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あの素晴らしき七年

エトガル・ケレット/著 、秋元孝文/訳

1,870円(税込)

発売日:2016/04/27

  • 書籍

初めての息子の誕生から、ホロコーストを生き延びた父の死まで。七年の万感を綴る、自伝的エッセイ集。

戦闘の続くテルアビブに生まれ、たくさんの笑いを運んできた幼い息子。常に希望に満ちあふれ、がん宣告に「理想的な状況だ」と勢い込んだ父。現代イスラエルに生きる一家に訪れた激動の日々を、深い悲嘆と類い稀なユーモア、静かな祈りを込めて綴った36篇。世界中で人気を集める掌篇作家による、家族と人生をめぐるエッセイ集。

目次
一年目
突然いつものことが/大きな赤ちゃん/コール・アンド・レスポンス/戦時下のぼくら
二年目
親愛を込めて(でもなく)/空中瞑想/見知らぬ同衾者/ユダヤ民族の保護者/とある夢へのレクイエム/長い目で眺める
三年目
公園の遊び場での対決/スウィード・ドリームス/マッチ棒戦争/英雄崇拝
四年目
爆弾投下/おじさんはなんて言う?/亡き姉/鳥の目で見る
五年目
想像の中の故国/お偉いさん(ファット・キャット)/ポーズをとる人/ありふれた罪人/ぼくの初めての小説/最期まで残った男/憂園地
六年目
打ちのめされても/お泊まり/男の子は泣いちゃダメ/事故/息子のためのヒゲ/はじまりはウィスキー
七年目
シヴァ/父の足あと/ジャム/善良さの料金/パストラミ
訳者あとがき

書誌情報

読み仮名 アノスバラシキシチネン
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 192ページ
ISBN 978-4-10-590126-4
C-CODE 0397
ジャンル エッセー・随筆、評論・文学研究、ノンフィクション
定価 1,870円

書評

勇気の書

西加奈子

 エトガル・ケレットを知ったのは小説からではなく、その人からだった。2014年の東京国際文芸フェスに招かれていたケレットのキュートな人柄(そのフェスには私も参加させてもらっていて、楽屋が同じだった)、そして彼のお話のとんでもない面白さに、いっぺんでファンになってしまったのだ。そのときはまだ、ケレットの翻訳は日本で発売されておらず、のちに彼の短編集『突然ノックの音が』が発売されたと知るや速攻で手に入れた(ある小説家に対して、こんな「入り方」をしたのは初めてのことだ)。
 それは、フェスで垣間見えたユーモアに溢れた摩訶不思議な、でもとことん信じられる世界だった。私はもちろん、彼の作品の大ファンにもなってしまい、今回のエッセイ集『あの素晴らしき七年』を、多大な期待と共に開いたのだった。
 一読して思ったのは、「ああもうこれは、エトガル・ケレットそのものだ!」ということ。
 たった一冊の短編集しか読んでおらず、彼の話す姿を数時間眺めただけなのにどうしてそんなことを言えるのか? でも自分でも驚くほど自信満々に言えるのだ、これはケレットそのものだ、と。なんだったら、私以外の人間でもそう思うはず! そう断言できるほど、ケレットのケレット節というのは唯一無二で独特、そしてもうひとつ驚くべきことがあって、それはエッセイ集であるはずのこの作品の読後感が、ほとんど短編集のそれと「同じ」だったということなのである。
 もちろん書いてあることはノンフィクションだ。ケレットにとって初めての息子、レヴが誕生してからの「素晴らしき七年」分の彼の生活、そして思考が偽りなしに書かれていることには間違いない。『突然ノックの音が』のように、嘘をつき続けたあまり、その嘘が独自に世界を作ってしまったなんてことはないし、痔と共生しすぎて、いつしかその痔が自分よりも大きくなってしまったなんてこともない。
 例えば一年目、電話の勧誘をどうしても断れないケレットは、なんとか衛星テレビ会社の電話勧誘販売員にあきらめてもらおうと、様々な嘘をつく。1分前に穴に落ちて額と脚にケガをした、などと。でも販売員はあきらめない。彼の嘘をものともせず、最終的に今まで話していた自分を兄だと言い、その兄が死んだとまで告げたケレットに対し、とんでもない勧誘の一言を放つ。
 また例えば四年目、レヴと一緒にタクシーに乗ったケレットは、運転手のいやな感じに気づく。案の定彼はレヴのしたことに悪態をつき、それに怒ったケレットは彼に反撃する。一連のやり取りを見ていたレヴの子どもらしい、まっすぐで強くて透明な言葉に、ケレットははっとさせられ、そして運転手から思いがけない一言がもたらされる。
 どれも真実、ケレット自身に起こったことだ。でもケレットの独白にはどこか作り物めいたおかしみがあり、ウェルメイドな起承転結がある。きっとそれは、ケレットがナチュラルボーンストーリーテラーであることの証明だろう。そしてそこには、ホロコーストを経験した彼の両親からの影響も多大にあるのではないだろうか。
 彼は幼い頃、両親の作ったお話を聞きながら眠りについた。本がなかったからだそうだが、両親が話をこしらえることが出来ることを、ケレットは誇らしく思ったそうだ。なぜならそれは、どこのお店にも売っていない、彼だけのものだったのだから。壮絶(という言葉では言い表せない)な青春時代を過ごした両親から聞いた様々な物語、それがその息子に力を与えたのだ、きっと。
 ケレットは彼の父の話について、こう書いている。
「どんなに見込みの低そうな場所でもなにかいいものを見つけんとする、ほとんど狂おしいまでの人間の渇望についての何か。現実を美化してしまうのではなく、醜さにもっとよい光を当ててその傷だらけの顔のイボや皺のひとつひとつに至るまで愛情や思いやりを抱かせるような、そういう角度を探すのをあきらめない、ということについての何か。」
 それはこのエッセイ集にも通底しているものだ。イスラエルという複雑な国に住んでいる無神論者のユダヤ人、という彼が直面する苦しみ、息苦しさ、悲しみ、それらすべてにほとんど命がけといっていいユーモアでもって対抗する姿は、彼の両親が、そして強い人間がいつだってやってきたことなのではないだろうか。
 これはスーパー面白いエッセイ集であり、言葉の、そして物語の力を信じている人だけが出来る勇気の書でもあるのだ。

(にし・かなこ 作家)
波 2016年5月号より

短評

▼Nishi Kanako 西加奈子

初めての息子レヴが誕生してからのケレットの七年間は、ものすごくカラフルで、おかしくて、ときにシリアスだ。電話の勧誘をどうしても断れなかったり、奥様方にまぎれてピラティスをしたり、招かれた作家のシンポジウムで大変な目にあったり、そして、ユダヤ人として思い悩んだり。すべてのことに徹底的な(ほとんど命がけと言っていい)ユーモアで対抗するところが、ケレットの真骨頂だと思う。ただただ面白くて、時々大笑いして、そして、泣いてしまった。これは言葉の力を誰より強く信じている人だけが書ける本だ。


▼Aleksandar Hemon アレクサンダル・ヘモン

いったいどうやって書いているのかわからないが、彼が書くとどんなものでも素晴らしいお話になる。この本にはその素晴らしいお話がたくさん収められていて、それらはたまたま実話で、愛と思いやりと知性とユーモアと、そして私が読者として求めている名づけようのないものにあふれている。ケレットの文章には魂を癒す力が宿っている。


▼The Los Angeles Times ロサンジェルス・タイムズ紙

もし読むべき作家を一人だけ挙げるとしたら、それはエトガル・ケレットだろう。わずかなページに詰まった懐の大きな物語の数々、そしてユーモアと悲劇性、共感とシニシズムの絶妙のブレンドは、私のお気に入りになった。きっとあなたのお気に入りにもなるだろう。


▼The Los Angeles Times ロサンジェルス・タイムズ紙

彼がわずか二ページでやってのけることには仰天させられる。滑稽さから奇妙へ、そして感動へ、風刺へ、物語論へ、驚異へ、シュルレアリスムへ。深遠で悲劇的で滑稽で痛切な物語をわずかな言葉で紡ぐ「名人」である。


▼The Boston Globe ボストン・グローブ紙

このノンフィクションには、彼の掌篇小説と同じシュールな切れ味と黒いユーモアがある。そしてその文章には、彼が読者と一対一でふざけあっているかのような親密さが惨んでいる。


▼National Public Radio ナショナル・パブリック・ラジオ

この本は読者をケレットの体験した七年間へと連れて行き、鋭く共感にあふれた洞察を通じて、世界の美しさ、狂気、逃れ得ない奇妙さを見せてくれるのだ。表立って政治的な本ではないが、暴力にかたどられ、生と死の間で書かれた作品だ。


▼The New York Times ニューヨーク・タイムズ紙

エトガル・ケレットは天才である。


▼Salman Rushdie サルマン・ラシュディ

私の知るどの作家ともまったく違う、素晴らしい書き手である。

エトガル・ケレット『あの素晴らしき七年』著者メッセージ

訳者あとがき

 本書は現代イスラエルを代表する掌篇小説家であり映画監督でもあるエトガル・ケレットの「ノンフィクション」作品である。息子レヴの誕生から父親が亡くなるまでの七年間の出来事を描いた三十六篇のエッセイで構成される。平均四、五ページ程度の短さの中に、ユーモアと悲しみと不可思議が共存しており、読者は泣き笑いのあとに考えさせられる。あたかもケレットの短篇小説の「ケレット自身が主人公」版を読んでいるかのようだ。
 時系列で分類された三十六篇をゆるやかに統合しているテーマがあるとするならば、ひとつは「イスラエルとユダヤ人」、もうひとつは「家族」であろう。
 テロリストの攻撃で幕を開けた本書はミサイルが降ってくる最終話で終わる。
 常に戦争にさらされるイスラエルとは、本来は非日常的な体験であるはずの暴力が、絶えず繰り返されるためにその強度を失ってしまうような場所である。しかし、戦争やテロといった暴力を扱う時でさえ、ケレットの筆致は決して陰鬱にはならず、あくまで軽やかだ。軽やかだけに読後余計に考えさせられるのだとも言える。「笑ってはいられない」深刻な状況は、なすすべがなくて「笑うしかない」状況に容易に転化する。ケレットのユーモアはその微妙な境界を行き来する。
 たとえば「爆弾投下」での、破滅を予測するがゆえに未来を考えることをやめ、その結果「平和」が最大の脅威となるという逆説は、シュールな笑いを生み出しているが、その一方で遠い未来のことを考えにくい彼の地の現実を思う時、読者はその「笑ってはいられなさ」に背筋が冷えもするだろう。
 息子のレヴが大きくなったら兵役に就かせるのかどうかをめぐる一篇は、イスラエルで親たちが不可避的に抱える苦悩を描く。ユダヤ人国家の歴史を考えれば軍の必要性を簡単に否定できるわけはないし、皆がその負担を担わなければならない時に一人我が子をそこから除外することを正当化するのは難しい。それでもケレットの妻は母親として、息子の命を危険にさらしたくないというシンプルな思いから断固兵役に反対し、その行為こそが今ある政治を変えるのだと主張する。両者の話し合いに白か黒かの明白な解はない。
 そしてそこでわれわれは、特殊だと思っていたイスラエルという国のなかにむしろ普遍性を発見するのだろう。そこで暮らしている人々は、当たり前ではあるが、われわれと同じように日常に一喜一憂する普通の人々であり、あらゆる国家は決して一枚岩ではないし、そこには多様性が存在する。ケレット自身はイスラエルの「愛国的」言説に対して勇気あるノーを突きつけているが(二〇一四年のイスラエルのガザ侵攻の際に、ケレット夫妻は亡くなったパレスチナの子どもたちへの哀悼の意を示したことで自国民からバッシングされ脅迫まで受けている)、それでも国外では時としてイスラエルという国家を代表せざるを得ないし、それを避けようとはしない。ケレット自身の言葉によれば、「国内では裏切り者として、そして国外ではイスラエル人としてボイコットされ」てもだ。
 だから、本書およびケレットをイスラエルの作品や作家としてだけ読むのは、おそらくあまり豊かな読み方ではない。未知の世界を訪問するというよりはむしろ、今ここと地続きの世界として読む方が、たぶんいい。それこそが本書が世界各国で読まれている理由でもあろう。
 イスラエルというテーマが縦糸だとするならば、より普遍的なテーマとしてそれを織り上げている横糸が「家族」だろう。本書冒頭で生まれてきたレヴによってケレットは父親となり、そして息子であったケレットは「七年目」で父親をがんで失う。多くの人の人生に起こる変化であろうが、人はこういう親子関係の立場の推移を経験して(「成長」ではなく)成熟していくのだと、中年期の「七年」の濃密さに感慨を覚える読者も多いだろう。
 常にヒーローだった反体制的な兄や、ユダヤ教超正統派になった姉についてのエピソードもある。その三人が父の喪に際してかつての家で同じ時間を共有する「シヴァ」は感慨深い。ホロコーストの生き残りゆえ子どもたちのプライバシーを重んじた父によって別々の部屋を与えられた三人が、今再会し三つの部屋をつなぐ「居間」に集っている。それぞれのやり方で真理を求めた人生の道行きからいったん降りて、かつて三人をつないだ場所に戻るのだ。
 ほかにも、ふだんのケレットの短篇とテイストの似たちょっと間抜けなエピソードが満載である。9・11直後にオーバーブッキングで飛行機から降ろされそうになって泣いてしまったエピソードに顕著なように、ケレットは自分を飾らず、恥ずかしい話をあけすけに語る。そこにいるのはわれわれ読者と変わらない、日常にあたふたし、世界の変化に惑わされる一人の中年男性である。
 一篇一篇が苦も無く書かれているように見えながら、発想の飛躍と予想外の結末でまとめられており、本作でも、ケレットの類まれなるストーリーテラーとしての力量はいかんなく発揮されている。
 
 本書は英語版The Seven Good Yearsからの翻訳なのだが、その成り立ちはちょっと変わっている。ケレット自身はヘブライ語で執筆する作家だが、本書のもととなった初出はすべてTablet, New York Timesなどの英語媒体に掲載された英訳で、ヘブライ語ではない。本自体も英訳版が決定版で、ヘブライ語版は出版さえされていないのだ。各国版はそれぞれ英訳版を元に翻訳されており、翻訳なのにオリジナルが存在しないという不思議な書物なのである。ヘブライ語で、イスラエルで、出版しないことについてケレットは「この本は言ってみればバーや電車で隣に座った人には話すけど、隣の家に住む人には話さないような話なんだ。いつかはイスラエルでも出すかもしれないけれど、今現在はちょっと怖いしあまりに個人的な気がするよ」と語っている。
 本作は英語圏やヨーロッパ各国はもとより、ブラジル、中国、メキシコでも出版されている。フランスやイタリアではベストセラーリストにも名を連ねた。アメリカでも人気の高いケレットだが、アメリカでは彼の著書の中でも本作が一番売れているそうである。この日本語版は同書の世界二十番目の兄弟ということになる。
 タイトルについても少し言及しておく。「七年間」は一義的には息子の誕生から父の死までの七年間を指すが、創世記でヨセフが行ったファラオの夢解きにまつわる聖書的含意もある。七頭の肥えた雌牛がやせこけた醜い七頭に食べられ、七本の立派な穂がやせた七本にのみつくされるという夢をファラオが見た。ヨセフはその夢を、これから起こる七年間の豊作とそれに続く七年の飢饉として読み解き、飢饉に備えて食糧を貯えさせた、という話で、その最初の七年が「素晴らしき七年」である。ケレットの七年は彼の人生で唯一父であると同時に息子でもあった七年であるが、この「素晴らしき七年」の貯えがあればたとえそのあとに困難があろうが乗り切れる、そういう七年だったのかもしれない。
 
 作者エトガル・ケレットは、一九六七年テルアビブ生まれ。兵役についていた十九歳のときに親友が自殺し、その絶望から抜け出す手段として小説を書き始める。そうして書かれた最初の短篇が「パイプ」である。一九九二年に最初の短篇集を出版し、ヘブライ語ではすでに五冊の短篇集がある。
 イスラエルの新しい世代を代表する作家としてとくに若者の間で人気が高く、「もっとも作品が万引きされる作家」「囚人の間でもっとも人気のある作家」だという形容からも評価の雰囲気は読み取れよう。影響を受けた作家としては、カフカ、イサーク・バーベリ、I・B・シンガーといったユダヤ系作家のほか、チェーホフ、カーヴァー、ヴォネガットといった名前を挙げている。作品は三十を超える外国語に翻訳され、国外でも人気が高い。日本でも二〇一五年に出版された最新短篇集『突然ノックの音が』は、二〇一二年、かつて村上春樹も受賞したフランク・オコナー国際短篇小説賞の最終候補ともなった。村上との関わりで言えば、村上が「壁と卵」と題されたスピーチをした二〇〇九年のエルサレム賞の審査委員の一人がケレットであった。無国籍的な作風やポップな奇想、そして翻訳を通して各国語で読まれる現代の「世界文学」作家として、両者は似た位置にいるのかもしれない。
 ケレットの活躍は小説のみにとどまらず、妻で映画監督のシーラ・ゲフェンとともに二〇〇七年に映画『ジェリーフィッシュ』を監督、同年のカンヌ国際映画祭では新人監督に与えられるカメラ・ドールを受賞している。心地よい余韻の残る詩的な大人の寓話である。絵本『パパがサーカスと行っちゃった』には邦訳もある。
 また、他のメディアで翻案されるものも多い。グラフィックノベル『ピッツェリア・カミカゼ』や、トム・ウェイツも出演しカルト的人気を誇る映画『リストカッターズ』(日本未公開)、クレイアニメ『$9.99』、短篇「クレイジー・グルー」を翻案した多数のショートフィルムなど、多くの映画化作品がある。
 『ニューヨーク・タイムズ』が「天才」と呼んだケレットには、サルマン・ラシュディ、ヤン・マーテル、ミランダ・ジュライ、ジョナサン・サフラン・フォアなど錚々たる作家たちから賞賛の言葉が寄せられているが、なかでもケレットの本質をとらえていると思われるアメリカ人作家ジョージ・ソーンダーズのことばを引用しておきたい。

エトガルの作品はだいたいが厳密にはリアリスティックではありませんが、それなのに究極的な意味でリアリスティックなのです。彼の作品はこう言っています。人生って本当はこんな感じがするんじゃない? これこそが本質的にはぼくらが直面している問題じゃないの? そして、それを越えて、私に言わせれば芸術がなしうる最高の行為をしてくれます。それは、人に慰めを与える、ということです。エトガルの小説はこう言うんです。親愛なる人間よ、うん、まああんたは今困った状況に陥っているけれど、そこにはまっているのはあんただけじゃないよ。ぼくもそこから出られずにいるんだ。ここはひとつ、ぼくらが陥っているこの困った状況について数分間じっくり考えてみようじゃないの。好奇心と、ユーモアと、やさしさを持って。そうしてお互いじっくり考えれば、ぼくらにはよく理解できないやりかたで、物事は少しずつ良くなっていくさ。

 ソーンダーズのことばにあるように、ケレットはぼくらと同じ地べたに座り込んで、一緒に考える。そのまなざしはつねにユーモアに満ちていて、やさしい。

 本書収録作品以外に日本語で読めるケレット作品は、前掲の『突然ノックの音が』(母袋夏生訳、新潮クレスト・ブックス)、絵本『パパがサーカスと行っちゃった』(評論社)のほかに以下のものがある。

「ブタを割る」「靴」(岸本佐知子編・訳『コドモノセカイ』河出書房新社)
「パイプ」「イスラエルにある別の戦争」(秋元孝文訳『早稲田文学』二〇一四年冬号)
「ハッピー・エンディングな話を聞かせてくれよ」(※サイイド・カシューアとの往復書簡。秋元孝文訳『早稲田文学』二〇一五年夏号)

 まだまだ日本での紹介は始まったばかり。今後のさらなる展開が期待される。

 ケレットのおかしな短篇に魅了されてからもう七、八年が経つ。短く、笑えて、読者を選ばない、なりは小さくても中身はでっかい、そして読み終わったあとにずっと腹に残る。長大で難解でなくとも、これだけ軽やかであっても、深遠であることは可能なのだと感銘を受け、新しい文学の可能性を感じた。この現代世界文学最重要作家の一人をなんとか日本語で読めるようにしたい、とはたらきかけ始めてからいろんなことが起こって、本作が英語で出版され、こうして日本への紹介に翻訳という形で関われたのは望外の喜びである。その間には東京とシカゴでケレットに会い、いろんな話をし、たくさんのメールのやりとりをした。小説と同じくいつもユーモアに溢れ、物腰やわらかく気遣いの人である。そういう個人的な関係ができてからは、本書収録のエッセイはさらによく「聞こえてくる」ようになった。
 無理なお願いから始まったにも拘わらず、『新潮』誌での翻訳の機会やケレットと会うチャンスをくれ、本書の翻訳まで任せてくださった新潮社出版部の佐々木一彦さんなしには本書は生まれていない。的確な助言とアイディアに大いに助けられました。本書以前に翻訳エッセイを発表する場を与えてくれた『早稲田文学』の窪木竜也さん、本書を読みたいと言ってくれた作家の福永信さんにも感謝申し上げます。甲南大学文学部英語英米文学科の学生と同僚、とくに中島俊郎先生にはお世話になりました。
 そしていつも笑顔をくれるA氏とCに、ありがとう。

 二〇一六年三月


秋元孝文

著者プロフィール

1967年イスラエル・テルアビブ生まれ。両親はともにホロコーストの体験者。義務兵役中に小説を書き始め、掌篇小説集『パイプライン』(1992)でデビュー、『キッシンジャーが恋しくて』(1994)で注目され、アメリカでも人気を集める。『突然ノックの音が』(2010)はフランク・オコナー国際短篇賞の最終候補となり、作品はこれまでに37か国以上で翻訳されている。絵本やグラフィック・ノベルの原作を執筆するほか、映像作家としても活躍。2007年には『ジェリーフィッシュ』で妻のシーラ・ゲフェンとともにカンヌ映画祭カメラ・ドール(新人監督賞)を受賞している。テルアビブ在住。

秋元孝文

アキモト・タカフミ

1970年青森県生まれ。甲南大学文学部英語英米文学科教授。専門はアメリカ文学。著書に『現代作家ガイド ポール・オースター』(共著)、『物語のゆらめき――アメリカン・ナラティヴの意識史』(共著)『心と身体の世界化』(共著)など。

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