主主義は残酷だ。私も福田和也も〇をつけてしまった。ほかの作品には〇が一つもついていないのだもの、判定を覆すのは困難だ。輝サンには気の毒だが、『阿修羅ガール』はブーイングを浴びることでいっそう輝いてしまう狡猾な作品なのだ。だから、これまでもブーイングを貪欲に求めてきた筒井、福田両氏に加え、私までもが舞城を日向に引きずり出そうとしてしまったのだ。「ええかげんにせえや」といわれて、一番喜ぶのは舞城の方で、逆に彼を落胆させるには「自意識の崩壊現象を緻密に描いている」などともっともらしい批評を加え、作者を赤面させればよい。

 偶然か、陰謀か、今回集められた六本の候補作はガールズ・トークばかりであった。

『世界がはじまる朝』や『壊れるほど近くにある心臓』も少女のモノローグによって語られるファンタジーだ。近頃、巷で流行るのはファンタジーばかりだが、そのスタイルを踏襲し、私を語る、いわば「ファンタジー私小説」あるいは「私ファンタジー」がジャンルとして定着しつつあるのかもしれない。前者は記憶障害を扱い、その場その場の交わりばかりを描くのだが、語り手まで記憶障害に陥っているかの印象を免れない。後者は多重人格を扱いながらも、ツワッペンなる超自我と私の対話劇が始まる頃には語りが崩壊している。そこにあるのは完全に少女の感性と妄想に屈した世界だ。そこで囁かれるガールズ・トークに共感できない老兵はただ消え去るのみか? 文学界も「モー娘。」を組織できるほどに少女作家人口が増えている。

『キャベツの新生活』や『ジャンピング・ベイビー』は少女幻想を引きずりながら、静謐にして残酷な時の流れを描く。前者は死者との戯れを描きつつ、出会う他者たちに質感がない。幽霊みたいな登場人物たちの交歓を描いた川端の『雪国』には不気味なリアリティがあったが、その境地からは程遠く、結果として、恋愛ファンタジーに着地した。後者はそれを書くことが自らの癒しになるような内省をさらりとやってのける。結婚、別離、再会に至る心境の変化を半日の出来事に託して描くにしては長い。作中で展開されるブッシュ、アメリカ批判も生煮え状態。

 ガールズ・トークにいかに向き合うか、それは漱石の頃からの日本文学のテーマであった。はじめは女の無意識の偽善を嫌い、女の繰り言を無視しようとしていた漱石だが、『明暗』では逆に女の繰り言で空間を埋め尽くしてゆく。堂々巡りの対話を厭わず、女のいい分にとことん耳を傾けるのである。『エミリー』の嶽本野ばらは少女趣味のカタログ作りにはプロ意識を発揮し、テクストの商品化に努め、メード・イン・野ばらのブランドを確立しており、あられもなく竹久夢二を反復している。ストーリーテリングにも手足れを感じるものの、物足りなさを感じるのは私が少女ではないから!?

 以上、さまざまな少女趣味にまみれ、消去法で検討した結果、最後に『阿修羅ガール』が残った。私も「阿修羅がる男」くらいなら、なれる気がした。別になりたくないけど。

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