第3回 新潮エンターテインメント大賞
主催:フジテレビ・新潮社 発表誌:「小説新潮」
第3回 新潮エンターテインメント大賞 受賞作品
月のころはさらなり
第3回 新潮エンターテインメント大賞 候補作品
月のころはさらなり | 井口ひろみ | |
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砂漠に散る白い花 | 佐藤カナリア | |
天然オヤジ記念物 江戸前不始末 | 魚住陽向 |
選評
宮部みゆきミヤベ・ミユキ
「物語る」ために
選考委員は作家が一人きり。しかも毎年交代してゆくという、他にはないユニークなシステムで運営されている新潮エンターテインメント大賞。第一回の石田衣良さん、第二回の浅田次郎さんに続き、第三回はわたくし宮部が選考委員を務めました。実を申しますと、昨年の浅田さんの苦渋のにじむ選評を拝読した時点で、第三回もこんな感じだったらどうしようかと、気の小さい私はあれこれ心配を始めていました。浅田さんとは、二つの文学賞で選考委員をご一緒しておりまして、その明晰かつ誠実、熱意ある選考姿勢を多々リスペクトしている私ですので(ホントですよ浅田さん)、
「あの浅田さんがこれほど厳しいことをお書きになるとは……」
と、前途に暗雲を見てしまったのです。
一方で、ここ数年、投稿の新人賞最終候補作品が、きれいにまとまってはいるのだけれど、何となく既視感があり、さらにテーマが似たりよったりになっている——という危機感もありました。まだ、ごく限られた新人賞選考経験しか持ち合わせていない私の思い過ごしかと、折をみて各社の担当編集さんにも伺ってみますと、打てば響くように似たような感想が返ってくることで、ああやっぱりと、懸念を深めておりました。
(ところが本年の投稿新人賞では、そういう傾向が影をひそめてるんですよ。転換点がきたようです。が、この拙文はこれまでの傾向を踏まえて書いておりますので、ご理解を願います。これだから小説は生き物だっていうんですね)。
さて、お話を戻しまして。
この「似たりよったり」のテーマには、さらに共通点があります。よく言えば、日常に密着している。悪く言えば、日常から一歩も外へ出ることができない。その“日常”も、作者の代弁者たる主人公の、両手を広げた範囲内でしかないということです。愛も友情も挫折も希望も生も死もトラウマも、すべて主人公の(つまり作者の)知っている範囲内に収まるもので、それ以外の人生、それ以外の人間に対する想像力が——けっして欠けているはずはないのに、どうやらスイッチを入れられることがないまま眠っているのではないかと、感じざるを得ないのです。
と、ここまで書いて、私の方がずっと厳しいじゃないかと気がつきました。まことに申し訳ございません。
ただ、せっかくの貴重な一人選考委員の機会ですから、この際、書きたいことを書かせていただきます。
エンタメ(という表現は実を言うとあんまりピンとこないので)——つまり娯楽小説は、読者が存在しなければ成立しない文芸です。作者には、自分の書いた作品を、どこのどんな人が読んでくれるかわかりません。選ぶこともできません。作者と似た境遇、似た考え方の人もいるでしょうし、まったく違う人生を歩んでいる人の場合もあるでしょう。
ですから、作者が“共感”だけを求めていては、どれほど旺盛な創作意欲を持っていても、早晩、行き詰まります。もっと言うなら、少なくとも娯楽小説の職業作家を目指すならば、“共感”だけで勝負してはいけない。「いけない」という強い言葉を使うのは、それじゃうまくいかないよ、と言いたいからではありません。それで成功する場合も大いにあります。とりわけ昨今は社会全体が個人志向ですから、ピンポイントで上手にある年代、あるグループの“共感”をキャッチすることができれば、むしろ最短距離で成功する可能性の方が高いくらいです。
が、それはじわじわと作者の心を削ります。鶴が自分の羽根を抜いて反物を織るのと同じだからです。作者の心が痩せれば、作品も痩せていきます。だから行き詰まると、私は申し上げたいのです。
共感や実感と共に作品を支え、走らせることのできる、もうひとつの車輪。それは、「物語る」ことへの強い欲望だと、私は考えています。「物語る」のは常に他者に向き合う行為であり、そうである以上、必ず想像力の駆動を必要とします。同時に、「伝える」技術を磨くことを、作者に要求します。
本年の受賞作『月のころはさらなり』に、私はほぼ満点をつけました。最終候補作三作のうち、この作品、この作者が、もっとも自然に、当たり前のように“物語って”いたからです。そのためにはどうすればいいのか、どういう表現を選び、どこでどう手札を開けて、読者をストーリーのなかに誘導していけばいいのか、冷静に考えていました。何より、凡手でしたらためらいなく主人公・悟の一人称で書いてしまうこの作品(もしかしたらその方が小洒落れて今風に仕上がるかもしれないのに)を、作者の意志で舵を切って、悟の一人称的三人称という、絶妙な視点で書き始めた時点で、この作品の成功は約束されていました。
『月のころはさらなり』は、外部と内部の両方が存在していて初めて成り立つお話ですから、「報告者兼経験者・悟」の視点だけでは、「内」の比重が高くなり、話はひたすら内向するばかりです。それでは自分の書きたいものは書けない、自分の物語りたい世界は逃げてしまうと、作者の井口ひろみさんには、わかっていたのでしょう。作品も充分に素晴らしいものですが、この勘と判断力もまた、登竜門の文学賞にふさわしいものだと思いました。誤解のないよう申し添えますが、私はこの勘と判断力を、「才能」だとは思いません。地道な経験値の積み重ねによる、井口さんのスキルだと思います。だからこそ拍手を贈ります。
事実上の次点となった『砂漠に散る白い花』は、ストーリーも語りも野心的で、非常に魅力的な作品でした。“内”向きの物語で、ほとんど“外”がないのは気になるけれど、でもこの描写力だし、ある程度の改稿を条件に、二作受賞でもいいかなと迷ったほどです。百人の読者に、百枚の違う“絵”を見せることのできる筆力ですから。
が、これには主催者の新潮社さんから待ったがかかりました。そんなふうに焦らずに、じっくり見守りたいというご意向です。確かに、永い目で見たらその方がいいんですよ!
私こそ、選考委員としての妙な色気に踏み迷っていました。
佐藤カナリアさん、いつか、宮部に「いや、今回は授賞を待ってください」と提言した編集者さんを、あっと言わせてあげてください。私も楽しみに待っています。
三作目の『天然オヤジ記念物 江戸前不始末』には、そうですね、歳も近いし、ここはちょっと茶飲み話気分で、
「あのネ、“外”ばっかりでも、物語は成り立たないって思わない?」
と申し上げましょう。作者のサービス精神が旺盛過ぎて、安心して物語にひたることができず、次々と繰り出されるギャグやコントに、私は目が回りそうでした。そんなに息せき切って頑張らないでと、痛々しささえ感じたことも白状しておきましょう。
この先は余計なお節介ですから、「フン!」と読み流していただいて結構です。魚住さん、いっぺん、誰にも見せず投稿もせずに、ご自分のためだけに、何か書いてみてはいかがでしょうか。ストーリーのつじつまを気にせず、文章にも気をつかう必要はありません。ただ自分のために書くのです。そうすると気持ちの整理がついて、今度こそ本当に、“外”へ向かって書くことが楽しくなるのではないかと、勝手な感想ですが、私は思いました。
一人選考委員の距離感の近さに、失礼な選評になったかもしれません。なってるなぁ(汗)。すみません、すみません。
当然のことながら、読み手が替われば評価も変わります。ですから、佐藤さんと魚住さんは、私にオトされたからって、諦めてはいけません。井口さんは、これから大変ですよ。編集さんたちが手ぐすねひいて待ってますからね。身体に気をつけて、頑張ってください。
第三回の三つの候補作から、得難いエネルギーをいただきました。選考会を終えても、なかなか興奮がおさまりませんでした。御礼を申し上げて、しめくくりとします。
素晴らしく刺激的な作品を、ありがとう!
選考委員
過去の受賞作品
- 白い夢※「紅葉街駅前自殺センター」に改題
- 虹の切れはし※「ゴールデンラッキービートルの伝説」に改題
- 花園のサル※「女子芸人」に改題
- ベンハムの独楽