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第13回 三島由紀夫賞

主催:一般財団法人 新潮文芸振興会 発表誌:「新潮」

 第13回 三島由紀夫賞 受賞作品

目覚めよと人魚は歌う

星野智幸

 第13回 三島由紀夫賞 候補作品

 東京ゲスト・ハウス 角田光代
 アレグリア デビット・ゾペティ
 服部さんの幸福な日 伊井直行
 サーチエンジン・システムクラッシュ 宮沢章夫
 目覚めよと人魚は歌う 星野智幸

選評

筒井康隆

筒井康隆ツツイ・ヤスタカ

若さと気負いに好感

 中上健次、江藤淳と、三島賞の最初の選考委員のうち二人がなくなってしまい、あれからもう十三年にもなるのかと時間の早さが思われてならない。今回は高樹のぶ子、島田雅彦、福田和也の若い三氏が加わった。票割れするのではないかと思っていたが、たしかに最初の〇印はみごと四つの作品に分散したものの、最終的には意見の一致を見たし、評価基準にさほどの年齢差もないとわかり、安心した。実は小生、今回は強く推したい作品がなく、△印がふたつという心積もりで臨んだのだったが、そのふたつとも最後まで残り、ずいぶん高度な議論が重ねられて勉強にもなり、納得のいく結論となった。

 最初は島田雅彦だけが推していた受賞作の星野智幸「目覚めよと人魚は歌う」も、それぞれに評価の理由は異なるが一応は全員がマークしていた作品だった。今回、疑似家族というか寄合所帯というか、そんな設定を選んだ作品が他にもあったが、これはその作品と比較すれば文章や構成にさまざまな工夫がなされていて、ずいぶん出来がよかったという点で得をしたのではないかと思う。文章が凝り過ぎていてわかりにくいという委員もいたが、まあ、おれくらいになれば、すらすら読める甘ったるい文章は単なる苦痛だが、それよりはこの程度に引っ掛かる文章の文学的苦痛の方がずっとよいわけであり、一人称と三人称の混淆などが特に面白かった。日系ペルー人という存在がリアリティをもって描かれていて、現実をそれなりに捉えていると言えよう。気負いや衒いもあるが、文学を背負って立つくらいの意気込みと見れば好感が持てるし、今後に最も期待できそうな新人と判断できた。

 現代演劇の旗手と謳われている宮沢章夫の「サーチエンジン・システムクラッシュ」は読んでいてとても懐かしい気分になれた。特に主人公が池袋を、目標を見失ったままで徘徊する描写など、池袋をほとんど知らない小生にも既視感のようにそのリアリティが感じられ、作中にも出てくる「いま、池袋」というフレーズには実感があった。

 他の委員たちには、作者が演劇畑の人ということで、なんとなく警戒心があったのかもしれない。宮本輝は「いかにも芝居になりそうな作品」と言っていたが、たしかにおれにも舞台化された時の様子、即ちスクリーン投射で背景に池袋の地図、などというものが想像できたが、それが否定的評価にはつながらなかった。

 手法が古めかしい、とか、七十年代の小説みたいだ、という否定的意見もあった。たしかにおれも、最初からこの作品を最も強く推していた福田和也もそれは認めていて、おれは特に演劇とのからみで安部公房の「燃えつきた地図」などを連想したのだが、さらに言うなら、おれくらいになれば七十年代どころか、カフカの「城」に始まる徘徊もの彷徨ものの文学的伝統すべてが思い出され、まさにそこにこそ前記の「懐かしさ」を感じたのである。これを一概に古さと言うべきなのだろうか。過去の文学作品を準拠枠とした上で、そこに新しさが加わっていればまことに心地よいのであり、即ち肌にぴりりとくる健康的な文学風呂に浸った鞍配なのだ。特に文章は今回の候補作の中でピカ一と感じた。

 以下は戦略論だが、戯曲作家が小説を書いて文学賞を取ろうとする場合、おれのような理解者でもいない限り、過去の芝居を想像させる作品はどうしても不利になる。それよりはいっそのこと、たとえばおれがいつも言うように、現代演劇が現代小説より進んでいることは確かなのだから、小説家たちがあっと驚くような最先端の演劇的成果を取り入れた小説を書くべきではないか。それこそ文学賞総なめという事態になりかねないのだ。だからその意味で戯曲作家は、他の新人よりずっと有利ではないかとも思うのだ。

「服部さんの幸福な日」の伊井直行はなかなかのストーリイ・テラーである。特に前半の自我と自我がガリガリ音を立てて噛み合うような部分には笑いもあり、三島賞をエンターテインメントに与えてもいいではないかという気にもちょっとさせたのだが、後半になってくると、こういう話はどうしてもこうなってしまうのか、予定調和へ向かうために下降気味になってしまい、笑いも乏しくなる。高樹のぶ子が推したのだが、選考の席上では彼女の説得力もあり、文芸出版の隆盛のためにはこの作品でもいいのでは、などと一瞬思ったりもした。しかし他の三委員は全否定であった。「もっとメチャクチャにすれば」と、宮本輝が言い、おれもそう思ったのだが、それでは筒井康隆になってしまう。後半を盛り上げる方法はメチャクチャ以外にいくらでもあるのだ。まあ、単なるそんな技術などは、おれくらいになれば……。

宮本輝

宮本輝ミヤモト・テル

はじめに文章力ありき

 こんなことを一流の出版社から刊行されたり、あるいは文芸誌に掲載され、三島賞の候補作となった小説に対して書くことそれ自体が、なさけないのだが、私が選考にたずさわるようになって十三年たち、候補作品全体に「文章力の欠如」を感じたのは今回が初めてである。

 文章の上手下手とは別に「筆力」というものがあって、私は「筆力」とは最後まで読ませる力だと思っている。

 そう簡単には読ませないぞ。読む者を立ち止まらせ、ときにあと戻りさせるぞ。という書き手の企みが横溢する作品でさえも、立ち止まらせ、あと戻りさせるだけの筆力があったうえで成り立つ技なのだ。

 今回の候補作には、この筆力どころか、作家としての文章力すら疑問に感じさせるものが多くて、あるいはそれを読む私自身の資質に問題が生じているのではないかとさえ考えてしまった。

 私が受賞作として推したのは、デビット・ゾペティ氏の「アレグリア」であるが、他の選考委員の賛同を得ず、ほとんど孤立無援の状態だった。私はこの作者の文章が、最も丁寧で折り目正しく、読みやすく、ディティールの描写に意気込みを感じたが、たしかに随所に生硬で類型的な表現があり、物語の橋渡し役をする「ぼく」が、全体を通して語りつづける女性の独白に対して、あまり重要な意味を持っていないという意見には頷かざるを得なかった。

 とりわけ、トム・ナンタという青年ダンサーが、双子の兄の死に万感を込めて、ひとり踊るシーンは、あまりに陳腐で、そこを指摘されると反論の仕様もなく、四面楚歌の心境で引き下がるしかなかった。

 だが、民族の違い、言語の違い、文化や習慣の違い、さらにはそれぞれのなかに流れる血の違いが、やがて自分が極めようとしているバレエというものへの疑いへと移行し、フラメンコに新しい何物かをみいだしたのに、やがてそこにも自分の血とは遠く離れたものを抱かざるを得なくなる主人公の虚しさは、日本で暮らす「ぼく」と重なって、私には興趣深かった。

 受賞作となった星野智幸氏の「目覚めよと人魚は歌う」は、私には退屈で、読み通すことに苦痛すら感じたが、登場人物の多くが、日本で暮らす日系ペルー人であることがわかってくると、その煩雑さにも意図したところがあり、一人称と三人称の混淆も計算のうえでの手口かと、私は親切すぎる読者と化して、強く推す島田委員の言辞に耳を傾けてしまった。

 エトランジェであるようでないような、この奇妙なアイデンティティーの均衡のなかでしたたかに生きる日系人たちが依って立つものをしたたかに書いたと無理矢理深読みすることにして、私は受賞に賛成した次第だ。

 伊井直行氏の「服部さんの幸福な日」は、読み物としては最も面白い。だが所詮は「おちゃらけコメディー」でしかないのではないかという感想がつきまとう。

 おちゃらけならおちゃらけで、そこに徹すれば、どこかで別の物へとすり替わって、この小説の底は深くなる道もあったかと思うが、徹し切れていない。作者の手練は充分に知っているだけに余計に不満がつのった。

 宮沢章夫氏の「サーチエンジン・システムクラッシュ」は、その題のとおり、ネット検索における思いがけない行き先を、人間の日常に置き代えて、今風に仕上げたが、そのじつアナクロニズムを感じさせる展開で、私は「らくな手を使った小説」としか思えない。

 六十年代後半、もしくは七十年代にかけて、ネットの世界など思いもよらなかった時代にも、このように行き先不明の人間のよるべなさや混乱や迷妄は、違う形で小説化されたり演劇化されてきて、私などはもう辟易としている。

 別の文学賞でも「サーチエンジン……」は論議の対象となり、「赤いチョークの線」だけに絞ればよかったのにという意見が多く出たが、それでは「システムクラッシュ」とはならないのであろう。我々の人生には、カーソルをクリックする瞬間が山ほどあって、古今、その行き先不明は文学のひとつのテーマであったのだ。つまり、この小説は何も新しいものではないということになる。

 角田光代氏の「東京ゲスト・ハウス」は、私がこれまで読んだ氏の作品のなかでは最も緩みと散漫さが目立った。文章にもメリハリがなく、小説そのものがぼやけてしまっている。「どう書くか」の次元ではなく「何を書くか」の次元で、作者の腰のすわりの悪さを感じた。

高樹のぶ子

高樹のぶ子タカギ・ノブコ

「おーい、待ってくれえ」

 新人の作品を論じるとき、形式や叙述の方法について意識的であるかどうかが、いつも問題になる。公募する新人賞などで「これまでになかった、新しい小説を待っている」と選考委員がハッパをかけると、応募者は腕にヨリをかけて、形式や叙述方法の面でがんばるのではないだろうか。どうもそんな気がする。

 作家の肉体が書きたいものを抱えていて、内在するエネルギーが溢れているのであれば、形式や叙述方法をわざわざ意識しなくても、自ずと採択される形式や叙述方法があるはずだし、いやその上で意識して矯められてこそ、形式や叙述方法が意味をもってくるのではないだろうか。

 美であれ官能であれ、希いであれ主張であれ、文句や自傷であれ、何であっても、内側から強く噴き出すものがないままに、形式や叙述方法に腐心し、そこに才能の発芽を集中させて、新人が出てくる。選ぶ方は、その種の才能を拍手で迎える(しかない)。すると次に出てくる新人はさらに形式や叙述方法にヨリをかける。前進させるにはそれしかない。書きたい事が小さくても、さほど切実でなくとも、これなら文学を新しく出来ることを本能的に知っている。選ぶ方も、それしかないから、新しい試みを良しとする。悪循環だ。

 堂々めぐりを繰り返しつつ、しだいに読者から遠ざかっていく。おーい、待ってくれえ。

 結果として文学は、全身から生み出されるのではなく、頭脳や意識の産物になっていく。

 しかし頭脳や意識だって人間の肉体の一部なのだから、生活にまみれる全身が貧しくなれば、そっちもやがてジリ貧になっていくに違いない。

 悪循環の繰り返しの中にも、突然の巨人出現があるのかもしれない。なくては困る。その巨人が、読者から遠く離れてしまった文学の野を、ヨイショヨイショと引き戻してくれるのだろうか。

 受賞作『目覚めよ……』はまさに試みの作品だ。読みにくい。読者に対しても不親切だ。たとえば改行もないままに人称が「わたし」から「糖子」へ、そして「わたし」へと戻る。何のために? 妄想する一人称部分と客観描写を両用する作りを睨みながら、様々な想像を働かせてみる。しかし、その必要性が納得いかない。

 にもかかわらず受賞に賛成したのは、読み重りがあったのと、いくつかの場面がスポットライトを浴びたように鮮明に残っていたからだ。

 受賞者は、巨人なのだろうか。そうであればいいと思う。しかし私の視力では、その頭部までは遠くて見えない。

 私が推したのは伊井直行さんの『服部さんの幸福な日』だった。他に賛成者がなく、残念だったが、この作品は読者に向かって開かれている。他の委員が指摘する欠点は確かにあるけれど、読ませる企みの中に伝えたいことを沈めて、読者に提出する意図と芸がある。こうした意図や芸は、たとえ不完全であっても大切にしなくてはならないと思う。選考途中で、これは三島賞でなく山本賞ではないかという声があった。それは違う。この小説には整合性が無い、というより少しズレていて、そこに気味悪い人間の執着心や子供じみた暴力がにじみ出ている。登場人物は善人であり悪人である。飛行機事故で生き残った男のドタバタ寓話だが、御都合主義の展開にもかかわらず、読後感が予定調和の中に溶解することはなかった。

 角田光代さんの『東京ゲスト・ハウス』も面白かった。すらすら読めるという意味では、読者を拒んでいない。私たちは過去から未来へと繋がる時間軸の中で生きている。達成感や後悔、将来への期待や不安は、時間軸があるから生れる。ところがこの小説の登場人物たちは、およそ時間軸が無い。だから、未来のために今日辛抱する、という考えが無い。実にあっけらかんと今だけを生きている若者たちがこのゲスト・ハウスの住人だが、そこに“旅の王様”がやってくる。何十年もそうした生活をしてきた彼らの先輩である。彼らの中に「あんなふうにはなりたくない」気持が芽生える。時間軸の発生である。そこが面白い。モラトリアム小説らしく、デレデレとどうしようもない日常が描かれるが、それがかえってこちらに溜息をつかせ、こんな連中がいるんだろうなあ、と納得させられた。

『アレグリア』はキチンとした小説である。しかし少女小説のようにセンチで甘い。最初と最後に額縁のように登場するイアンを排して、陽子だけの物語でもよかったし、もしイアンを登場させるなら、イアンと陽子の化学反応が必要だった。

『サーチエンジン……』は、“生きているのか死んでいるのかわからない。その曖昧さに耐えられるか”という哲学的文章が、何度も花火のように打ち上げられるが、照らし出されるものが見えてこない。“虚学”にもっと凄味かユーモアがあれば良かったのに。

福田和也

福田和也フクダ・カズヤ

詩情と齟齬と

 今回はきわめて相対的な選択となった。ほとんどの委員の押す作品がバラバラであるという珍しい事態になったが、それは粒よりの作品ばかりだったというのではなく、隔絶した作品がないという事情によるものだった。

 一つ一つの作品について、私として評価の低い順に論じていく。

 まず伊井直行氏の『服部さんの幸福な日』。

 寓話的リアリズムといったジャンルに分類されるべき作品なのだろうが、事件がすべて偶発的な事情によって起こっていること、小説の推進力が、ただ「奥様」とよばれる全能の存在によってのみ支えられているといった安易さは、耐え難いものであった。

 墜落のフラッシュバックや愛人との交歓などのディティールも杜撰で、なぜこの作品が候補に、という疑問を持った。自己模倣という指摘もあったが、それ以前の作家としての姿勢にかかわる問題ではないか。

 角田光代氏の『東京ゲスト・ハウス』。

 町田康+保坂和志+平田オリザ(『冒険王』)という感じで、ややマーケッティングの匂いがするのは、当方の勘ぐりであろうか。帰国してフリーター生活を送るバックパッカーを主人公とし、ゲストハウスの家主やバイト先の社長などの魅力的な人物やエピソードがあった。ネパールなどの国もよく書けていると思われた。

 だが、こうしたモラトリアム小説は結末がもっとも困難かつ肝要であるのに、そこで元の鞘に戻るといった安易な展開をたどってしまい、失敗したのは致命的である。また主人公の自身の生活にたいする姿勢が、きわめて平板であることも気になった。

 デビット・ゾペティ氏の『アレグリア』。

 日本に来たポーランド系画家と日本からカナダに渡ったバレリーナというデラシネ同士の対話という小説の構造が面白かった。こうした叙法の実験はなされてしかるべきであり、その仕掛けがともすれば安易なエキゾチズムに陥りがちな主題を救っている。ただし、主人公のボーイフレンドとの馴れ初めとか、留学先の教師の履歴といった細部やエピソードにはかなり安易な箇所があり、その点においては未だしという感も拭えなかった。

 星野智幸氏の『目覚めよと人魚は歌う』。

 とにかく文章がよかった。晦渋という意見もあったが、やはり詩的なものを散文に再び呼び戻そうという意欲は高く買いたいと思う。ただしその詩情は、ある委員が云ったようなシュール・レアリスムといったものではなく、むしろ斉藤和義や奥田民生といったJ・ポップのものに近いと思う。

 この作品にとって致命的な問題は、かような詩情が要請するであろう、小説上のコスモロジーを提示できていない、ということだろう。話法や話者の意識の浸透といった叙法上の繊細さは随所に見られたが、石川淳や坂口安吾、さらには中上健次といった作家に言及するまでもなく、かような詩的な強度の導入は小説の構造と力学そのものを改変してしまうはずである。その点ではきわめて物足りなかった。

 さらに、とりあげられている話柄も、バブル崩壊で打ち捨てられたリゾート地とか疑似家族とか、日系ペルー人といった月並みな問題が取り上げられている。著者は、そうした問題を個々にズラして月並み化を避けようとしているのだが、その配慮はむしろ作品を去勢する方に向かっているように思えた。

 宮沢章夫氏の『サーチエンジン・システムクラッシュ』。

 表題のせいもあって、きわめて先進的な作品であるという受け取り方をされているが、むしろ古風ではないか。七十年代の安部公房や大江健三郎の作品の手触りに似ている。さらにはパフォーマンス・アーティストの相貌や不可思議なゼミナールのあり方など、七十年代的アングラ文化の召還ともいうべき試みが随所にあり、私はそこを評価した。

 さらには話者が殺人を犯して捕まったとされる友人について、偶然風俗店ですれ違った時の「おつかれさまでした」という言葉に拘るといった点に、きわめて小説的な神経の働き方を感じた。あらゆるコミュニケーションがきわめて滑らかに流れる空間の中での、検索システムの齟齬と混乱の中で呟かれるため息のような言葉にこそ、リアリティを見いだすという姿勢は興味深い。議論が分かれるのは、かような検索齟齬の逸脱しつづける情報のあり様を、池袋という街として空間化してしまったことだろう。かような空間化がこの小説にとって必然だったのか、記号の水準で齟齬を表現すべきだったのか。

 いずれにしろ私は本作が受賞にふさわしいと思った。

島田雅彦

島田雅彦シマダ・マサヒコ

ラテン系日本語

 星野智幸は確信犯として、日本語を変造しようとしている。国語学者や歌人あたりが唱える日本語の改革とは遠い距離を置き、ジャーナリズムで話題にされるだけの流行語や当世若者言葉に見られるような日本語の変化にもあえて無関心を貫き、彼はひたすら日本語の変造に励んでいる。いわば、日本語で贋金造りを行っている。果たして、彼が巧妙にこしらえた変造日本語は、社会に流通し得るだろうか? それは実に危険な賭けだといわねばならない。

 貨幣の変造も言語の変造も、実に手間と技術を要する作業である。また、それ以上に情熱を必要とする。誰も好んでしたがる作業ではない。変造は必ず、見破られるものだし、変造と知っていてそれを使おうとする者などいないからだ。この作業に関わる者の栄光は、割に合わない職人芸を磨き上げる律儀さのうちにある。だが、コストパフォーマンスの悪いその職人仕事を評価しつつも、晦渋さに難を唱える人は多かろう。先ず、性懲りもなく比喩をたたみかける描写の文章に読者は躓くだろう。糖子の一人称で書かれたくだりは独特の生理感覚だけでつづられた夢の記録のようになっており、遠近法を欠いている。続く、三人称の語りを読んで、ようやく何が起きているのかおぼろげにわかってくる。スムースに読み進めることを拒んでいるかの叙述だが、それは簡便な説明の言葉を排し、全てを感覚的反応に還元して語ろうと努めるせいだ。結果的に、意外な言葉の組み合わせの芸で読者をつなぎとめておくことになる。

 どうやら、星野智幸はラテン系日本語とでもいうべきものを開発しようとしているらしい。語り手は常に至近距離から登場人物を眺め、その筋肉の反応、ニオイ、肌触り、喜怒哀楽の変化を記録し続ける。語り手は、まるでボールを追いかけて、選手と一緒に走るサッカーの審判のように、登場人物の一瞬ごとにうつろう感覚を言葉で固定しようとし続けるのだ。ラテンの世界は人と人の距離が近く、愛憎の振幅が激しく、絶えず、快楽と暴力が関係のあいだから湧き出してくる。そんな世界を描き出すためには、日本語自体を変造しなければならない、と星野は考えたのだろう。単に外国に舞台を設定して、ボーイ・ミーツ・ガールの物語を語ったり、奇談の数々を収集したりすることよりも、はるかに困難な作業である。

 角田光代の「東京ゲスト・ハウス」は、何もしないことの様態をローテンションの言葉で描き、風俗を巧みに捉えてはいるものの、ここには批評もやけっぱちな語りの妙味もない。過去の角田作品を愛読した者の一人としては、「まどろむ夜のUFO」にはあった荒みの魅力が欠けている「ゲスト・ハウス」は物足りない。

 宮沢章夫の「サーチエンジン・システムクラッシュ」はそのタイトルから全ての仕掛けが見透かせる。様々な事件や社会現象に、ジャーナリスティックにコミットしようとする社会学者や心理学者たちは日々、本質をいいあてようとする身振りを繰り返しているが、インターネットの検索エンジンよろしく、結果的には瑣末の周囲をウロウロするだけである。もとより、左翼知識人のように大問題を糾弾する態度も、有効ではないことを知る者は、どういう態度をとるべきなのか? 少なくとも、宮沢作品はその問題に対する答えを提出してはいる。諸問題の回りを迂回し、原因と思しき事象にブックマークを挟み、最後に「お疲れさま」という。何処か、「アンダーグラウンド」の村上春樹のスタンスにも似た礼儀正しさだ。ワイドショウの司会やコメンテーターよろしく、結局は礼儀正しくしていれば、非難されることはないという処世術の達人のいうことばかり聞くのも退屈だ。

 デビット・ゾペティの「アレグリア」は読み物としての洗練度は高い。だが、それ以外に何をいうことができよう。初めは「草枕」のような小説かと期待したが、やがて、テレビドラマのパターンをなぞり出す。語り手とヒロインが、双方にとっての異国であるスペインで、異邦人たることの存在の不安を交錯させるところはいいとして、フラメンコに対するイメージがあまりに紋切り型だったりする。

 伊井直行の「服部さんの幸福な日」は、平凡なサラリーマンの冒険という従来のジャンルに新たな一石を投じたかというと、やや物足りない。先を読ませるストーリーテリングは老練だが、出来事の意外性はみな黒幕と女によって引き起こされるという伊井氏の初期作品のパターンを踏襲している。服部さんは冒険しているが、語り手はいささかも冒険していないのだ。随所にちりばめられた四コマ漫画的ユーモアは読者の共感を呼ぶかもしれないが、その中庸なユーモアを突き抜けた先をぜひ読みたい。

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