本格小説[上]
1,980円(税込)
発売日:2002/09/27
- 書籍
『嵐が丘』の燃え上がる愛の世界が現代に蘇る。今、小説の真の力が鮮やかに華開く!
ある夜、作家の私に奇跡の物語が授けられた。米国での少女時代に出逢った男の、まるで小説のような人生の物語。それが今から貴方の読む『本格小説』。軽井沢に芽生え、国境を超えて育まれた「この世ではならぬ恋」が身を切るような悲哀を帯びる。脈々と流れる血族史が戦後日本の肖像を描く。著者七年振りの最新作は超恋愛小説!
書誌情報
読み仮名 | ホンカクショウセツ1 |
---|---|
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 472ページ |
ISBN | 978-4-10-407702-1 |
C-CODE | 0093 |
ジャンル | 文芸作品 |
定価 | 1,980円 |
インタビュー/対談/エッセイ
波 2002年10月号より 水村美苗『本格小説(上・下)』 〔特別インタビュー〕 水村美苗 『嵐が丘』の奇跡をもう一度
◆完成したら「死んでもいい!」
――前作『私小説from left to right』は横組み英語混じりの小説として話題になりましたが、あれから七年、ついに最新作『本格小説』が刊行されます。『私小説』完成時には「死んでもいい!」というカタルシスを感じられたそうですが。
それが今回も「死んでもいい!」と思ったの(笑)。これ以上はありえないような大きな達成感があります。今となっては、なんで前の作品でそう思えたのかが不思議。私は作家になったのが遅く、だらだらと無駄な人生を歩んできた、小説の執筆に役立たない捨て札ばかりの人生を歩んできた、とずっとそう思っていたんです。それが『本格小説』を書いているうちに、捨て札があれよあれよとすべて生き札となったの。大変な歓びがありました。
――『私小説』の次が『本格小説』。今回も、アメリカで文学理論を学んでおられた水村さんらしいタイトルですね。
どうも、えらそうなタイトルで(笑)。こんなの文学理論以前の問題でしょうが、かつて日本近代文学史の中では、私小説と本格小説とがずっと対立概念となっていたでしょう。それで、『私小説』を書いた直後から、それとセットになった作品を書きたい、と思っていました。でもね、『私小説』はご存じのように、私自身の経験が書かれていると同時に、ロマン・ア・テーズと言うか、現実的な問題意識の強い作品です。〈日本人が覇権国アメリカに移り住んだらどうなるか〉という問題意識ですね。横書きにしたり、英語を交えたりしていますが、小説の形式そのものが問題になっているわけではない。『本格小説』では、小説の形式そのものを問題にしたいという気持がありました。それが恋愛小説になったのは、恋愛小説は近代小説の王道でしょう。それゆえにあまりに陳腐になってしまった。だから、そこには現実的な問題意識など入りこむ余地がない。そのことが、かえって魅力でした。それとあと、恋愛への参加者であるのに興味がなくなる前に、ひとつ書いておこうかというのもあった。まあ、母なんかを見ていると一生興味が続くこともあるみたいですけど(笑)。
――軽井沢に別荘を持つ裕福な家庭に生まれた少女・よう子と浮浪児同然の少年・太郎の恋が軽井沢で芽生えますが、階級の格差と時の流れによって、いつしか二人は離れ離れになる。その後、成長した太郎がアメリカで経済的な大成功をおさめて、よう子の前に姿を現します。まさに戦後日本を舞台に描かれた『嵐が丘』というべきプロットで、よう子はキャサリン、太郎はヒースクリフです。
恋愛小説を書くのなら、『嵐が丘』のような小説を書きたいという気持はずっとあったんです。でも、そんなことをしていいのかどうかがわからなかった。それが、非西洋文学として西洋文学を〈模倣してきた〉という、日本近代文学の歴史をだんだんと意識するようになったんですね。なにしろ尾崎紅葉の『金色夜叉』も西洋にモデルがあることが最近発見されたりしている。それで、真似していい、というか、真似することに意味がある、といつのまにか、そう思えるようになりました。子供の頃は姉のシャーロット・ブロンテが書いた『ジェーン・エア』の方が好きだったの。でも二十代になって英語で読んだとき、『嵐が丘』が奇跡的な作品なのを理解しました。同時にあの構造の必然も理解した。『嵐が丘』がなぜ恋愛小説としてかくも成功しているか。それは語り手が恋人たちに批判的な距離をとっているからなんですね。ああいう語り手がいるからこそ、読者の感情を引っ張っていける。あの構造は『本格小説』の大きなモデルになりました。
――デビュー作『續明暗』で漱石の未完の遺作を書きついで以来、水村さんの作品はいずれもユニークな手法で描かれていますが、今回も、物語の冒頭に、「水村美苗」の一人称による文章が付されています。この作品は、「美苗」が偶然の出会いにより授かった「小説のような話」を記したものであるとのこと。これまた水村さんらしい仕掛けです。
最初はあの冒頭なしに、ふつうの小説のように書き始めたんです。でも、そうすると、ふつうの男の子がふつうに出てくるだけでしょう。今の小説の魅力のなさをモロに踏襲してしまっているような気がしてきて(笑)。これじゃあどうも魅力に欠ける。誰も読んでくれないんだろうと、そこで、私自身のアメリカでの話を冒頭にもってくることになりました。私小説的に始まれば、もっとずっと面白いでしょう。書いていても面白かった。同時に、あそこで「水村美苗」が出てしまえば、恋愛の部分は、いかなる意味においても私小説的に読むことはできない、まさに本格小説として読むことが強制されると、そんな構造にもなりました。
◆三角関係は理想の恋愛?
――太郎がよう子の前に再び出現したとき、よう子は幼馴染の雅之と結婚している。雅之は『嵐が丘』のエドガー役です。いったいどうなるのか、ハラハラしましたが、よう子を中心に、きわどく均衡を保った三角関係が誕生します。
私にとっての理想の恋愛を書いたら、そういうものになってしまって(笑)。いわゆる不倫小説では、ヒロインは、夫への貞節と恋人への情熱とのあいだに引き裂かれている。ローレンス・オリビエがヒースクリフを演じた映画版『嵐が丘』(一九三九年)がつまらないのは、原作を、そういうお行儀のいい物語の中に納めこんでしまっているからでしょう。ところが原作はそんなお行儀のいい物語ではない。夫か恋人か、つまり、あれかこれか、という物語ではなく、夫も恋人もという、あれもこれも、という欲深い物語なんですね。『本格小説』では、その『嵐が丘』の面白さをもっと理想的な形でくり返すことになりました。太郎ちゃんはたとえ不在であっても、よう子ちゃんと雅之ちゃんの関係に緊張をもたらし、二人は並の夫婦よりよほど仲がいいでしょう。太郎ちゃんが再登場したあとは、さらに緊張が高まり、二人はさらに仲よくなる。だいたい、一方で、すっごくハンサムでお金持な恋人がいて、他方で、すっごくハンサムでやさしい旦那さまがいたら最高じゃない(笑)。以前、女性の聴衆を相手に『本格小説』の構想を話したら、「そんないい話、想像もつかないから、何のリアリティもない」って言われちゃったけど(笑)。
――その願望は多くの女性に共通しているんでしょうか。
そういうの、男の人にとってイヤでしょう(笑)。なにしろ男はプロバイダー(扶養者)としての役割を課されている。だから男の富や社会的地位は、男の魅力そのものとして女の目に映る。それでいて打算を働かせずに最上の男を得るというのが女の夢なんです。女が他の女を軽蔑するとしたら、「ああ、打算的に結婚したな」ということがはっきり見える時だと思う。よう子ちゃんは打算を働かせずに、というより、まさに打算を働かさないことによって、最高のプロバイダーを二人も得るんですよね。
――確かに、よう子が太郎と雅之に寄せる思いには打算がありません。そして、男たちのよう子への愛情も同様です。
そう。でもあの二人は端から見るとちょっと異常ね(笑)。よく言えば、稀有な才能の持主たちです。俗世界で成功できる資質をもちながら、一生一人の女だけを一途に愛し続けることができるという、禁欲僧のような超俗的な精神をもった人たちですね。太郎ちゃんにおいては、彼の俗世界での出世欲は、よう子ちゃんへの愛とは矛盾せず、むしろ、よう子ちゃんへの純粋な思いの原動力となっている。それは『嵐が丘』のヒースクリフと同じだわね。でも雅之ちゃんはエドガーよりよほど超俗的です。
◆階級が書けない国の文学
――物語の主な舞台は戦後の軽井沢ですが、よう子ちゃんの母親の世代にあたるブルジョワ三姉妹が生き生きと描かれていました。それが作品の重要なナレーターである使用人の冨美子の貧しさとコントラストを成しています。
あのコントラストは出したかったの。英語で書かれた文芸に親しめば親しむほど、「コメディ・オヴ・マナース」と言われるものの伝統の強さに気づきます。人々が階層化されているという現実そのものを、おもしろおかしく描く伝統ですね。BBCの『アップステアーズ・ダウンステアーズ』――かつての有閑階級と女中さんたちの話ですが、それが英国のTVドラマシリーズの最高峰だと見なされ、くり返し放映されたりしています。階級の存在が否定されているアメリカでさえ、所得格差が生活様式に与える影響についての議論が日常的にあるし、人々が階層化されているという現実から目をそむけようとはしない。ところが日本はちがいます。日本の戦後世代は平等教育を徹底的に受けていて、それが輸入されたマルクシズムやら、昔からの農耕社会のモラルやらと重なって、日本の近代文学を呪縛している。人々が階層化されたところを描くとしたら、今なおそれは悪いこととしてしか描かれない。だから貧乏を描くことが、即、よい文学だという前提まである。漱石は中産階級を描いたから、中庸だというような議論まである。漱石は英文学に親しんでいたからこそ今の日本文学の中でも突出した存在なのに。とにかく、日本から消えつつある三姉妹のような存在は、文学に残しておきたいと思いました。
――最後に、今後の活動についてお聞かせください。これまでの作品には五年以上の歳月を費やされていますが。
それは幸い沢山書かなくても食べられるから。食べられさえすれば、自分の書きたいものを書きたい速さで書くのが理想的です。量産する能力もないけれど、そもそも量産する気がないの。次の本は、今まで書いた文学に関するエッセイをまとめて、いくつか書下ろしを加えたもの。その次は、昔ついていた日本舞踊の先生をめぐって日本文化論や芸術論を展開したものを、と思っています。小説は書くとしたらそのあとかなあ。でも、あんまりのんびりしてると、担当編集者がみんな引退しちゃうわね(笑)。
▼水村美苗『本格小説(上・下)』は、発売中
――前作『私小説from left to right』は横組み英語混じりの小説として話題になりましたが、あれから七年、ついに最新作『本格小説』が刊行されます。『私小説』完成時には「死んでもいい!」というカタルシスを感じられたそうですが。
それが今回も「死んでもいい!」と思ったの(笑)。これ以上はありえないような大きな達成感があります。今となっては、なんで前の作品でそう思えたのかが不思議。私は作家になったのが遅く、だらだらと無駄な人生を歩んできた、小説の執筆に役立たない捨て札ばかりの人生を歩んできた、とずっとそう思っていたんです。それが『本格小説』を書いているうちに、捨て札があれよあれよとすべて生き札となったの。大変な歓びがありました。
――『私小説』の次が『本格小説』。今回も、アメリカで文学理論を学んでおられた水村さんらしいタイトルですね。
どうも、えらそうなタイトルで(笑)。こんなの文学理論以前の問題でしょうが、かつて日本近代文学史の中では、私小説と本格小説とがずっと対立概念となっていたでしょう。それで、『私小説』を書いた直後から、それとセットになった作品を書きたい、と思っていました。でもね、『私小説』はご存じのように、私自身の経験が書かれていると同時に、ロマン・ア・テーズと言うか、現実的な問題意識の強い作品です。〈日本人が覇権国アメリカに移り住んだらどうなるか〉という問題意識ですね。横書きにしたり、英語を交えたりしていますが、小説の形式そのものが問題になっているわけではない。『本格小説』では、小説の形式そのものを問題にしたいという気持がありました。それが恋愛小説になったのは、恋愛小説は近代小説の王道でしょう。それゆえにあまりに陳腐になってしまった。だから、そこには現実的な問題意識など入りこむ余地がない。そのことが、かえって魅力でした。それとあと、恋愛への参加者であるのに興味がなくなる前に、ひとつ書いておこうかというのもあった。まあ、母なんかを見ていると一生興味が続くこともあるみたいですけど(笑)。
――軽井沢に別荘を持つ裕福な家庭に生まれた少女・よう子と浮浪児同然の少年・太郎の恋が軽井沢で芽生えますが、階級の格差と時の流れによって、いつしか二人は離れ離れになる。その後、成長した太郎がアメリカで経済的な大成功をおさめて、よう子の前に姿を現します。まさに戦後日本を舞台に描かれた『嵐が丘』というべきプロットで、よう子はキャサリン、太郎はヒースクリフです。
恋愛小説を書くのなら、『嵐が丘』のような小説を書きたいという気持はずっとあったんです。でも、そんなことをしていいのかどうかがわからなかった。それが、非西洋文学として西洋文学を〈模倣してきた〉という、日本近代文学の歴史をだんだんと意識するようになったんですね。なにしろ尾崎紅葉の『金色夜叉』も西洋にモデルがあることが最近発見されたりしている。それで、真似していい、というか、真似することに意味がある、といつのまにか、そう思えるようになりました。子供の頃は姉のシャーロット・ブロンテが書いた『ジェーン・エア』の方が好きだったの。でも二十代になって英語で読んだとき、『嵐が丘』が奇跡的な作品なのを理解しました。同時にあの構造の必然も理解した。『嵐が丘』がなぜ恋愛小説としてかくも成功しているか。それは語り手が恋人たちに批判的な距離をとっているからなんですね。ああいう語り手がいるからこそ、読者の感情を引っ張っていける。あの構造は『本格小説』の大きなモデルになりました。
――デビュー作『續明暗』で漱石の未完の遺作を書きついで以来、水村さんの作品はいずれもユニークな手法で描かれていますが、今回も、物語の冒頭に、「水村美苗」の一人称による文章が付されています。この作品は、「美苗」が偶然の出会いにより授かった「小説のような話」を記したものであるとのこと。これまた水村さんらしい仕掛けです。
最初はあの冒頭なしに、ふつうの小説のように書き始めたんです。でも、そうすると、ふつうの男の子がふつうに出てくるだけでしょう。今の小説の魅力のなさをモロに踏襲してしまっているような気がしてきて(笑)。これじゃあどうも魅力に欠ける。誰も読んでくれないんだろうと、そこで、私自身のアメリカでの話を冒頭にもってくることになりました。私小説的に始まれば、もっとずっと面白いでしょう。書いていても面白かった。同時に、あそこで「水村美苗」が出てしまえば、恋愛の部分は、いかなる意味においても私小説的に読むことはできない、まさに本格小説として読むことが強制されると、そんな構造にもなりました。
◆三角関係は理想の恋愛?
――太郎がよう子の前に再び出現したとき、よう子は幼馴染の雅之と結婚している。雅之は『嵐が丘』のエドガー役です。いったいどうなるのか、ハラハラしましたが、よう子を中心に、きわどく均衡を保った三角関係が誕生します。
私にとっての理想の恋愛を書いたら、そういうものになってしまって(笑)。いわゆる不倫小説では、ヒロインは、夫への貞節と恋人への情熱とのあいだに引き裂かれている。ローレンス・オリビエがヒースクリフを演じた映画版『嵐が丘』(一九三九年)がつまらないのは、原作を、そういうお行儀のいい物語の中に納めこんでしまっているからでしょう。ところが原作はそんなお行儀のいい物語ではない。夫か恋人か、つまり、あれかこれか、という物語ではなく、夫も恋人もという、あれもこれも、という欲深い物語なんですね。『本格小説』では、その『嵐が丘』の面白さをもっと理想的な形でくり返すことになりました。太郎ちゃんはたとえ不在であっても、よう子ちゃんと雅之ちゃんの関係に緊張をもたらし、二人は並の夫婦よりよほど仲がいいでしょう。太郎ちゃんが再登場したあとは、さらに緊張が高まり、二人はさらに仲よくなる。だいたい、一方で、すっごくハンサムでお金持な恋人がいて、他方で、すっごくハンサムでやさしい旦那さまがいたら最高じゃない(笑)。以前、女性の聴衆を相手に『本格小説』の構想を話したら、「そんないい話、想像もつかないから、何のリアリティもない」って言われちゃったけど(笑)。
――その願望は多くの女性に共通しているんでしょうか。
そういうの、男の人にとってイヤでしょう(笑)。なにしろ男はプロバイダー(扶養者)としての役割を課されている。だから男の富や社会的地位は、男の魅力そのものとして女の目に映る。それでいて打算を働かせずに最上の男を得るというのが女の夢なんです。女が他の女を軽蔑するとしたら、「ああ、打算的に結婚したな」ということがはっきり見える時だと思う。よう子ちゃんは打算を働かせずに、というより、まさに打算を働かさないことによって、最高のプロバイダーを二人も得るんですよね。
――確かに、よう子が太郎と雅之に寄せる思いには打算がありません。そして、男たちのよう子への愛情も同様です。
そう。でもあの二人は端から見るとちょっと異常ね(笑)。よく言えば、稀有な才能の持主たちです。俗世界で成功できる資質をもちながら、一生一人の女だけを一途に愛し続けることができるという、禁欲僧のような超俗的な精神をもった人たちですね。太郎ちゃんにおいては、彼の俗世界での出世欲は、よう子ちゃんへの愛とは矛盾せず、むしろ、よう子ちゃんへの純粋な思いの原動力となっている。それは『嵐が丘』のヒースクリフと同じだわね。でも雅之ちゃんはエドガーよりよほど超俗的です。
◆階級が書けない国の文学
――物語の主な舞台は戦後の軽井沢ですが、よう子ちゃんの母親の世代にあたるブルジョワ三姉妹が生き生きと描かれていました。それが作品の重要なナレーターである使用人の冨美子の貧しさとコントラストを成しています。
あのコントラストは出したかったの。英語で書かれた文芸に親しめば親しむほど、「コメディ・オヴ・マナース」と言われるものの伝統の強さに気づきます。人々が階層化されているという現実そのものを、おもしろおかしく描く伝統ですね。BBCの『アップステアーズ・ダウンステアーズ』――かつての有閑階級と女中さんたちの話ですが、それが英国のTVドラマシリーズの最高峰だと見なされ、くり返し放映されたりしています。階級の存在が否定されているアメリカでさえ、所得格差が生活様式に与える影響についての議論が日常的にあるし、人々が階層化されているという現実から目をそむけようとはしない。ところが日本はちがいます。日本の戦後世代は平等教育を徹底的に受けていて、それが輸入されたマルクシズムやら、昔からの農耕社会のモラルやらと重なって、日本の近代文学を呪縛している。人々が階層化されたところを描くとしたら、今なおそれは悪いこととしてしか描かれない。だから貧乏を描くことが、即、よい文学だという前提まである。漱石は中産階級を描いたから、中庸だというような議論まである。漱石は英文学に親しんでいたからこそ今の日本文学の中でも突出した存在なのに。とにかく、日本から消えつつある三姉妹のような存在は、文学に残しておきたいと思いました。
――最後に、今後の活動についてお聞かせください。これまでの作品には五年以上の歳月を費やされていますが。
それは幸い沢山書かなくても食べられるから。食べられさえすれば、自分の書きたいものを書きたい速さで書くのが理想的です。量産する能力もないけれど、そもそも量産する気がないの。次の本は、今まで書いた文学に関するエッセイをまとめて、いくつか書下ろしを加えたもの。その次は、昔ついていた日本舞踊の先生をめぐって日本文化論や芸術論を展開したものを、と思っています。小説は書くとしたらそのあとかなあ。でも、あんまりのんびりしてると、担当編集者がみんな引退しちゃうわね(笑)。
(みずむら・みなえ 作家)
▼水村美苗『本格小説(上・下)』は、発売中
著者プロフィール
水村美苗
ミズムラ・ミナエ
東京生まれ。12歳で渡米。イェール大学仏文科卒業、同大学院博士課程を修了。いったん帰国ののち、プリンストン、ミシガン、スタンフォード大学で日本近代文学を教える。1990年『續明暗』で芸術選奨新人賞を、1995年『私小説 from left to right』で野間文芸新人賞を、2002年『本格小説』で読売文学賞を、2008年『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』で小林秀雄賞を、2012年『母の遺産 新聞小説』で大佛次郎賞を受賞。
この本へのご意見・ご感想をお待ちしております。
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