ホーム > 文学賞 > 三島由紀夫賞 > 過去の受賞作品 > 第15回 三島由紀夫賞 受賞作品

第15回 三島由紀夫賞

主催:一般財団法人 新潮文芸振興会 発表誌:「新潮」

 第15回 三島由紀夫賞 受賞作品

にぎやかな湾に背負われた船

小野正嗣

「小説トリッパー」2001年秋季号

 第15回 三島由紀夫賞 候補作品

 裸のカフェ 横田創 「群像」2001年8月号
 熊の場所 舞城王太郎 「群像」2001年9月号
 ニッポニアニッポン 阿部和重 新潮社
 猫の客 平出隆 河出書房新社
 にぎやかな湾に背負われた船 小野正嗣 「小説トリッパー」2001年秋季号
 インストール 綿矢りさ 河出書房新社

選評

筒井康隆

筒井康隆ツツイ・ヤスタカ

「にぎやかな湾に背負われた船」を推す

今回は十七歳という最年少で文藝賞を受賞した綿矢りさ「インストール」が候補になって話題となった。だが先入感だけではなく、作品そのものがいかにも幼く、文学性に乏しかったので三島賞にそぐわず、授賞は断念した。「肉声を文章化する才能はある」とか「コンピューターが物神化されていないのがよい」といった意見もあったが、「若さがアドバンテージでもあるがデメリットでもある」とか「もし三十歳のおばさんが書いたとしたらやっぱり幼稚」といった意見が核心をついていた。今後は「どこから先を書けば文学になるか」を学んでいただきたい。付言しておけば、エンターテインメントとしては一級品である。

 舞城王太郎「熊の場所」も、エンターテインメントとしては一級品。「極めてヴィヴィッドである」「力はある」という意見もあったが、「幼さ装いで坦坦と書いている」という肯定的な意見を裏返せば、心の闇に降りていく手前、ここから先が文学になるという所で引き返しているわけであり、怪異談になってしまった。

 平出隆「猫の客」は格調の高いみごとな文章に驚かされたが、同時に、それだけで文学になるのだろうかという疑問を抱かされた作品でもあった。ここには文学的な新しさが乏しく、たしかに「波瀾万丈の日常茶飯事」という実験と言えなくもないし、後半僅かにメタフィクションになりかけた部分もあるにはあったが、それだけではここまで猫を愛するという「心の闇」が表現され得ない。

 小生が推したのは小野正嗣「にぎやかな湾に背負われた船」である。ご本人がパリ大学でカリブ海地域文学を研究しているというので、クレオール文学を目指すこの作品を「当て込みだ」とする意見があった。しかしどこから先が当て込みになるのか。研究対象と書く小説の方法や主題が一致すれば当て込みになるというのはおかしく、むしろすべての志向がひとつの対象に向かっていると判断すべきであろう。だがそれよりも、少し褒め過ぎになるが、小生はむしろガルシア= マルケス+中上健次という感銘を得た。「浦」の伝説と現実の混淆、多彩な登場人物、これらを評して「不整合」「ごたごたしている」という意見があったが、昔、小生が松本清張との対談で「あんたの小説、ごたごたし過ぎていないかい」と言われた時に、「現実がごたごたしているのであり、他の小説が整合性に富み過ぎているのです」と反論したことを思い出した。このごたごたの熱気が何より快感を与えるのであり、その熱気の中から、最後に近く、船があらわれるところが感動的であり、マジック・リアリズムの成果と言える。宮本輝委員も「それが船の存在を浮き立たせた」と、同意見であった。

「浦」へ駐在として赴任してきた警官が、その前任者同様に、のんびりと違反をし、そこでは選挙違反も日常的に行われ、ときには犯罪まがいもあるのだが、それは見過ごされ容認されていく。最後には県警がやってきてちょっとした騒ぎにもなるが、それを含めてまさにこれは日本の縮図である。阿部和重「ニッポニアニッポン」が、日本を書こうとしてから回りしてしまったのに対し、これはその点でも成功している。

 選考会終了後、世話役の女性編集者が、最後に警官の娘が見る多くの死体は、現実なのかそれとも幻想であったのかという質問をしてきた。娘の同行者が見たのは単に死んでいるハマチであったのだ。わしはこれはやはり彼女が見たのは人間の死体であったのだと判断する。同行者が見たのも死んでいるハマチであったのだろう。ふたりの見たものが違うという、現実にあり得ないことも、小説の中の現実として不自然でなく読むことができれば、それこそがマジック・リアリズムと言えるのであり、どうも最近はSFやファンタジイまでをマジック・リアリズムと呼ぶ傾向があるが、あれはいただけない。マジック・リアリズムはマジック・リアリズムとして、はっきり区別しなければなるまい。

宮本輝

宮本輝ミヤモト・テル

架空物がもたらすもの

 三島賞も十五回を迎えて、賞の位置というものが自然に出来あがってきたように思える。

 新人が長篇でその才や技量を問われる場が増えて、三島賞の意義が固まったと考えれば、賞の創設時から選考にたずさわってきた者としては、多少の安堵感がある。

 今回、そのようなことを思いながら、候補作六篇を読ませてもらった。

 私は最初に横田創氏の「裸のカフェ」を読んだが、選考会当日には、これがどんな小説だったのか思いだせなかった。「神楽坂」がこの小説のなかでいったいいかなる意味を持つのか、私にはよくわからない。作者がメタファと感じているものが、ただの小手先の言葉遊びでしかなく、ある種の抽象性にまで到底達していない。他の委員の評価も厳しかった。

 抽象性が小説のすべてとは思わないが、そこのところで評価が二分すると予測した平出隆氏の「猫の客」は意外なほどに票を集めなかった。詩人が書いた小説のひとつの典型を感じる。詩(うた)っている部分が、そこかしこにではなく、小説全体に漂っていて、「どうだ、うまいだろう」という臭みすら匂ってくる。

 他人の飼い猫に惹かれる夫婦の日常と、猫の存在が、抽象性に似せた作り物の域を出ず、次第に退屈になってきて、たしかに才は感じたが私も推せなかった。もっといい小説が書ける人だと思う。

 阿部和重氏の「ニッポニアニッポン」は、以前別の文学賞でも候補作となっている。またここで同じ感想を述べるのは能がないが、絶滅しかけているトキという鳥を殺そうとする少年の心に、幾分かの人間としての切実さがあれば、この小説は違った趣きや深味を持ったであろうが、再度読み返しても、私には幾つかの世の中のニュースを種にしてでっちあげたこれみよがしな「あてこみ」しか感じなかった。世間で取り沙汰されているものや流行しているものを組み合わせて、そこにこれも今風の人間を配置して、はい、一丁あがりでは、この作者はこれから前に進めないのではないだろうか。素材というものを醸造する時間が必要だ。

 綿矢りさ氏の「インストール」は、十七歳の高校生が書いたことで耳目を集めたが、そのアドヴァンテージを抜きにすれば、小説の感動とか深さというものとは縁遠い。そこのところを不服とするのは、ないものねだりであろう。十七歳にしては達者だというしかない。

 舞城王太郎氏の「熊の場所」は、すぐに例の神戸の少年を思い起こさせる人物設定で、私はこれをどう小説として料理するのかと読み進めたが、消化不良の、尻切れトンボの閉じられ方で、心に残るものは何もなかった。器用な書き手なので、さまざまな材料をうまく使いこなせるところがある。それが吉と出る場合と凶と出る場合とがあるとすれば、私は凶と出た小説だと感じた。

 小説を試験管のなかに入れた血液にたとえれば、時間がたつと二層に別れて、上部の透明なところと血球とができるという自然現象が、小説それ自体にも発生するはずだ。

 だが、これまでに感想を述べた五篇は、二層分離がなく、時間がたつと血でもなくなってしまいかねない。蒸発か揮発か、いずれにしても消えていってしまう。

 私が小野正嗣氏の「にぎやかな湾に背負われた船」を推したのは、上部の透明な液体に、不思議な船がまぎれもなく浮かんでいたからである。

 クレオール文学の踏襲、あるいは模倣という意見は傾聴に値したが、私は「にぎやかな……」をそのようには読まなかった。作者はなるほどクレオール文化や、そこに生じるクレオール文学に肩入れしているかもしれないが、それを根として書かれた「にぎやかな……」は、お陰で血液の二層構造を読む者に見せてくれたことになる。

 随所に、書き手がたからかにうたっている文章がある。それは自分だけがうっとりと気持がいいという悪文だ。にもかかわらず、これだけの長い小説のなかで、これだけの群像を、それぞれ立体的に彫刻して描いたのは評価すべき技量だと思う。

 あげつらえば、いくらでも不整合な箇所をあげつらうことができる。けれども、おそらく計算ずくではない「不整合」が、突然戻って来て湾に浮かぶ「緑丸」の謎にうまく加担する結果となった。緑丸の出現こそがこの小説の不整合さのエキスだと捉えて、私は受賞作として推した。

 えらそうに批判してきたが、受賞を逸した他の五人の書き手は、一皮剥けたら独自の小説世界を創り出す力を充分に持っていると思う。

高樹のぶ子

高樹のぶ子タカギ・ノブコ

固有な一作

 強く否定する作品も無かったかわりに、絶対にこれ一本、と推したいものも無かった。

『にぎやかな湾に背負われた船』と『ニッポニアニッポン』が最後に残り、私はほんの少し『ニッポニア……』に重心を置いていたが、『にぎやかな湾……』に票が集り、私も二番手に評価をしていたので、最終的にこちらに票を投じることで、受賞作となった。

 受賞作は北九州地方のどこかに在る「浦」をめぐる近代史であり、群集劇である。土着臭、いや水や血の腐臭が溢れている。沢山の登場人物と彼らをめぐる出来事は、時代を遡って終戦間際の満州にまで到る。また、浦にやって来て放置された船は、今日的なテーマである中国からの密航者を乗せている。一応少女が語り手として書かれてあるものの、補いきれない部分は伝聞としてゴチック体が使われ、支離滅裂と言ってよいほど広がりと時間の厚味を持っているため、小説に幹や枝葉、本流支流を求める一般的な読者には、はなはだ読みにくいだろう。しかし、小説が持つ情報を、「登場人物の数×個々の物語×時間の厚味」として計算すれば、この作品は膨大な情報量を持っているし、そこに自ずと発生する熱は、「日本の近代を問う」という作者の意図を沈め込み、見えなくさせるだけの効果を持っていた。私の好みとは対極にある作品だが、読み終えてみるとこのゴタゴタした不調和が快楽と化している。作者の頭(戦略)がつくり出したものではなく、生理によって択び取られた手法だからだろう。固有とは「他に書きようがない」やるせない結果なのだ。そのような「やるせない結果としての固有」がこの受賞作には在り、それに対しては好き嫌いとは別に、認めざるをえなかった。

『ニッポニア……』は完成度も高く、物語を追う面白さだけでなく、昨今の一連の少年犯罪を内側から炙り出して見せる新しさがある。真剣で切実で気味の悪い犯罪者を描き出した点で私は評価したし、それを「種の絶滅」という社会問題に絡めた力も認めるが、最後まで推し通せなかった理由は、作者がもくろんだテーマの大きさが空回りしている気がしたのと、文章に文学としてのツヤやヌメリやザラツキが無く、文章をただ話を運ぶ道具として使っているように感じたからだ。

『熊の場所』は神戸の少年による殺人事件を想像させる、何とも気色悪い作品だが、その気色悪さは猫の尾っぽを蒐集したり、殺した少年の頭部をサッカーボールに入れて蹴って遊んだりする少年達の行動から来るものではない。気色悪さは、こうした異常性を異常とも感じない淡々とした語り口、幼い自然体とも呼べる扱い方から来るもので、その意味では技アリを認めるのだが、あまりに実際の事件に寄りすぎている。タイトルは別のテーマを指していて、「恐怖を消し去るには、その源の場所に、すぐ戻らねばならない」という父親のエピソードで全体を包み込もうとしているのだが、実際の事件が濃くたちあらわれて来るため、どうしても印象は少年達の異常性に傾いてしまう。私にとっては、少年期の性(の芽生え)と残虐性の関係が新鮮だったが、この点においては男性選考委員の賛成が得られなかった。

『猫の客』は、同じ猫がらみの話でも、しんと冷えた抒情を、鎮まった大人の文章でつづった「猫恋し」の小説である。作者は詩人だけあって、省略が効いた何気ないしかし意外性のある一行で、読者をはっと立ちどまらせる。時代と共に変って行く場所、こわされて行く宅地の景観が、風の流れのように語られていて、誰もこの小説に反発を覚えないのではないかと思った。しかし同時に、誰にも反発を与えない小説というのは、それ自体問題なのだ。なぜかと言えば、濃い存在感で人間が描かれておらず、人間はただ、猫やトンボや植物を鏡にして、淡い影として動いているに過ぎないからだ。そのような人間の影は、誰にも反発を与えないけれど、小説としては少し物足りない。(作者は元々、このような賞の対象にされるつもりは無く、迷惑な話だろう)賞としては外されたが、雨の一夜、気持を落着けて読むことを勧めたくなる一冊だ。

『インストール』の作者は、とにかく若い。肉声が文章化されていくときの、意識の掴み方、言葉の搦め取り方には、才能が光っている。ただ、ネット世界での他人とのすり替わり、演技性を、性風俗の舞台でやってみせる方法は、さほど新鮮ではない。むしろつきなみな発想とも言える。

『裸のカフェ』は、他の候補作を全部読み終えての印象が、一番薄かった。神楽坂を舞台に老人達やアカコなどが登場した、という以上の何かが残っていないのは、頭で組み立てた小説だからだろう。読む者の生理にクサビを打ち込む瞬間のリアリティは、この種の現実から遊離した小説にも必要なのではないだろうか。

福田和也

福田和也フクダ・カズヤ

豊穣と失陥

 今回、候補作のリストを一渡り見て、一作以外はどれが受賞しても構わない、不思議ではないと思った。それほど候補作品のラインナップは充実していた。ただ残念だったのは、受賞作品が、これだけは推せないと思った作品になった。まさしく選考委員としての責任を果たせなかったわけであり、また賞の社会的責任について考えても、この点きわめて忸怩たるものがある。

 例によって、評価の低い順に全作品について記す。

「にぎやかな湾に背負われた船」小野正嗣

 一見して、クレオール文学の真似事という作為が見え透いてしまう。その真似ぶりに鼻白むほかないのは、「クレオール」的なものにたいする、あるいはそうしたイデオロギー、文化流行にたいする批評性が少しも働いていないからである。こうした思潮をかかげる事自体の恥かしさ、いかがわしさに対する意識の欠如は、そのまま作品全体の弛緩と投げやりに直結している。ナラティブを担う少女の意識の設定が杜撰であるだけでなく、登場人物の人間像も空疎である。船号の書き間違え云々のエピソードもまったく説得力がなく、さらにはクライマックスとして仕掛けられた船の帰還劇と親族の相関関係は、帳尻合わせとご都合主義が臆面もなく積み重ねられている。満州や徴用にかかわるエピソードの用い方の安易さは、著者の作品に対する姿勢を象徴している。受賞した以上、今後の精進に期待したい。

「裸のカフェ」横田創

 ウィリアム・バローズの『裸のランチ』を現在反復するという作意自体は面白い。カフェとモードというボードレール以来の、つまり近代批評の根源にある構図をもってきた意図もきわめて野心的であった。だが、作意と構図を重ねて機能させる(もしくはずらして齟齬させる)だけの力量を備えていない事だけが、作品の表層には露呈している。神楽坂とフランス人という設定も生きておらず、モード用語や固有名詞の羅列もダイナミズムを獲得していない。もっとも致命的なのはモード/身体という二元論めいたものに収斂してしまったかの様相を呈することで、これでは『ソフト・マシーン』の身体観からの後退ばかりが目立ってしまう。

『猫の客』平出隆

 候補作中、もっとも完成度が高かった。ただ賞の性格を考えた時に、作者の散文作品の系譜の中で候補作が占める位置を考慮せざるをえなかった。『左手日記例言』『葉書でドナルド・エヴァンズに』の先行作品に比べると、候補作は格段に小説的結構を備えている。けれども同時に、一節ずつ情景を重ねていく手法が踏襲されており、その節の終わり辺りの一文の言葉で刻印を押す手つきも同様である。その極めの文章は、時にきわめて魅力的であったが、同時にまたその魅力は著者の練達というよりは自己撞着の産物かとも思われた。つまりは、前二作のもっていた緊張の減退と釣り合っているのではないか。猫への思いや経済状況への認識などが、先験的に取り込まれているのも、同様の事態かと思われた。

『ニッポニアニッポン』阿部和重

 従来の見方からすれば、異様に狭いということになる若者の意識をそのまま小説の叙述、空間構成に持ち込んだ野心作である。ネットサーフィン的な脈絡によって、話者の意識を作っていく試みに成功しており、その点だけでも高く評価されてしかるべきだろう。この点はその成功と裏腹なのだが、インターネット的意識をいわば社会問題的視点で取り扱ってしまうことの解り易さが、小説の結構の安直さを招いている。本木桜を巡るエピソード、とくにその最期のあり様は著者の試みが必要とした必然的な瑕と見るべきだろうか。

『インストール』綿矢りさ

 インターネットを題材とした作品として、『ニッポニアニッポン』と『インストール』を比較してみたならばその大きな差の一つは、『インストール』においてはこうした事象、インターネットや、ネット経由の子供の性風俗との接触、不登校といった事柄がごくごく当たり前の事として扱われていることだろう。小説というジャンルの本質からすれば、『インストール』の姿勢の方が強いということになるだろう。話者の意識の構成、エピソードの継起の仕組みといい、きめ細かく構成されていて瑕疵がなかった。

「熊の場所」舞城王太郎

 いわゆる「酒鬼薔薇」問題を扱っていながら、問題をまったく問題として扱っていないのが、何より見事だった。それを可能にしたのは、著者の圧倒的な自信だろう。異様な事件を爽快に書いていく筆力のふてぶてしさもそこに由来している。殺戮への誘惑を、おどろおどろしくなく、むしろ無垢な清潔さを秘めたものとして認識させていく語り口は、少年の自他の身体にたいする距離感自体に内包する肉感的な恐怖と愉悦の区別のつかない境界を探しあてている。結末、さらに「熊の場所」というモチーフが父の体験談という形で持ち込まれているといった欠陥はあるものの、この作品がもっとも三島由紀夫賞の名にふさわしいと私は考えた。

"
島田雅彦

島田雅彦シマダ・マサヒコ

鴇でも猫でも熊でもなく

 猫を殺す本能も猫のために泣く心情も私には理解できないが、猫をめぐる作者の態度の違いから、小説は猫殺し系と猫可愛がり系に分類できるようだ。前者は「文壇」へのサカキバラの登場とともに一時期、おおいに流行った。作家もこぞって少年犯罪をテーマに据え、社会学や精神分析を駆使して解釈に走った。我こそは小説におけるサカキバラであると自認した作家もいたが、今は下火になっている。前者をジャーナリスティックとすれば、後者は文学的で、金井美恵子や笙野頼子、保坂和志らマッチョ的言説を嫌う文章家たちの手による散文詩的世界として展開されてきた。猫好きのための猫好きによる猫好きの小説は、犬の場合と同様、一定のニーズを持っている。猫殺し系と猫可愛がり系は互いに相いれない立場であろうが、幸い私は中立の立場で両者を比較することができた。

「熊の場所」は少年の視点というか、口調を模倣しつつ、少年犯罪を批評しない立場から、猫殺し小説を書いてみせる。サッカーを通じて純朴な少年の心に芽生えるホモソーシャルな憧れが描かれる。ほのぼのした青春小説と残酷趣味は矛盾しないことを示した点は評価できるが、この作品は結論の置き方によってはもっと空恐ろしさをたたえることができたかもしれない。暴力はやむに止まれぬ本能であることは誰もが認めるが、それ自体強い感染力が伴なっている。マーくんへの憧れは、やがて「ぼく」をその暴力に感染させずには置かないはずである。そこをもっと押して欲しかった。

『猫の客』は郊外の淡々とした日常が練り上げられた散文で綴られる猫の歳時記ともいうべき作品だ。平出氏はこれを小説と呼ぶが、旧作の『左手日記例言』も同工異曲のスタイルではないだろうか。もっといえば、散文詩と小説を隔てる境界などありはしないのだ。詩作を始めて間もない私もそれを実感している。平出氏の詩のファンである私が氏の小説に求めるのは、端正な散文詩ではなく、それを食い破ってしまう大胆な言葉の運動であった。詩人は何をどう書くことも許されているのです。

『インストール』……映画にするなら、モノクロでタイトルは『禁じられた遊び』にしよう。比喩に、会話に疑いようのないセンスを感じる。今後この作者が遂げるであろう進化の様態を見たい。無意識に文章に出るセンスはそのままに、より波乱万丈な、感染力を持った物語を構想すべきだろう。いくら読者が他愛もない恋の話が好きだといっても、志は壮大であるに越したことはない。短命なアイドルの人材には事欠かないこの国では、インテリでなおかつアイドルであるような若い女への渇望が高まっているのだ。また、マッチョ発言をしてしまった。

「裸のカフェ」……神楽坂がこんなにスノッブなところだったとは知らなかった。随所で繰り出されるペダントリーは八○年代に青春期を過ごした者には懐かしかった。しかし、この小説は9・11以後には対応できない。いや、91年に発表されていても、厳しいのではないか。

 受賞作となった「にぎやかな湾に背負われた船」だが、「海から見た日本」、「海人文化論」といったタイトルの論文が背景にあって、その実体を小説で活写してみました、というタイプの作品だ。ポリフォニー小説とは何か、に対する応えのようである。多彩な登場人物はいずれも活き活きと描かれているし、語りの重層性も生きてはいる。だが、その作品は中上健次というよりは池澤夏樹に、ガルシア・マルケスというよりはル・クレジオに近い。溶け合わない声の交錯はポリフォニーの特質だとしても、比喩のための比喩を多用し、回りくどく書くことがいいとは思わない。

『ニッポニアニッポン』……阿部和重はほとほと賞に縁の薄い男である。他人事とは思えない。モテない男の世界観ばかり書いていると、本当にそうなってしまうかも。巨大妄想空間たるネットは徹底して客観性を欠いた世界である。その世界観を叙述に反映させ、意図的に類型化した日本語で作品を満たしてゆくその試みは、ネットそのものに嫌気がさし、個人情報保護法に賛成してしまうような人々には大いに嫌われるだろう。しかし、これは鴇をめぐる優れたアレゴリー小説なのだ。「熊の場所」と比較しても、その感染力は強い。どれだけ情熱を傾注して徒労にかまけるか、畢竟、小説を書くことの目的はこれに尽きる。教訓や共感を拒んだところで、なおかつ小説は成立するか、それに対する挑戦的な応えをこの作品は提示している。

"

選考委員

過去の受賞作品

新潮社刊行の受賞作品

受賞発表誌