第12回 三島由紀夫賞
主催:一般財団法人 新潮文芸振興会 発表誌:「新潮」
第12回 三島由紀夫賞 受賞作品
ロックンロールミシン
おぱらばん
第12回 三島由紀夫賞 候補作品
ロックンロールミシン | 鈴木清剛 | |
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おぱらばん | 堀江敏幸 | |
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて― | 東浩紀 | |
久遠 | 大塚銀悦 | |
ぼくたちの(俎板のような)拳銃 | 辻征夫 | |
ヴァニーユ | 赤坂真理 |
選評
石原慎太郎イシハラ・シンタロウ
ある収穫
年に一度の新人のための文学賞ともなれば選ぶ方も大きな期待をこめて選考に当たるものだが、そしてまた世の中には次々に新しい作品が生みだされては来るが、新しい感性に行き当たったという感動を味わうことは滅多にありはしない。物を書きたいという衝動は野球選手になりたいという願望よりも世の中に普遍してあるような気もするが、それで世に出るという確率はプロ野球の選手になりおおせるよりも低いようだ。
年期を経た作家になれば自分が書こうとしている作品の成功を願うくらいに、誰かの手になる未知の戦慄に身をまかしたいと願うのも切だが、選ぶ側の至福を味わうことは滅多にない。しかしそれも、新人のための文学賞の数がふえたために、精練されつくす前の作品が持ちこまれてしまうせいなのかも知れない。
今回も、選ぶ者としての期待が十全にかなえられたとはいい切れないが、しかしある才能を感じさせる作品に行き会えたとはいえる。
大塚銀悦氏の「久遠」はいかにも陳腐。何が主題なのかよくわからない。町田康と車谷長吉を合わせたエピゴーネンの域を出ていない。
赤坂真理氏の「ヴァニーユ」は前回の芥川賞候補になった作品に遠く及ばない。感覚の指標の一つである音に対する固執は作者の内的な特性なのだろうが、こうした外国を舞台にした、性的に奔放ないかにも自立しきった風の女性を主人公にした小説には少なくとも私は食傷している。いわれて作者は不本意だろうが、安っぽいマーケッティングを感じさせる。
東浩紀氏の「存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて」は、こうした作品が、いかに間口が広くしつらえられているとはいえ三島賞の候補として据えられることにいささか疑問がある。これは冒頭の、「本書はジャック・デリダの解説を目的としている」という一行が示すように、論文ではあっても評論とはいいがたい。少なくとも私は小林秀雄や江藤淳の評論に見出だすような作者の強い感性の波動を受け取ることはなかった。
辻征夫氏の「ぼくたちの(俎板のような)拳銃」は三十一編に成る構成のそれぞれの掌編の切れがいかにも鈍い。長じてから回想する青春はなんであろうとリリックなものだが、詩人という作者はそれ故にことさらそれを避けようとしてこうした構成を採ったのかも知れないが。最後の掌編は蛇足である。
堀江敏幸氏の「おぱらばん」については、果たしてこれは小説か、とすれば今一つの力に欠けるが、エッセイとするなら新しいスタイルのものだという論がしきりに出たが、三島賞は戯曲や評論にも間口を開いているのだからその作品が何のカテゴリーに属するかという議論は不要だろうということになった。
パリに住む外国人たちのエトランゼとしてのメランコリアを主題にした短編のアンソロジーということだが、作者の外国文学に関するペダントリーがこれ見よがしにではなく書きこまれていて手のこんだ作品仕立てだが、それぞれの作品の印象がいかにもひ弱い。その物足りなさは画材でいうとパステルのそれで、その淡い味わいもまた魅力の一つではあろうが。
鈴木清剛氏の「ロックンロールミシン」については四人の選考委員の評価が真っ二つに別れた。支持したのは私と青野氏だったが、二人のいう所も期せずして一致していた。
新しいアパレルの創造に挑む若者のグループの努力と挫折がプロットだが、ここに描かれている群像は誰もみな、現代小説には珍しく健全といえる。故に、その風俗が何であろうと極めて健康的である。そういうのは小説への賛辞として妥当か妥当ならざるかは別にしても、現代のある風俗を描きながら嫌みがないというのも珍しいことに違いない。それが作品としての弱さだという節もあるかも知れないが。
しかしなおアパレルとはいえ創造の仕事にたずさわる若者が、自らの労作を本物のオリジナリティがないと断じて自分の手で切り裂いて捨ててしまうという、青春故にいかにも気負った姿は、よろずステレオタイプが普遍している現代ではあるささやかな共感を呼ぶに違いない。
なんであろうと前衛でいたいという志しは青春の特権であり、青春はそれ故に青春たり得るのではなかろうか。それにしてもこのタッチの軽さはという論もあったが、軽さもまた青春の特権の一つではある。
風俗にまみれながらもある価値観の機軸を感じさせるということだけでも、青春を描いた小説としての意味も価値もあるといえるのではないか。
筒井康隆ツツイ・ヤスタカ
現代思想と文学
デリダというのは変な人で、初期には形式的、論理的な文章で書いていたのだが、後期になると書簡体などを使って「郵便的」だの「幽霊的」などというわけのわからないことを書くようになった。脱構築について書かれた前期の主張を、後期になって自分で実践しはじめたのだと言われているが、東浩紀「存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて」は、なぜデリダがそんなことをしはじめたのか、また、後期の彼の思索がいかなるものかを解読しようとしている。その結果、前期デリダの言う脱構築はゲーデル的脱構築であり、後期になるとそれはデリダ的脱構築としかいいようのないものに変化していること、だからたいていの評論家がデリダを引きあいに出して脱構築という時、わかりやすい前期デリダの文章しか読んでいないため、それらがすべてゲーデル的脱構築を意味しているに過ぎないことを証明してしまっている。つまり柄谷行人はじめ世界中のほとんどの思想家がデリダの後期の文章を解読していないことをあからさまにしてしまったわけである。また、郵便的というのがシニフィアンとシニフィエが結び付いていないことであり、「幽霊的」というのが決定不可能性の一種であることから始まって、デリダに影響を与えた、またデリダに影響を受けた多くの思想家の思索を援用して後期デリダを解読している。今後デリダについて何か言おうとすればこの本を読んでいなければ無意味ということになるのだから、まさに画期的なデリダ論と言える。
この本を推すつもりで選考会に臨んだが、「デリダとはダレダ」という委員が多く、また「論文であり、文芸的ではない」ということで賛意を得られなかった。この問題が文芸的などという範疇を遥かに越えた現代思想の問題であること、デリダがディコンストラクションの親玉であり、「脱構築」は現代文芸批評の根幹的なテクニカルタームであることなどを力説しても、「それは学問である」ということで考慮の他となった。「そんな人に自分の作品を批評してほしくない」という委員もいた。しかしこの本はそうしたレベルで退けられるべきものではなく、たとえ狭く文芸のレべルに限ってもわれわれの作品などどうでもよいくらいの、ことは最高水準の現代文学にかかわってくる問題でもある。選考委員は学者でもなければ評論家でもないのだから、難解な理論を隅から隅まで理解する必要はなく、せめて志の高さだけでも感じてくれたらと思ったが、それすら理解して貰えなかったことは返すがえすも残念であった。しかしまあ、選考委員に評論家がひとりもいないのでは望みはないなと予測していたことでもあった。こういう本を取りあげ、すくい上げる場、少なくとも議論を交わせる場がないということもまた早急に考慮すべき大きな問題ではないだろうか。
小林恭二しかり、柳美里しかり、町田康しかり、いずれも最初おれが推して賛同して貰えなかった人である。その後評価が定まり、傑作を書いてから賞を与えるというのでは、新人賞とは言えないのではないか。浅田彰が「『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなった」と言うように、この東浩紀もいずれは柄谷、浅田を越す人であることは火を見るよりもあきらかなのだ。
小説では辻征夫「ぼくたちの(俎板のような)拳銃」を推した。子供たちの群像を、短い章立てでそれぞれの交流を描くことによって最後に全体像をぼんやり浮かびあがらせるという、まるで構造主義理論を援用したかのような手法で書かれたこの作品は、ありきたりのストーリイ展開や所謂文学的描写に食傷している者、登場人物リストなどを作って作品世界へ知的に参加したい読者にとっては実に快楽的な作品であった。これも「断片の寄せ集めである」「こういう構成をするのは文章力がないからである」という誤解を受けて賛同を得られなかった。
「おぱらばん」の堀江敏幸は、年齢のわりにくだけた奥深い文章を書ける人であり、過去の経歴から見ても文学からサブ・カルチュアまで幅広い目配りの効く人である。これをおれはパリの下町に滞在していた時代の作者のエッセイとして読んだが、おそらく小説も書ける人であろうし、いろんなジャンルの文化についても確かな文章を書ける人であろう。ただ三島賞候補作としてやや薄味に思えるのは、各章が似たパターンで書かれているからだ。他の委員もみな「軽い」という感想を洩らしていたし、だから今回、二作受賞となったのはそのせいである。
鈴木清剛「ロックンロールミシン」が辛うじて文学になっているのは、ファッション業界を舞台にしているからだ。これが料理だの芸事だのスポーツだのであったなら芸道ものやスポコンものの一種であり、エンターテインメントと看做されたであろうし、そういう作品でこのレベルに達しているものも多い。ただ、たまたま今まで「仕事」を曲りなりにも文学的に描いた作品がなかったための受賞であったことを、作者は心にとどめておいてほしい。
青野聰アオノ・ソウ
選評
「おぱらばん」は一五の短編からなっている。「あとがき」と読めないこともない最後の一編をのぞいて、すべてフランスが舞台である。小説とおもって読むと、小説という生き物の気配が薄い。ものたりなさを、知への傾きを真っ正直にさらす作者の声が、なにごとかを物語ろうとするサービス精神とむすびついて、しっかりした日本語の文章を生みだして補う。起伏がある。リズムに変化がある。エッセーの面白みもあった。といってエッセーとするには、つくりものの手つきがみえすぎる。虚構に羽ばたこうとして着地と浮遊をくりかえす走りぶりである。技巧をこらさないことには満足できない作者の、手癖のようなものかもしれない。つまりは小説でもエッセーでもない、したがって小説でもエッセーでもある、この人にしか書けない散文ということだ。パリにいて書いているスタイルをとりながら、パリを散文的に……通俗的にという意味で……書かないところがいい。作者はどんな高尚な主題を探究していようが身体は「通俗」であることを知っている。知への傾きが大きくなって、頭でっかちならそのまま逆さまになってばたばたするところを、読み手にはバランスがよくとれているとみえるのは、随所に書き手の身体があらわれて機能しているからである。題名を当世流行りのカタカナで「オゥパラバン」としないで平仮名にしたところにも、帰るべき地点としての身体を感じさせて安心できる。
若くて健康的な「ロックンロールミシン」は読み通すのに時間がかからない。読み落としはしていないと確信できる。フラットで、手に重みがのこらない。気のきいた文章をところどころ配置しないといけないという「思いこみ」がない。才気はそんなふうにしてだすものではないと、わきまえているのだろう。さっぱりしているところに好感をもつ。もうひとつ。若い人の書きはじめの時期、どのような世界が小説の場として選ばれているか。ざっとみわたすと、子供時代、家庭内、冒険、育児、男女のこと、余暇の出来事、または霊的な異界といったことがすぐにうかぶ。そのなかに、女性作家の登場がめざましいということもあって、仕事の現場、というのはない。これはアルバイトで奇妙な仕事をしたというのとも違って、若者が集まって自分たちの服をつくっていくという、そこでの空気と人間模様を書いていて、真剣である。登場人物はみな働いている。ここには「今」がある。時代の肌と接して歯車の刻みをつけていこうとする、まともな自分の立て方がある。個性のある人間たちがきちんといる。そうではない都会小説、「働くことの喜び」がどこにも書かれていない小説が多いなかで新鮮である。作中「同じ人種で、まして同世代を生きる者同士で、性別以外に種類などあるはずもない。けれど確実に、人間には種類がある」と主人公はおもう。ここでいう意味でなら、もっともっといろんな種類の人間がいる。作者には社会と向きあう角度を、受賞したからといって変えたりせずに、人種をふくめ、異なった種類の人間たちを肉眼でみることができる日常の過ごし方を、いましばらくのあいだしてもらいたいとおもう。文筆業に専念するのなんて、あとでいい。とくにカッコウイイことではないのだから。
「ぼくたちの(俎板のような)拳銃」は切り取った断片を配置した、その造形が目立つ。ロクロ台に子供時代をのせて土台をつくって、そこから一本の塔をうえに引き伸ばすというやり方。工芸ならそれなりに形になる。文芸となると、そうはいかない。ノスタルジアの霧がたちこめていることを、作者は知らないのか、みとめたくないのか。体力不足を感じさせるこの書き方は中途半端。方法への意識を読みとることができない。そこがいい、とはいいがたい。
「存在論的、郵便的」についておもうのは、このような哲学的、あるいは思索の書を正しく評価して、文学賞のような華やかさで迎えるイベントがないことである。フランスの脱構築の論客を扱ったこの論文は、まずもって文章がひどい、の一語でかたづけられたって仕方がない文学賞の場で扱う対象ではない。与えられた期間内で、ここでとりあげられているデリダの翻訳された著作を読むのは不可能である。しかも翻訳されていない、翻訳不能といわれているテクストにも言及しているのだから。翻訳されていないテクストについて論じられたものについて、なにをいえるというのだろう。「カバラ」や「フィネガンズ・ウェイク」に触れた文章を読むたびに経験してきた判断留保の白々しさ、もどかしさ。同じだが文章の難解さはそれ以上である。これをわかりやすく書いたら何倍ものボリュームになると発言した委員がいた。はたしてそうか。デリダ研究者たちのあいだで、きちんと評価されることを期待する。
宮本輝ミヤモト・テル
「足りないもの」を埋める世界
私たちの視力や、それに伴なう知力は、およそ自分たちの範囲内でしか働くものではない。自分の世界や価値観の掌から外へは出られない。それが人間というものの「業」でもある。
だが、その目の届く領域を少し拡げて行くと、ピン・ポイントのようだった小さな世界の周囲に、その何十倍もの複雑な他者と世界とが、いやでも視野に入って来る。
この十数年、私は多くの文学賞の候補作を読み、自分のことは棚にあげて、「何かが足りない」と言いつづけてきた。その「足りないもの」が何かを具体的に論じなければと思いながらも、それは私にあっては、できない相談、もしくは、言葉にすることが不可能な何かだった。
今回、三島賞の候補作六篇を読んで、私はなんだか少しわかったような気がした。
新しい書き手に対して、私が何を「足りない」と思っているのかが、ほんの少し言葉にできそうな気がしたのである。
それは、じつに単純で簡単なことであった。書き手の「世界」があまりに小さいのだ。書き手の「視力」があまりに一点に集中しすぎているのだ。生きている「土俵」が狭いのだ。だから、見えない部分を見ようとせず、自分の価値観以外のものには背を向け過ぎて、逆に自分が見ているものさえも見えなくなってしまっているのだ。
つまり、書き手そのものが、自分を取り巻く世界に対して狭量になりすぎて、創造のフレキシビリティを喪ってしまっている、ということになる。
自分を取り巻くさまざまな事象に、もっと門戸を開き、自分の価値観だけがすべてではないという位置に立てば、新しい書き手の可能性は拡がっていくはずだが、悲しいことに、何かにつけて狭量なのが、この日本そのもののシステムでもある。
だが、小説に限らず、芸術の魅力の根幹を為すのは、創り手の、人間としてのさまざまな意味での豊かさであるという当たり前の基本に立ち帰る時期が来ていると思う。技術は、あとからついて来る。
まあ、えらそうなご託はこのへんにして、今回の候補作について思ったことを書くことにしよう。
受賞作となった二篇のうち堀江敏幸氏の「おぱらばん」を私は推した。少々臆しながら推したというほうが正しい。委員の何人かは、これは小説ではなくエッセイだと評したが、私は小説として読んだ。
パリに住む異邦人のよるべない日々を、微細なディティールの積み重ねで描いている。そのディティールの配し方は、丹念に木を植える作業を髣髴(ほうふつ)させる。それなのに、読み終えて、林も森も見えてこない。冷え涸れた空地だけがある。
そこのところが評価のわかれる点だが、私は作者の意図を感じた。意図的に木を植えて、意図的にそれらが残らないようにしたとしたら、なかなかの手練と思う。
鈴木清剛氏の「ロックンロールミシン」に、私は最初高い点をつけなかった。よくある昨今の小説という範疇から出ていない気がしたからだが、「働く」ということを小説にして、しかも全体に健全なものを感じるという石原、青野両委員の推選の弁には説得力があった。
そう言われてみると、私が最初に書いた「価値観」や「土俵」のところで、鈴木氏は年齢に比してフレキシブルな気がした。いろんな部分で、まだまだ稚拙なところはあるが、春秋に富んでいる。
東浩紀氏の「存在論的、郵便的」は、私にはよくわからなかった。筒井委員の強い推選の言葉は傾聴に値するものだったが、評論ではなく難しい学術的論文を読んだという思いは消えなかった。
大塚銀悦氏の「久遠」は、もうその文章に鼻持ちならないアナクロニズムを感じる。これみよがしに歌っている。自分ひとり、いい気持なのであろう。小説のふりをした演説に近い。
辻征夫氏の「ぼくたちの(俎板のような)拳銃」は、最初の章だけに魅かれたが、だんだん悪くなっていって、最後は退屈した。とりわけ終わりの八行にはうんざりした。何か詩的な一行だけがあって、作者はそれに触発されて延々と書きつづったという印象を持った。
さて、赤坂真理氏の「ヴァニーユ」であるが、このひりつく皮膚感覚、音や声に対する病的なこだわりは、いったいどうしたらもう少し確固たる小説世界を創りだせるのであろうか。赤坂氏は、いささか急ぎすぎているのではないかという気がしてならない。何も焦ることはない。この独自な感覚世界を「寝かせる」時間が必要だと思う。そうすれば、氏の世界が広くなるのだ。ピン・ポイントの神経が自然に語り始める時間を持つことが大切だという気がする。
選考委員
過去の受賞作品
- みどりいせき
- 植物少女
- 旅する練習