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第14回 三島由紀夫賞

主催:一般財団法人 新潮文芸振興会 発表誌:「新潮」

 第14回 三島由紀夫賞 受賞作品

ユリイカ EUREKA

青山真治

角川書店

あらゆる場所に花束が……

中原昌也

「新潮」2001年4月号

 第14回 三島由紀夫賞 候補作品

 緑ノ鳥 大鋸一正 河出書房新社
 ユリイカ EUREKA 青山真治 角川書店
 生活の設計 佐川光晴 新潮社
 もどろき 黒川創 新潮社
 ベラクルス 堂垣園江 「群像」2001年2月号
 あらゆる場所に花束が…… 中原昌也 「新潮」2001年4月号

選評

筒井康隆

筒井康隆ツツイ・ヤスタカ

前景化ということ

「ユリイカEUREKA」は映画の小説化ということでさまざまな利点のあった作品だと思う。俳優の演技や背景などを見るうちに、作家の想像力も膨らんだであろうし、ディテールを変えたりもできたであろうからだ。だが一方では、特に冒頭、映画では説明不要だった人物の描写や関係が省かれていたため、前景化がしにくいという難点も出てきた。だがこれも、人物表を作るという、最近あまり誰もやらない読書の楽しみを強制するものとして、さほど不快ではなかったし、もう一度冒頭に戻って読みなおすことを要求しているかのようでもあり、面白かった。

 主人公たちの「大いなる苦悩」に現実性が希薄だったのも欠点だった。作者が設定した「極限の苦悩」の高みから、「お前らにはわかるまい」と言われているようで、読者はとり残されてしまう。むしろ読者に理解できる感覚から始めて、徐徐に精神の深みへ導いていくのが文学ではなかったか。文学的なのはむしろ、ストーリイテリングの文学性にあった。ストーリイテリング必ずしもエンターテインメントだけのものではなく、文学的ストーリイテリングというものも存在する。

「あらゆる場所に花束が……」も、やはり前景化しにくい小説である。人物の描写や関係が書かれていず、読者に読む苦労を強制する作品だったが、それがいい結果になって、ラテン・アメリカ文学のいちばん難解な作品とか、黒人作家のビートニク小説とか、ウイリアム・ギブソンのサイバーパンクSFとか、アンチロマンとかを読んでいるような思いがしてさまざまな刺激を受け、作品のアイディアまで頂戴した。評価が極端に分かれる作品であろうが、面白く読めた。しかし、おそらく受賞はしないだろうと予想して、積極的には推さなかったのだが、若手二人の意外な推薦で受賞に到った。

「生活の設計」も、おそらく受賞には到らないだろうとは思いながらも、文章に芸があるので強く推した。他の選考委員たちからは、被差別部落民ではない主人公が屠殺場に就職した心理の掘り下げがないことに疑問が出たが、なぜその職業に惹かれ、就業したのか自分でもよくわからず、説明もできないということはよくあることで、無理に説明しようとして心理描写などに陳腐なペダントリイを入れる、ということをせず、準拠枠が「野火」だけであったのがいい。また、同様に、主人公が、自分は被差別部落民ではないと、はっきり言わない方がよかったとする意見もあったが、それではまったく違う話になってしまうのだ。屠殺場の描写も、大変な労働であるにかかわらず、故意に誇張せず、淡淡と書かれているのでかえってリアリティがある。そのあたりが、これを読んだ屠殺場で働く労働者に「感動した」と言わせた理由ではないかとも思う。これが落ちた理由はやはり、なぜ屠殺場なのかという本質的な考察がないこと、ディテールの面白さだけで書いていること、自己言及的であること、屠殺場に対する社会的反応を過大視して書いていることなどであり、まさにこちらが推した理由の多くが、逆に欠点とされてしまった。

 推す方に不安もあり、それはつまり、この作者、このあといったい何を書くのだろうということであったが、このあと作品も発表しているようであり、その成果を待ちたいところである。

「ベラクルス」は大変な力業で、登場人物すべてメキシコ人という設定に取り組んだ意図はまことに大胆、よく書いたものだと驚かされた。こうした実験は現代的で、大きな意味のあることだ。だがあいにく、大家の老人やチェ・ゲバラに似た軍医など、点景人物のみがメキシコ人で、主要人物たちの感性はすべて日本人としか思えなかった。ここがこういう小説の難しさである。「臭い」ことの繰り返しをはじめとして、余分な描写もずいぶん多かった。これらはすべてメキシコにやってきた日本人観光客の感想であって、現地の人がそれほどのべつ空気が臭いことを意識し続けるであろうか。また、手紙が届かぬこと、人間関係のすれ違いなど、すべてがすれ違いに終るであろうことを、中ほどで予想させてしまうのも不味い。ここはやはり、何か小さなことをいくつか解決させておき、最後に大きなすれ違いが残るというのでなければならんのではないか。

 誰も書いていないような作品を、という意気込みが、今回の候補作・受賞作には見られた。その熱気が選考委員にも伝わっての、今回の熱のこもった討論になったと思う。受賞者ふたりともが、他のジャンルからの登場であることも意味深い。自由な読書体験と、ゆたかな社会体験ゆえの受賞であり、ひところの、純文学偏差値的な、新人賞の「傾向と対策」的でない作品が現れてほっとしている。

宮本輝

宮本輝ミヤモト・テル

幼児性

 文学賞の選考会ではしばしば起こることだが、こちらに受賞作として推すに足る候補作がみいだせない場合、ある作品を強く推す委員の主張に耳を傾けざるを得なくなり、その意見をできるかぎり尊重しようとして、寛容になりすぎ、物わかりのいい調整者の役割を演じてしまう。

 自分が認められないならば断固反対して「受賞作なし」という結果にもちこめばいいではないかと、にべもなく扱うことは簡単だが、一年に一度の賞となれば、なんとしても受賞作を出したいのである。

 中原昌也氏の「あらゆる場所に花束が……」は、島田委員と福田委員が推した。私には推せる作品ではなかった。

 いつの時代か判然としない東京に、(おそらくさほど先ではない近未来なのであろう)「醜いアヒルの家」という、私にはわけのわからない建物があって、そこで理由も対象もない暴力や、怒りの発散と同質のセックスが繰り拡げられる、というだけの話なのだが、十六、七の子供ではあるまいし、三十歳の作者が自分の小説の眼目に、いまどき使い古された理由も対象もないただの怒りを設定し、フラグメントの重ね合わせで無用に長い作品に仕立てあげたこと自体、私は幼稚だと感じた。

 フラグメントといえばなにやら聞こえがいいが、似たような品数ばかり皿に盛ったお子さまランチと評すれば、受賞者に対していささか失礼であろう。

 それにしても、この幼児性は何なのか。日本の青年たちの、あるいは日本という国全体の幼児性へのメタファだと好意的に解釈すれば、「あらゆる場所に花束が……」という小説にも意味があるというわけだ。

 もうひとつの受賞作である青山真治氏の「ユリイカ」は、映画撮了後に書かれた小説だという。

 そう説明されると、たしかに随所に映像を文章で追いかけているところがあって、そこに煩雑さを感じる。

 しかも、最初の章ですべてを説明してしまっているので、極端な言い方をすれば、最後まで読む必要がないということになる。

 登場人物は多くて、それらが入れ替わり立ち替わりあらわれて、私には、いったい誰が誰なのかわからなくなった。

 バスジャック事件に巻き込まれたバスの運転手と、生き残った兄妹の「トラウマ」が癒されていく「ドラマ」は、なんだか昨今、いろんな書き手によって書き尽くされた感じがして仕方がない。

 そしてこの小説の底にも、私はやはり書き手の幼児性を感じざるを得なかった。

 私は消極的にだが、黒川創氏の「もどろき」に最も高い点をつけた。芥川賞でも私は「もどろき」を推したが、その際の反対意見とまったく同じ言葉が、この三島賞においても他の委員の口から出て、私は推すに推せなくなり、いい素材の作品に見切りをつけなければならなかった。父が遺した「デッド・レター」ともいうべきeメールが、いかんともしがたい致命傷である。

 佐川光晴氏の「生活の設計」は、好感の持てる筆づかいで、「屠殺場」での牛や豚の解体作業を仕事とする主人公を描いている。しかし、ただそれだけでしかない。主人公が従事する仕事が、生活の設計のためだけであるとするところに、この小説の弱さがある。どんなに小さな井戸でも、掘るかぎりは数滴でも水を汲み出してもらわなくてはならない。

 堂垣園江氏の「ベラクルス」は、メキシコ人を主人公に、メキシコを舞台にして書かれている。

 丹念に丁寧に書かれているが、この長い小説を読み終えて、「だからどうだというのか」と思ってしまう。日本人の書き手が、メキシコ人を動かしてメキシコを舞台に書くとき、断じてそのような設定でなければ成り立たないという確固たる必然性が根本として求められる。だがこの小説からは、そこのところが希薄で、ただただ長くて、私には最後まで読み通すのが苦痛だった。

 筆力のある人なので、次作を読みたいと思う。

 大鋸一正氏の「緑ノ鳥」は、読み始めたときは期待したが、途中からつまらなくなり、読み終えて三日後には、どんな小説だったのかさえ思い出せなくなった。

 私の頭が悪いのか、「緑ノ鳥」が空疎なのか。いずれにしても、モラトリアムであることの芯のなさの典型のような小説だと感じた。

 私は三島賞創設時から選考委員をつとめてきて、ことしで十四年になる。私の任期はあと二年。

 そのあと二回の選考会で、誰が何と言おうが俺はこれを推すと声を大きく張りあげるような作品に出会えるだろうか……。

 そんな作品に出会い、反対する委員を怒鳴り散らして机を叩き……。一度やってみたいものだ。

高樹のぶ子

高樹のぶ子タカギ・ノブコ

破壊にこそ法則が必要

『ユリイカ』の作者は映画監督として高い評価を得ている人らしい。そしてどうやらこの作品は、初めて書いた小説らしい。それで得心がいく。この作品の弱点は、第一章でいきなり登場人物のほぼ全員が出て来て、その一人一人に充分な説明が無いものだから、判りづらい。少し小説に慣れた人なら、いきなりこんなふうに名前ばかりを並べたりしない。ただ、映像ならば別である。ひと目で年恰好、身なりなどが判る。映像世界の人だな、というのが第一印象だった。だが、その欠点を差し引いても、他の才能が際立った。この小説は九州の山村で起きたバスジャック殺人事件、その被害者として生き残った家族の話を描いている。理不尽な暴力に晒された人間の弱さと再生、救済がテーマだ。ほぼ一年前に、同じ北九州で起きた少年によるバスジャックを思い出す人も多いだろうが、この作品は実際に起きた事件より前に映像化され、ノベライゼーションされたものだそうだ。現実がフィクションの後を追って来た。あのとき私達は「どうしてこんなことをする少年が実在するのか」と驚き、家庭や学校や社会にその原因を求めたが、結局答えは無い。少年犯罪のたび「なぜだ」と問い、異界の異生物でも見るように怯えてきたけれど、この小説は、作者のストーリーテリングの力で、この問題に踏み込んでいる。ストーリーテリングとは、人間の見えざる裏側を引っくり返して見せてくれるワザであり、常に一種のあざとさはつきまとうけれど、作者のその能力は認めるべきだろう。一般の善良なる市民と、無差別殺人に走る人間とは、別人種であると考えがちだが、実は事件の被害者がそのショックゆえ加害者にもなりうる、という現代性に、説得力があった。センセーショナルな犯罪行為を通して、ラウンドな人間の陰の部分を見せてくれている。作者には、映像化以前に、まず活字で世界を作ってみることを、ぜひお勧めしたい。

『もどろき』には、人と人が解り合えないと知っていながら触手を伸ばし合う切なさがあった。祖父から三代に及ぶ話が、京都特有の影を抱え込んだ家屋の処置に絡ませて語られる。最後にどこから届いたか判らない謎のメールも効果的で、最も落着いた作品だったし好感も持てた。父親の自殺の理由を追う目は、こんなに淡々としたものだろうか、と私は少し疑問だったが、作者はどこかできっちりと人間を信じ肯定している。

 さて、もうひとつの受賞作『あらゆる場所に……』について、否定的な選評を書かなくてはならない。タイトル以外、とるべきものが何も無かった。ならばゼロだが、これは積極的に反対した。全篇が無意味な暴力と暴力的なセックス、嫌悪と憎しみで繋がる人間関係(これを人間関係と呼ぶならだが)だけで成り立っており、話の筋は通らず、登場人物は名前だけの存在で、しかもこうした無秩序に何も必然性が無い。何かに反抗し異議申し立てしているようにも読めない。強いて言えば既成の小説すべてに反抗しているのかもしれないが、もしそうなら、甘えん坊が家の中で金属バットを振り回して、破壊しまくっているようなものだ。せめて文章だけでも光るものがないかと思ったが「血に飢えた凶暴なダンプカー」などなど、上滑りの表現が目についた。選考会でそれを指摘すると、担当した新潮の編集者が「それも意識的になされたことだ」とコメント。そうは読めなかった。

 ここまで否定するには、読みこぼしてはならないと大変なエネルギーを注ぎ込んだが、その結果、不快さだけが残った。そして作者は、読者の不快さも文学的効果と考えているのではないかと想像した。

 選考会では町田康なども引き合いに出されたが、町田さんの作品は「一人称の語りとしてのトーン」がある。統一感がある。他方でアンチロマンの影響なども話題になったが、三十数年前、私の学生時代流行しすたれた経緯を眺めても、「カタチを壊すのが新しい、とする考えは古い」と思う。それでも壊したければ壊せばいい。ただ、破壊にこそ法則が必要で、読者は破壊の対象や破壊手段の中に、何らかの法則を感じとり、作者の「反抗」や「美」を読み取る。万にひとつ、破壊から新しいものが生れるにしても、それは破壊の勢いが、自ずからなる法則を形成する場合に限られるのではないだろうか。その意味では、破壊もまた建設的な作業だと思う。だが、この作品にはそれが無い。不快さはそこから来ている。「チャンネルを切り替えて行くコラージュ」とも言えない。何しろ登場人物が多チャンネルに亘って顔を出したり引っこんだりしていて「コラージュとしての統一感」も無いのだから。

「全否定ですが多数決に従います」

 選考委員を続けるのもしんどいなあ、と思ったが「選考委員が怒って辞めた快作」として、この作品がさらに脚光を浴びるのを想像すると、心地が良くない。ともかく私は、反対しました。

福田和也

福田和也フクダ・カズヤ

首尾は上々

 いつも通り、評価の低い順から。

『緑ノ鳥』(大鋸一正)は、全体に仕掛けも多く、小技もなかなか上手いのだがその器用さが、かえって平板さと底の浅さを露呈する結果になった。水子の顔を合成するといった趣向は、いかにも思いつきそのままで、しかも意図が見え透いていて、読むに堪えない。何か目新しいことをやっているつもりなのかもしれないが、救いようもなく老いぼれていて、元気も覇気もないのに、高だけはくくっている。

『もどろき』(黒川創)は、時空を介在してのコミュニケーションや相互了解にかかわる知的な小説ということになるのだろうが、このジャンルに必要なデリカシーが徹底して欠如しており、そのためにむしろ書き手の知性を疑わせるような作品になっている。「愛」という言葉の使い方は、辻仁成氏の大ヒット曲よりも数倍して無神経であり、野暮ったい。

 しかも、小説としての魅力の欠如にとって決定的なのは、神社を巡って展開されていくペダントリィに力がないことだろう。要するに読みどころがない。室井光広氏の初期の作品を彷彿とさせたが、室井作品に較べても圧倒的にコクがない。文章は淡白で読み易いけれども。

『ベラクルス』(堂垣園江)は、筆力に圧倒される気味はあった。けれども、あまりに紋切り型な人物や光景を、あまりに紋切り型に書いていく意識のなさには辟易した。革命と芸術について、二十一世紀においてどう語るべきか、といった意識はてんからまったくないのだろう。洪水での死者の書き方、街の匂いなどの描写など、いずれもあまりにありがちである。著者は、ありがちの事を堂々とありがちな形で書ききりたかったのだろう。そういう道があってもよいが、少なくともクリシェとして意識した上で語られるのでなければ、何の出発もあるまい。

 以降二つの作品については、受賞してもよいと思い臨んだ。

『ユリイカ』(青山真治)は、映画作品を見ているのが私だけだったので、その点でほかの委員とは、評価の機軸がずれてしまった感は否めない。映画のノヴェライゼーションのようだ、独立した作品ではないという意見が、いくつか出た(ノヴェライゼーションと見られても仕方のない個所があったのは事実である)が、私は逆に、従来の小説と映画の関係を、大きく踏み出す作品だと思い、何よりも映画との関わりにおいて、この小説が書かれていることが興味深く、また新しいと思われた。

 小説は、結末も含めて映画とは異なった体裁のもとで書かれている。映画では省かれているディティールもたくさんある。画像においてかなり美しいものであった阿蘇の風景は、小説では効果的には描かれていない。けれどもまた、映画を製作していく上で、考えた事をあるいは獲得したこと、逃した事などとの相関において、小説が書かれていることは明白であり、映画を小説において語りなおしたのではなく、映画を作製した経験との相関でテキストが書かれていることが、何よりも興味深かった。

 小説には、かなり直截な中上健次の模倣、あるいは引き写し的な個所がある。いくつかの工事の描写などは、その最たるものだろう。けれども、著者の抱えている課題は、中上的な構図では解決できないものではないか、と思われた。

『生活の設計』(佐川光晴)は、以前に『新潮』新人賞受賞の選評で論じたので、詳しくは述べない。いずれにしろ作者の資質が認められるべきものであることは確信している。ただ、宮本輝氏の「自分が被差別ではない、と書いているのは弱いのではないか」という主旨の指摘には、首肯できるものがあった。いずれとも書かずに読者に判断を委ねるという選択もあったかもしれない。

 私は、『あらゆる場所に花束が……』(中原昌也)を推すつもりで選考会に出向いた。本作品は、アヴァン・ポップ的なものとして読まれているようだが、本質的にはむしろ、シクススやシモン、ソレルスといった50〜70年代フランスのヌーボー・ロマンの結構をもっている。その手柄は、ヌーボー・ロマンの手法や作品にたいする意識を、御勉強をした風にではなく、デスペレートな現実の荒廃の上に展開したということだろう。ロマンティクの否定が、ロマンティクなものになっていない、その点で真に知的であり、またフローベール的な凡庸、月並みのコラージュもスリリングであった。

島田雅彦

島田雅彦シマダ・マサヒコ

あらゆる場所に死体が……

 あらゆる場所に累々と積み上げられた死体……現代文学は死体嗜好症者によって支えられている!?

 そこが屠殺場であれ、ハイジャックされたバスであれ、火葬場であれ、メキシコであれ、旧家の店先であれ、プータローの更生施設であれ、何事も誰かが死ななければ、誰かを殺さなければ始まらない。また、その死体が無差別連続殺人の被害者のものであれ、自分の父親のものであれ、牛であれ、虫であれ、左翼ゲリラのものであれ、誰もが、時に不器用に、時に軽哲学的思弁を駆使して、時にヤケクソに、時に生活のため、時に救済の祈りを込めて死を想う。大量死時代の小説の一覧表ともいえるラインナップに、いつも通り評価は割れた。発表順にいこう。

『緑ノ鳥』の作者は、全編を貫く脱力感にいい味を出している。随所で示される叙情は韻律を無視した自由俳句のようでもあるが、俳句的世界を小説で展開するにはプラスαが必要不可欠だ。こと三百枚を越える長さに至っては、構造がなければ、単調さは避けられない。確かに脱力感だけでは書き切れないと作者も考えたに違いなく、軽哲学的思弁をプラスαにしようとしたのだろう。だが、叙情と思弁は違う。

『ユリイカ』の作者はこの作品を中上健次へのオマージュにもしたかったのか、描写の文章に露骨な模倣がある。風景描写と登場人物の意識がシンクロする象徴性の高い語りは懐かしさすら感じる。カメラの目を小説の語りにスライドする書き方は、劇映画の手法が近代小説の客観描写をカメラアイに委ねることで成立したことのちょうど逆をついているわけだ。人が思うほど、小説と映画は全く異質なジャンルというわけではなく、両者は同じ穴から這い出て来たといってもいいくらいだ。映画監督の仕事と小説家の仕事は多くの点で共通するものがある。

 それにしても、映画と長編小説を同じテーマから紡ぎ出した青山真治の執拗と拘泥は瞠目に値する。分裂症気味の自意識過剰が幅を利かす小説市場においてはこの気質は、骨太なエンターテイメントに向いている。トラウマと救済、政治的正しさと凄絶な人生……近代小説の命脈の一筋がこのテーマに流れ込んでいることは天童荒太や柳美里らの小説を見てもわかる。だからといって、からかいの笑いを封じる書き方がいいとは思わない。

『生活の設計』……知られざる職場の仰天レポートなどと書くと、テレビのバラエティ番組のようだが、テレビは屠殺場を映しはすまい。いわば、佐川光晴が実際に十年間も務めていた労働の現場は小説か、ルポルタージュの形式でしか報告され得ないだろう。屠殺場に対する偏見や作業現場の細部を公開したことに対しては評価するものの、わざわざこんなところで働く奇妙な私に対する意識が過剰で、ほとんどが自己言及で埋め尽されている。もし、そこが屠殺場でなかったら、小説は平凡な生活雑記となる。

『もどろき』……自転車を偏愛したお祖父さんの話など前半の印象的なエピソードに対して、後半知的スノビズムが勝ってくると、仕掛けた装置に振り回されて、人物たちが平板になってしまう。自分に連なる系譜を書くとっておきの小説ならば、彼らへの具体的な共感なり反発なりが、叙述に深い陰影を与えるはずなのに。

『ベラクルス』……語り手は一体何処にいるのだろう。登場人物全てがメキシコ人なのだが、悲しくも語り手が彼らに過剰に思い入れる傍観者に留まっている。熱気や悪臭、凄惨な光景はヴィジュアル的にはよく伝わってくるものの、どこかCNNの報道や戦争映画を見ている気になってしまう。友人への呼びかけの語りと語り手を使った客観的な語りが交錯するが、メキシコ人たちの意識、感覚に憑依し切っていないせいか、日本語の口パクを思い出してしまう。

『あらゆる場所に花束が……』……この作品に芥川賞を授ける蛮勇を持つ者はいまい。これを推した福田委員ともども針のむしろに坐ることにした。宮本委員は絶対に×といったが、次に何を書くか読みたいとも漏らしたし、やはり授賞に強く反対した筒井委員も理解を拒んだ高樹委員も、刺激を感じたり、才能を感じたりしたわけで、奇跡の授賞となった。ヌーボーロマンや『時計じかけのオレンジ』で知られるバージェスあたりが活躍していた七○年代モードを思わせ、懐かしくもあった。似たようなものはネット上に垂れ流されてもいるのだが(たとえば侍魂)、このいかれ具合は中卒ガチンコへの同情さえも吹き飛ばす。PCって何みたいなふてぶてしさに深沢七郎を思い出す人もいるようだが、中原昌也は若者には珍しく野蛮だ。私はこれを推すだろうと、他の選考委員に気取られたということは、私も年相応に野蛮なのだろう。

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