文人悪食
935円(税込)
発売日:2000/08/30
- 文庫
- 電子書籍あり
大食、美食、偏食、粗食。名作も傑作も、「食卓」から生れた。
「何か喰いたい」臨終の漱石は訴え、葡萄酒一匙を口に、亡くなった。鴎外はご飯に饅頭を乗せ、煎茶をかけて食べるのが好きだった。鏡花は病的な潔癖症で大根おろしも煮て食べたし、谷崎は鰻や天ぷらなど、こってりした食事を愉しんだ。そして、中也は酒を食らって狂暴になり、誰彼構わず絡んでいた。三十七人の文士の食卓それぞれに物語があり、それは作品そのものと深く結びついている。
書誌情報
読み仮名 | ブンジンアクジキ |
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シリーズ名 | 新潮文庫 |
発行形態 | 文庫、電子書籍 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 576ページ |
ISBN | 978-4-10-141905-3 |
C-CODE | 0195 |
整理番号 | あ-18-5 |
ジャンル | 文学・評論、ノンフィクション |
定価 | 935円 |
電子書籍 価格 | 869円 |
電子書籍 配信開始日 | 2017/05/26 |
書評
想像するおいしさ その自由な世界
先ずは、誰が読んでも間違いなくお腹が痛くなるくらい楽しめる、西村淳『面白南極料理人』を。私自身もひとりの料理人として日々痛感しているのですが、料理人というのはある意味因果な商売です。いつだってその根底には「目の前のお客さんにおいしいものを食べて欲しい」というプリミティブな願いがありつつも、実際はそれで利益を出さねばならない、評判を取らなければいけない、誰からも嫌われない料理でなければいけない、という浮世のしがらみに囚われ続ける宿命にあります。
そういう浮世とは、良くも悪くも隔絶された南極基地。そこで料理担当として腕を振るう作者の日々は、食べることくらいしか娯楽のない極限の環境で周りの仲間たちを喜ばせる、というゴールだけを目指して常にまっしぐらです。食材や調理環境の制約はあれど、ある意味それは料理人にとってのユートピアなのかもしれません。
続いてご紹介したいのは嵐山光三郎『文人悪食』。夏目漱石や森鴎外ら三十七人の文豪の、食にまつわるエピソードが書かれています。現代とは全く異なる当時の日本人の食習慣や食に対する価値観が興味深く、また、「元祖・食本」を紹介する読書案内としても貴重な本なのですが、そんなことより何より印象的なのは文豪たちの奇人変人ぶり。こんな人たちが実際周りに居たら、そりゃまあ楽しいかもしれないけどたまったもんじゃないな、という濃いエピソードが満載でゲップが出そうです。それはどこか1970〜1980年代のロックミュージシャン達の(半ば演出的な)奇行とも重なるものがあります。時代はいつもどこかでそういうアンチヒーローを求めているものなのかもしれません。
ちなみにそれを嬉々として語る著者本人も、文豪たちに負けず劣らず「変」です。
その『文人悪食』でも取り上げられている山本周五郎の代表作のひとつが『青べか物語』。この小説には当時の様々な食生活が印象的に描かれており、中でも極め付きのシーンが「もくしょう」と題された一編に出てきます。
化粧っ気もなく無愛想な洋食屋の跡取り娘おさいは、ある時真面目で寡黙な船乗り元井エンジと恋仲になります。ところが些細なすれ違いがきっかけで、おさいは一方的にエンジを捨てて他所の街に嫁に行き、結局一年ほどで夫と死別。幼子を連れて再び実家の洋食屋で働き始めた彼女は、かつてとはうって変わって美しく着飾り、愛想よく酔客たちをあしらうようになっていました。
そのおさいがある夜、元井エンジの独居を訪れ復縁を迫ります。エンジはおさいに捨てられて以来すっかり心を閉ざし、仕事で船に乗る以外は家に籠って独り言を呟きながら一人将棋を指すばかりの毎日。そしてその時も、おさいが過去の出来事を謝り「あたし、いつでもいいのよ」と誘惑するのを無視して一人将棋を指し続けます。諦めたおさいはエンジの家を後にし「へっ、うみどんぼ野郎」「うすっ汚ねえもくしょうめ」と悪態をつく、という救いのない物語。
おさいが去り際にこんなことを言います。
「あたしうまいライスが出来るのよ〈中略〉とても玉葱とヘットだけだなんて思えないほどうまいのよ、これからはちょいちょい来てよ」
初めてこの話を読んだ時、僕は「なんて酷い女だ」と思いました。そのライスは確かにうまそうでしたが、しかしいかにも安っぽい。出戻りで肩身の狭い彼女は跡継ぎのためにかつての恋人を利用しようとしている。そしてすっかり垢抜けた彼女は男を心底馬鹿にしているから、その程度の食べ物で釣れるだろうと値踏みしている。
しかし何度めかに読んだ時、その印象が突然ガラっと変わった瞬間がありました。彼女の悪態は悲しみの中の精一杯の強がりだったのでは、と思い始めたのです。玉葱ライスは、かつての恋人と地に足のついた生活をしたい彼女の切ない想いの象徴。作者はそのどちらの解釈も許すかのように多くを語りません。いずれにしても玉葱ライスはただただおいしそうです。ヘット(牛脂)は当然自家製でしょう。味付けはどういうふうだったんだろう。僕は勝手にウスターソース味で想像しています。
(いなだ・しゅんすけ 料理人)
波 2021年9月号より
著者プロフィール
嵐山光三郎
アラシヤマ・コウザブロウ
1942(昭和17)年、静岡県生れ。雑誌編集者を経て、作家活動に入る。1988年、『素人庖丁記』により、講談社エッセイ賞を受賞。2000(平成12)年、『芭蕉の誘惑』(後に『芭蕉紀行』と改題)により、JTB紀行文学大賞を受賞。『悪党芭蕉』が2006年に泉鏡花文学賞を、2007年に読売文学賞を受賞した。『文人悪食』『文人暴食』『文人悪妻』『文士の料理店』『日本一周ローカル線温泉旅』『死ぬための教養』『寿司問答――江戸前の真髄』『昭和出版残侠伝』『美妙』『芭蕉という修羅』『漂流怪人・きだみのる』など著書多数。