明治の冒険科学者たち―新天地・台湾にかけた夢―
770円(税込)
発売日:2005/03/17
- 新書
- 電子書籍あり
明治秘史発掘! 野心と探求心に燃えた若者の成功と挫折。
日清戦争の勝利で獲得した悲願の植民地・台湾。当初、台湾統治のために一線級の若きエリート官吏が送り込まれる一方で、未知の島・台湾に滾るような野心と探求心を抱いて乗り込んだ若き科学者たちがいた。柳田國男に多大な影響を与えた「台湾学の祖」伊能嘉矩。ジャングルを切り開きアジア屈指の熱帯植物園を開いた田代安定。原住民の生活を丹念な記録と写真に残した森丑之助。最も早く台湾に渡り、最も困難な状況で台湾と格闘した三人の日本人の波乱の生涯を描く。
目次
序 章 海路、台湾へ!
第一章 台湾に科学の光を当てた─伊能嘉矩
寄宿舎騒動
遠野の天童
餞は南部駒
人類学との出会い
日清戦争の勃発
台湾通信
ゲリラの襲撃
全島踏査
残された旅日記
原住民少女アイの死
キヨとの結婚
大阪博覧会
学位の審査
柳田國男との出会い
さらば台湾
板澤武雄の恩
マラリアの再発
甘棠の愛
遠野の天童
餞は南部駒
人類学との出会い
日清戦争の勃発
台湾通信
ゲリラの襲撃
全島踏査
残された旅日記
原住民少女アイの死
キヨとの結婚
大阪博覧会
学位の審査
柳田國男との出会い
さらば台湾
板澤武雄の恩
マラリアの再発
甘棠の愛
第二章 時勢を駆け抜けた反骨の植物学者─田代安定
維新揺籃の町
東洋一のコンビナート
キニーネの栽培
ロシア留学
八重山大調査
挫折した改革案
結縄とミヤコショウビン
前途有望の宝島
軍刀背に一番乗り
民政局殖産部雇員
台湾最南端「恒春」
ジャングルのなかの植物園
笹森儀助との交錯
愛妻の死
博士にする位なら罷める
台北に建った記念碑
遅れてきた志士
東洋一のコンビナート
キニーネの栽培
ロシア留学
八重山大調査
挫折した改革案
結縄とミヤコショウビン
前途有望の宝島
軍刀背に一番乗り
民政局殖産部雇員
台湾最南端「恒春」
ジャングルのなかの植物園
笹森儀助との交錯
愛妻の死
博士にする位なら罷める
台北に建った記念碑
遅れてきた志士
第三章 「蕃人」に一生を捧げた人類学者─森丑之助
内台航路「笠戸丸」
幻の人類学者
京都から長崎へ
誠の一字
中央山脈横断
鳥居龍蔵との出会い
伊能嘉矩との葛藤
龍子の入籍
「タロコ討伐」
私の悪魔主義
佐藤春夫の来台
消えた丑之助
夢見た「蕃人の楽園」
富美の風呂敷包み
幻の人類学者
京都から長崎へ
誠の一字
中央山脈横断
鳥居龍蔵との出会い
伊能嘉矩との葛藤
龍子の入籍
「タロコ討伐」
私の悪魔主義
佐藤春夫の来台
消えた丑之助
夢見た「蕃人の楽園」
富美の風呂敷包み
終 章 明治という時代に生きた冒険科学者たち
あとがき
参考文献
年表
索引
参考文献
年表
索引
書誌情報
読み仮名 | メイジノボウケンカガクシャタチシンテンチタイワンニカケタユメ |
---|---|
シリーズ名 | 新潮新書 |
発行形態 | 新書、電子書籍 |
判型 | 新潮新書 |
頁数 | 224ページ |
ISBN | 978-4-10-610108-3 |
C-CODE | 0223 |
整理番号 | 108 |
ジャンル | ノンフィクション、日本史 |
定価 | 770円 |
電子書籍 価格 | 660円 |
電子書籍 配信開始日 | 2012/08/31 |
インタビュー/対談/エッセイ
波 2005年4月号より 台湾原住民と日本人の不思議な縁 柳本通彦 『明治の冒険科学者たち ―新天地・台湾にかけた夢―』
「冒険科学者」という言葉をヒントに、台湾領有(明治二十八年)後もっとも早期に未開の山地に分け入り、生涯をかけて台湾研究に邁進した日本人科学者たちの夢と挫折に迫ろうとしたのが本書である。
当時、台湾の山地は首狩りの風習をもつ原住民が生態系の頂点に君臨していた。調査や研究は困難を極めるが、彼らは次第に山に住む人々との間に友情を紡いでいく。
しかし、日本人と台湾原住民の交流は、その後決して平穏には展開しなかった。大半の集落が日本の支配に服するのに二十余年の時間を要したし、そのあとも凄惨な抗日事件がやまなかった。そして、働ける男という男を南洋の激戦地に狩り出した太平洋戦争がエピローグとなる。牡丹社事件以来双方の七十余年にわたる遭遇の歴史は、血に彩られているといってよい。
なのに、である。どうして、台湾原住民のお年寄りは、私たちをかくも温かく迎えてくださるのか。私のひっかかりは、その一点にあった。
日本留学の経験がある台湾人研究者が台湾原住民の村に調査に入った。当然のことながら「台湾国語」=北京語で取材を続けていたのだが、仕事も終盤になった頃に、老婆の背にふと日本語がついて出た。途端にその年寄りの目が輝き、「あんた、ニッポン語が話せるの?」と、打って変わった笑顔になって、仕事が一気にはかどったという。
一九九九年九月、台湾中部の山岳地帯を襲った大地震。孤立した集落にヘリが投下した物資に「日本」と印字された袋を見つけた元日本兵の老人は、「ニッポンは我々を見捨てていなかった」と抱きついて泣いた。私がこの間、台湾原住民にこだわり、台湾となかなか縁が切れないでいるのは、台湾原住民と日本人とのこの「不思議な縁」と対峙し続けているからにほかならない。
私に原住民と呼ばれる人達に対する文化人類学的関心があったわけではない。が、必要上、先人が残した数々の著作の一端を参考にさせていただき、ものを書いてきた。そして、その過程で、原住民研究の歴史を垣間見ることになった。
私のような門外漢は、築かれている城のおいしい部分をつまみ食いしているに過ぎないのであるが、実は明治維新後まもなく、身を投じてその城の石垣を築いた人達がいたことを知り、またその人達の名前が忘れ去られ、その業績が学界でほとんど顧みられることがないことに気づくにつれ、いたたまれない気持になっていったのである。
彼らは、この間、何も言わずに地底に眠り続けている。なんと慎ましい人たちであるのか。私は、次のひと言を彼らに伝えられれば、それで本書の目的は達したと思っている。
「長い間、お疲れ様でした。あなた方が残した記録や報告書は次々に中国語訳され、いまは台湾の若者がその成果を受け継いでいますよ」と。
当時、台湾の山地は首狩りの風習をもつ原住民が生態系の頂点に君臨していた。調査や研究は困難を極めるが、彼らは次第に山に住む人々との間に友情を紡いでいく。
しかし、日本人と台湾原住民の交流は、その後決して平穏には展開しなかった。大半の集落が日本の支配に服するのに二十余年の時間を要したし、そのあとも凄惨な抗日事件がやまなかった。そして、働ける男という男を南洋の激戦地に狩り出した太平洋戦争がエピローグとなる。牡丹社事件以来双方の七十余年にわたる遭遇の歴史は、血に彩られているといってよい。
なのに、である。どうして、台湾原住民のお年寄りは、私たちをかくも温かく迎えてくださるのか。私のひっかかりは、その一点にあった。
日本留学の経験がある台湾人研究者が台湾原住民の村に調査に入った。当然のことながら「台湾国語」=北京語で取材を続けていたのだが、仕事も終盤になった頃に、老婆の背にふと日本語がついて出た。途端にその年寄りの目が輝き、「あんた、ニッポン語が話せるの?」と、打って変わった笑顔になって、仕事が一気にはかどったという。
一九九九年九月、台湾中部の山岳地帯を襲った大地震。孤立した集落にヘリが投下した物資に「日本」と印字された袋を見つけた元日本兵の老人は、「ニッポンは我々を見捨てていなかった」と抱きついて泣いた。私がこの間、台湾原住民にこだわり、台湾となかなか縁が切れないでいるのは、台湾原住民と日本人とのこの「不思議な縁」と対峙し続けているからにほかならない。
私に原住民と呼ばれる人達に対する文化人類学的関心があったわけではない。が、必要上、先人が残した数々の著作の一端を参考にさせていただき、ものを書いてきた。そして、その過程で、原住民研究の歴史を垣間見ることになった。
私のような門外漢は、築かれている城のおいしい部分をつまみ食いしているに過ぎないのであるが、実は明治維新後まもなく、身を投じてその城の石垣を築いた人達がいたことを知り、またその人達の名前が忘れ去られ、その業績が学界でほとんど顧みられることがないことに気づくにつれ、いたたまれない気持になっていったのである。
彼らは、この間、何も言わずに地底に眠り続けている。なんと慎ましい人たちであるのか。私は、次のひと言を彼らに伝えられれば、それで本書の目的は達したと思っている。
「長い間、お疲れ様でした。あなた方が残した記録や報告書は次々に中国語訳され、いまは台湾の若者がその成果を受け継いでいますよ」と。
(やなぎもと・みちひこ ノンフィクション作家)
蘊蓄倉庫
「研究」が「探険」や「冒険」と同義だったころ
1895(明治28)年、日本は日清戦争に勝利し、台湾を奪取しました。明治維新から28年、近代国家への階段を駆け上がってきた日本にとっては、悲願の植民地でした。
明治政府は、台湾統治を成功させるために、後藤新平、新渡戸稲造などの一線級の若き官吏を送り込みますが、それとほぼ同時期に、若き科学者たちも台湾に渡っていました。数多の科学者が探求心や好奇心、そして、野心を胸に、未知の島を目指しました。
当時の台湾には、大陸から渡来した漢人だけでなく、原住民も数多く、中には、首狩りの風習を残している部族もいました。毒蛇にマラリア、余所者の侵入を頑なに拒む原住民……。彼らは命の保障のない山中を踏査し、台湾を知り尽くそうとしたのです。
本書で紹介するのは、伊能嘉矩、田代安定、森丑之助の三人です。今では、名前すら聞いたことのない人がほとんどかもしれません。現在、彼らの研究の成果は、現在の台湾研究の基礎として貴重な財産となっています。彼らは、「研究」が「探険」や「冒険」と同義であった時代、もっとも困難な状況で台湾と格闘したのです。
1895(明治28)年、日本は日清戦争に勝利し、台湾を奪取しました。明治維新から28年、近代国家への階段を駆け上がってきた日本にとっては、悲願の植民地でした。
明治政府は、台湾統治を成功させるために、後藤新平、新渡戸稲造などの一線級の若き官吏を送り込みますが、それとほぼ同時期に、若き科学者たちも台湾に渡っていました。数多の科学者が探求心や好奇心、そして、野心を胸に、未知の島を目指しました。
当時の台湾には、大陸から渡来した漢人だけでなく、原住民も数多く、中には、首狩りの風習を残している部族もいました。毒蛇にマラリア、余所者の侵入を頑なに拒む原住民……。彼らは命の保障のない山中を踏査し、台湾を知り尽くそうとしたのです。
本書で紹介するのは、伊能嘉矩、田代安定、森丑之助の三人です。今では、名前すら聞いたことのない人がほとんどかもしれません。現在、彼らの研究の成果は、現在の台湾研究の基礎として貴重な財産となっています。彼らは、「研究」が「探険」や「冒険」と同義であった時代、もっとも困難な状況で台湾と格闘したのです。
掲載:2005年3月25日
著者プロフィール
柳本通彦
ヤナギモト・ミチヒコ
1953(昭和28)年京都市生まれ。ノンフィクション作家。アジアプレス台北代表。台湾を拠点に、台湾史発掘を続ける一方、沖縄・中国に視野を拡げた多角的なレポートも発信。著書に『台湾・霧社に生きる』『台湾革命』など。映像作品に『私は日本のために戦った』など。
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