美しい子ども
2,090円(税込)
発売日:2013/08/23
- 書籍
創刊十五周年記念 全一〇一篇から選んだ傑作短篇アンソロジー。
娘から見た母の人生を描いて、長篇さながらの読後感を残すジュンパ・ラヒリ、孤独で不器用な魂を写しとるミランダ・ジュライ、ユダヤ人を描きながらどこまでも普遍的なネイサン・イングランダー、以上三作のフランク・オコナー国際短篇賞受賞作のほか、マンロー、シュリンク、ウリツカヤなど、クレストから選りすぐった十二篇。
アンソニー・ドーア 岩本正恵訳
地獄/天国
ジュンパ・ラヒリ 小川高義訳
エリーゼに会う
ナム・リー 小川高義訳
自然現象
リュドミラ・ウリツカヤ 沼野恭子訳
水泳チーム 階段の男
ミランダ・ジュライ 岸本佐知子訳
老人が動物たちを葬る
クレメンス・マイヤー 杵渕博樹訳
美しい子ども
ディミトリ・フェルフルスト 長山さき訳
ヒョウ
ウェルズ・タワー 藤井光訳
若い寡婦たちには果物をただで
ネイサン・イングランダー 小竹由美子訳
リューゲン島のヨハン・セバスティアン・バッハ
ベルンハルト・シュリンク 松永美穂訳
女たち
アリス・マンロー 小竹由美子訳
ほんとうの話
松家仁之
書誌情報
読み仮名 | ウツクシイコドモ |
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シリーズ名 | 新潮クレスト・ブックス |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 264ページ |
ISBN | 978-4-10-590104-2 |
C-CODE | 0397 |
ジャンル | 評論・文学研究 |
定価 | 2,090円 |
インタビュー/対談/エッセイ
短篇小説はこんなにも自由だ
何を書いてもいい
――シリーズ創刊15周年を記念して、〈新潮クレスト・ブックス短篇小説ベスト・コレクション〉『美しい子ども』という本を刊行します。ミランダ・ジュライ、ジュンパ・ラヒリ、ネイサン・イングランダーのフランク・オコナー国際短篇賞受賞作3冊を含む11冊のなかから、松家仁之さん(創刊時編集長)に選んでいただいたアンソロジーです。マンロー、シュリンク、ウリツカヤから、ドイツやベルギーの新人まで全12作。まずは、ご感想をうかがえますか。
池澤 みんなまだこんなにも家族のことを書いているのかと思いました。家族というのは永遠のテーマで、長篇にも短篇にも使える。たとえばジュンパ・ラヒリの「地獄/天国」は、小さな長篇といってもいい。娘の視点からお母さんの生涯を描いていて、短篇の域を超えている。一方で、アンソニー・ドーアの「非武装地帯」みたいに、ひねりの効いた、いかにも短篇らしい密度の高いものもある。それからベルンハルト・シュリンクのように過去の出来事を現在の場にずらっと並べた軋轢と解決がテーマのもの。家族の話は強いな、と改めて思いました。
津村 最初の三作を読んで、人間って何でも書くなと思ったんです。ナム・リーさんは1978年生まれでわたしと同い年、ベトナムのボートピープルの人ですが、「エリーゼに会う」という短篇の主人公はニューヨークの画家で、別れたロシア人の妻とのあいだに娘がいて、その娘が天才少女チェリストとしてカーネギーホールにやってくる――と自分自身とはぜんぜん違うことを書いている。何を書いてもいいんやなと思いました。
クレメンス・マイヤーさんもわたしと同学年で、おじいさんの話を書いていて、ネイサン・イングランダーさんは1970年生まれで親の世代のことを書いている。わりと若い人たちが、年上の人たちのことを想像して書いているのがすごく印象的で、どれも素晴らしくおもしろい。こういうことを書き手は、その試みが成功、不成功に終わるにかかわらず、やらんとあかんことやなと思いました。
松家 十一人の作家の短篇を並べてみると、1970年代生まれの作家が目立つんですよ。クレスト・ブックスはデビュー作を積極的に紹介してきたシリーズなので結果として若手が多くなったこともあるでしょうが、この人たちはなんだか自由だなと思ったんです。ミランダ・ジュライもそうですが、短篇というジャンルを畏れずにのびのびと使って書いている。
たとえばイングランダーの「若い寡婦たちには果物をただで」では、強制収容所から生きて出てきた少年がその後に何をやったか、いまは教授になったそのひとの過去が語られる。これは、ものすごくヘビーな、二十世紀が抱え込んだ大問題で、よほどの構えがないと書けない気がする。でもイングランダーは非常に自由に書いているように見えます。
池澤 おいおい、そこまで行くのかよ、と言いたくなるくらいね。
孤立した個人が出会うとき
池澤 たとえばラヒリにおいては、家族の話でありながら、移民の親との文化的衝突の話でもあり、イングランダーの場合は民族の憎悪の問題でもあり、家族のなかにさらに大きなテーマが入ってきているんですね。ずっと芥川賞の候補作を読んできたけれど、家族の小説はこんなにないですよ。
津村 年の話ばかりして申し訳ないんですけど、シュリンクさんは1944年生まれ。「美しい子ども」のフェルフルストさんは1972年生まれ。両方とも父親のことを書いているけど一世代ちがう。シュリンクさんの「リューゲン島のヨハン・セバスティアン・バッハ」のなかの父親は八十二歳で、なのにこの息子はまだこんなに父親を求めるんだと衝撃的でした。自分と母親の関係を考えると、理解できなくて当たり前という、そういう箱に入れてしまっている。この本は、世界中の人の、年代とか文化別の家族のとらえかたカタログみたいでもあります。
池澤 シュリンクの話は、戦争責任論でもあるのかな。息子が「どうして戦争に行かずに済んだの?」と訊いてるでしょう。生きているうちに訊いておかなければという気持ちがある。何がこの親子をつなぐかというと、バッハなんですね。
津村 音楽の力がふいにやってくる。最後のシーンでバッハの音楽がかかって、ふたりして歌詞に耳を傾けていると、融和する瞬間が訪れる。それが外側からやってくるのが面白くて、これは小説だけが書けることだなと思いました。
松家 音楽で一瞬つながるみたいなことがどうして可能かというと、たぶん父も息子も、完全に孤立した個人だからだと思います。海外の小説は固有名詞としての人名がくりかえし執拗に出てくるじゃないですか。日本語では人称も人名もふわっと消えてしまう。固有名詞としての名前が不動のものとしてそこにあるから、いったん決定的に離れた父と息子であっても、やはり父と息子なのだという否定できないお互いの認識が生まれる。
池澤 肉親だからって馴れあわない。
松家 日本の家族は、お互いまったく理解しあわないように見えても、どこかで曖昧にずるずる繋がって切れない感じがあって、だからこそ、とりあえずわからないまま放っておけるのかな、と思わないでもないです。
津村 いますからね、そこに。そこにいなければ、強烈に知りたいとか、会いたいとか、思うかもしれない。
誰もが持っている話
松家 このアンソロジーに出てくる家族では、「美しい子ども」はやや異質かもしれませんね。離婚したり別れたりした男兄弟が、つぎつぎと母親の暮らす実家に帰ってくる。
池澤 ベルギーの田舎なんだけれど、むしろ僕は地中海っぽいと思った。ギリシャが舞台の「マンマ・ミーア」ですよ。きょうだいが多くて、婿や嫁は外からきた「誰か」でしかない。あれがベルギーの田舎に残ってたんだね、下品なままに(笑)。でもなくなってしまったものを戯画化して書いたのかなという気もする。
松家 「美しい子ども」は『残念な日々』という連作短篇集の第一篇ですが、最後のほうでは作家になった「ぼく」が、懐かしいはずのこの村に帰って強烈な違和感を感じている。だから書くことで過去に帰ろうとしたのかな。でも、カバーにある著者の写真をみたら、すごくハンサムなんですよ(笑)。生涯バカ男子みたいな小説の世界とはぜんぜんちがう。
津村 この顔やったらこんなこと書かんでも……(笑)。でも、もてた話じゃなく、下品なこと書いて残しておこうと思ったのがいいですよね。わかるな、と思います。子ども時代の話、家族の話というのは、誰もが持っている、自分が絶対に持っているものなんですよね。
松家 あと、選んだ短篇を並べてみて、老人が魅力的だなと思いました。「老人が動物たちを葬る」でも、老い先短いという意識をもちながら、どこか徹底して明晰であり、妥協しない。
池澤 めそめそしない。後ろ手で扉を一つ一つきちっと閉めていく。
津村 おじいさんが酒場の女の人に散髪してもらうところがすごく好きでした。すごい孤独なんやけど、散髪をしてもらえるんやって。
松家 シュリンクの父子の話もそうだけれど、ちゃんと孤独だからかえって人と出会えるのかもしれない。
津村 そうなんでしょうね。べたべたした人が甘えて「髪切ってよ」というのとはぜんぜん違う。
松家 津村さんがさっきおっしゃっていたように、ナム・リーが自分とはぜんぜん関係ない「エリーゼに会う」を書いたのはどうしてなんでしょうね。
津村 結腸がんになるということについて書いてみたかったんかな。わたしも自分はどんな病気で死ぬんやろ、ってすごい気になる時期があったんですよ。ナム・リーさんも気になってたのかもしれない。内視鏡を入れられる体験をしたとか、入れられたらこんな感じかなと考えに考えたあげくに書いたとか。
松家 内視鏡から生まれた物語(笑)。
津村 もしかしたら痔じゃないかと思ったら、違ってたみたいな。その逆でも。すみません。でも明らかに自分とちがう人間のことを、ゆっくり手を突っ込むみたいに、こんなにまで書いていいんや、ということにすごく勇気が出ました。
短篇小説と長篇小説
松家 この本を編みながら、ナム・リーのような完全なフィクションも、「美しい子ども」のように自伝的なものであっても、書き手が薄皮一枚はさんですぐ向こう側にいるような感じがしたんです。長篇だと作品と作家の距離がもっと離れていて、読んでいるうちに書き手のことを忘れるような瞬間がある。でも短篇はつねにどこかに書き手の気配が感じられる。
池澤 なるほどね。
松家 『完全版 池澤夏樹の世界文学リミックス』で短篇と長篇では時間の流れに違いがあるとお書きになってましたね。
池澤 そう、その意味でもラヒリの「地獄/天国」はごく短い長篇だと思う。均一の時間でひとつの人生が見える。短篇は、エピソード一つでいいし、ある場面から二つくらい転換して次の場面で闇になってもいい。登場人物に対して作家は責任を持たなくていい。
津村 だから若い人がいろんなことを書くのかもしれないですね。それでこの先もっと大きくして書きはるんかな。イングランダーさんの「若い寡婦たちには果物をただで」には、十三歳の息子が出てきて、父親の世代の体験を継承していきますよね。なんでお父さんは教授にそんなに親切にするんだろうと子どもが興味をもつ。
池澤 つぎの世代になっても、起こった過去について考えているんですよ。お父さんもそうだし、その息子も、なんで教授はあんなことをしたんだろう、自分だったらどうしただろうと考えているでしょう。歴史ってそういうものだと思う。
津村 何を思ったんだろうとずっと考えてるというのでは、ラヒリさんの「地獄/天国」もそうですね。お母さんが何を考えていたのかが少しずつわかっていく。結局自分たちは親のことを知らないと端的に思いました。
池澤 考えてみれば僕もそうだった。僕はこの五年間で、二十代から三十代の父親のことをようやく知ったんです。日記が出てきたから(『福永武彦戦後日記』『福永武彦新生日記』)。大変だったな、かわいそうに、と思った。
津村 親は何もかも子どもに知られたいとは思っていないのに、子どもはどこかで何もかも知ってやろうという気でいる。その攻防も面白かったです。
池澤 ラヒリの短篇の母親にも誇りがあって、必死で隠して毅然としているわけでしょ。
松家 でも子どもって見てますよね。若い男に母親が特別の感情をもっていることを見抜いている。
津村 女の人独特なのかも。
池澤 男だとぜんぜんわからないから、やがてバッハが必要になる(笑)。
松家 一方、ウェルズ・タワーの「ヒョウ」では、子どものインチキな芝居が義父に見破られている。
津村 お母さんが再婚した義父との関係、この子つらいな、がんばれよ、と思いましたね。
似た人生は同じ人生ではない
池澤 全体を見てみると、「非武装地帯」「水泳チーム」と「階段の男」、「老人が動物たちを葬る」、それから「ヒョウ」。これは僕もひょっとして書けるかな、書けたらいいなという親近感を感じるけれど、ほかはぜんぜん手が出ない。「老人が動物たちを葬る」はアリステア・マクラウドを思い出す。田舎で、動物が出てきて、最後の悲しい終わり方も。シュリンクもありうる気がする。でも、ほとほと感心するしかないというくらい遠い話もいっぱいあるでしょう。
松家 マンローの「女たち」はいかがですか。
池澤 こういう人間関係を緻密に展開するのには、とても手が出せない。「非武装地帯」が手が届く気がするのは、そこに鳥という要素がもうひとつ加わっているからですよ。故郷との距離感、父親と母親の関係、そして戦地で追いつめられてゆく感じ。この組みあわせに鳥を重ねている。
松家 傷を負った鶴を抱きかかえたときに、カタツムリの匂いがしたとありましたね。イマジネーションというより、体験か取材の産物かもしれないけれど、ああいうディテールが出てくるだけで得した気がします。自分が鶴を抱きかかえているような感じがした。
池澤 十キロもあるっていうんだから、鳥にしては重いね。
津村 マンロー、すごくおもしろくて、女の人の話ではあるけれど、病人の男の人の本能としての手管みたいなものがすごいなと思いました。
池澤 お母さんと妻とロクサーヌが等距離にある。病人はそれを繰っているのかもしれない。
松家 この短篇の最後の場面もそうですが、マンローは油断して読んでると、突然ひゅっとエロティックなところを垣間見せてどきっとさせる。本当にうまいですよね。
イングランダーの短篇のなかに、「似た人生は同じ人生ではない。そこには違いがある」というフレーズがあって、これ、短篇小説のことみたいでもあるなと思ったんです。設定とかシチュエーションがどこか重なるようでいても、一人一人の書き手によって全然違う。こうして十一人の作品を読むと、なにか、ここにわれわれがいま生きている世界がごろんと転がっているなという気がしました。
津村 一人の作家の短篇集だとその人の世界観がいろいろな舞台装置を使って展開されていくけれど、この本を読んで、多様だな、違う人間がいっぱいいるなと思いました。すごくいい体験をさせてもらいました。
池澤 さあ、おうちに帰って自分の短篇を書きましょう(笑)。
(いけざわ・なつき)
(つむら・きくこ)
(まついえ・まさとし)
波 2013年9月号より
単行本刊行時掲載
短評
- ▼Tsumura Kikuko 津村記久子
-
さまざまな年代と性別、さまざまな出自の書き手が勢ぞろいしている。「書き手」は「他者」としても良い。11通りの他者が、それぞれにまったく違う手付きと視点で物語を綴るさまを次々にひもとける本書は、物静かだけれども、ちょっとびっくりするぐらいの賛沢をはらんでいる。小さい国々の国境を一日ごとに越えるように、それぞれの短篇の持つ風景と様子は、それぞれに違う心の動きをもたらしてくれる。しみじみすること、ぎょっとすること、笑ってしまうようなこと、罪の意識を感じてしまうこと、その他、言葉にしたこともない驚き。これらの優れた小説を読んで、わたしたちはどんなことでも書けるんだ、と勝手に火をつけられるような気分になる。これから読まれる皆さんは、どんなことでも読めるんだ、と前のめりで本書を開いていただければと思う。
著者プロフィール
松家仁之
マツイエ・マサシ
1958年、東京生まれ。編集者を経て、2012年、長篇小説『火山のふもとで』を発表(第64回読売文学賞受賞)。『沈むフランシス』(2013)、『優雅なのかどうか、わからない』(2014)につづき、『光の犬』は四作目。編著・共著に『新しい須賀敦子』『須賀敦子の手紙』、新潮クレスト・ブックス・アンソロジー『美しい子ども』ほか。
アンソニー・ドーア
Doerr,Anthony
1973年、オハイオ州クリーヴランド生まれ。デビュー短篇集『シェル・コレクター』(2002)で一躍脚光を浴び、O・ヘンリー賞、バーンズ&ノーブル・ディスカバー賞、ローマ賞、ニューヨーク公共図書館ヤング・ライオン賞など、多数の賞を受ける。二冊目の短篇集『メモリー・ウォール』はストーリー賞を受賞し、米主要三紙が年間ベスト作品に挙げた。『すべての見えない光』は2015年度のピュリツァー賞を受賞し、ニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに100週以上にわたってランクインしている。2016年8月現在、妻と二人の息子とともにアイダホ州ボイシに在住。
ジュンパ・ラヒリ
Lahiri,Jhumpa
1967年、ロンドン生まれ。両親ともコルカタ出身のベンガル人。2歳で渡米。コロンビア大学、ボストン大学大学院を経て、1999年「病気の通訳」でO・ヘンリー賞、同作収録の『停電の夜に』でピュリツァー賞、PEN/ヘミングウェイ賞、ニューヨーカー新人賞ほか受賞。2003年、長篇小説『その名にちなんで』発表。2008年刊行の『見知らぬ場所』でフランク・オコナー国際短篇賞を受賞。2013年、長篇小説『低地』を発表。家族とともにローマに移住し、イタリア語での創作を開始。2015年、エッセイ『ベつの言葉で』、2018年、長篇小説『わたしのいるところ』を発表。2022年からコロンビア大学で教鞭を執る。
ナム・リー
Le,Nam
1978年、ベトナム南部のラックザーに生まれる。1979年、生後3カ月で、両親とともにボートピープルとしてオーストラリアに渡る。メルボルン大学卒業。大手法律事務所勤務を経て、渡米。アイオワ大学ライターズ・ワークショップに学ぶ。2007年プッシュカート賞、2008年ディラン・トマス賞、2009年オーストラリア・プライム・ミニスター文学賞、メルボルン賞ほか多数受賞。NYでハーヴァード・レビューの文芸記者を務めるとともに、2009年にはライター・イン・レジデンスとして英国イースト・アングリア大学に滞在。現在、英語圏でもっとも期待されている新人作家のひとり。
リュドミラ・ウリツカヤ
Ulitskaya,Ludmila
1943年生れ。モスクワ大学(遺伝学専攻)卒業。『ソーネチカ』で一躍脚光を浴び、1996年、フランスのメディシス賞とイタリアのジュゼッペ・アツェルビ賞を受賞、2001年には『クコツキイの症例』でロシア・ブッカー賞、『通訳ダニエル・シュタイン』でボリシャヤ・クニーガ賞(2007年)とドイツのアレクサンドル・メーニ賞(2008年)を受賞。他に『子供時代』『それぞれの少女時代』『女が嘘をつくとき』など。2011年、シモーヌ・ド・ボーヴォワール賞を受賞し、ロシアで最も活躍する人気作家である。
ミランダ・ジュライ
July,Miranda
1974年ヴァーモント州生まれ。カリフォルニア大学サンタクルーズ校を中退後、ポートランドでパフォーマンス・アーティストとしての活動を開始。2005年、脚本・監督・主演を務めた初の長篇映画『君とボクの虹色の世界』がカンヌ国際映画祭でカメラ・ドール(新人監督賞)を受賞、大きな注目を浴びる。2007年、初めての短篇集『いちばんここに似合う人』でフランク・オコナー国際短篇賞を受賞。2011年、2作目の長篇映画『ザ・フューチャー』および、その制作過程に出会った人々をめぐるフォト・ドキュメンタリー『あなたを選んでくれるもの』を発表。2015年には初めての長篇小説となる『最初の悪い男』を刊行した。2024年に発表した2冊目となる長篇「All Fours」が全米図書賞のファイナリストに選ばれた。
クレメンス・マイヤー
Meyer,Clemens
1977年、東ドイツ・ハレ生まれ。建設作業、家具運送、警備などの仕事を経て、1998年から2003年までライプツィヒ・ドイツ文学研究所に学ぶ。ドイツ再統一前後の東ドイツの不良少年たちのリアルな生態を描いた初長篇『おれたちが夢見た頃』(2006)は、“東独版トレインスポッティング”などと評されてベストセラーに。多数の文学賞を受賞し、舞台化もされた。2008年、2作目となる『夜と灯りと』でライプツィヒ・ブック・フェア文学賞受賞。ライプツィヒ在住。
ディミトリ・フェルフルスト
Verhulst,Dimitri
1972年、ベルギーのオランダ語圏、フランダース生まれ。父母の離婚により父方の実家で少年時代を過ごす。大学のゲルマン語学科に進むがほどなく退学。ピザの宅配、市役所職員などのかたわら創作にとりくむ。1999年「隣の部屋」でデビュー。以後、毎年新作を発表。2006年刊行の『残念な日々』は、自身の子ども時代に材をとった連作短篇集。ベルギー、オランダで20万部のベストセラーとなり、金の栞賞、金のフクロウ文学賞読者賞、高校生によるインクトアープ賞を受賞。映画化され、カンヌ映画祭で芸術・実験映画賞を受賞している。2008年「くそったれな地上のくそったれな日々」刊行。オランダの権威あるリブリス文学賞を受賞。
ウェルズ・タワー
Tower,Wells
1973年バンクーバー生まれ。ノース・カロライナに育つ。ウェスリアン大学で人類学と社会学を学んだ後、コロンビア大学創作科で修士号を取得。2002年に短篇「茶色い海岸」でパリス・レビュー新人賞を受賞。『奪い尽くされ、焼き尽くされ』の表題作は、ジュンパ・ラヒリやアンソニー・ドーアの作品とともに『The Anchor Book of New American Short Stories』に収録された。『奪い尽くされ、焼き尽くされ』はフランク・オコナー賞最終候補となり、ニューヨーク公共図書館ヤング・ライオン賞を受賞、9カ国語に翻訳された。現在、コロンビア大学で教鞭を執るかたわら、ニューヨーク・タイムズ、ニューヨーカー、マクスウィーニーズ、パリス・レビュー等に小説およびノンフィクションを寄稿している。ブルックリンおよびノース・カロライナ在住。
ネイサン・イングランダー
Englander,Nathan
1970年、ニューヨーク州ロングアイランドのユダヤ教正統派コミュニティに生まれ、敬虔なユダヤ教徒の少年として成長。ニューヨーク州立大学在学中に初めてイスラエルを訪問。非宗教的知識人の存在にカルチャーショックを受け、やがて棄教。小説を書きはじめる。おもな著書に長篇小説『The Ministry of Special Cases』、短篇集『For the Relief of Unbearable Urges』(PEN/マラマッド賞、スー・カウフマン新人賞受賞)。現在ニューヨーク州ブルックリン在住。
ベルンハルト・シュリンク
Schlink,Bernhard
1944年ドイツ生まれ。小説家、法律家。ハイデルベルク大学、ベルリン自由大学で法律を学び、ボン大学、フンボルト大学などで教鞭をとる。1987年、『ゼルプの裁き』(共著)で作家デビュー。1995年刊行の『朗読者』は世界的ベストセラーとなり2008年に映画化された(邦題『愛を読むひと』)。他の作品に『週末』(2008)、『夏の嘘』(2010)、『階段を下りる女』(2014)、『オルガ』(2018)など。ベルリンおよびニューヨークに在住。
アリス・マンロー
Munro,Alice
(1931-2024)1931年、カナダ・オンタリオ州の田舎町に生まれる。書店経営を経て、1968年、初の短篇集 Dance of the Happy Shades(『ピアノ・レッスン』)がカナダでもっとも権威ある「総督文学賞」を受賞。以後、三度の総督文学賞、W・H・スミス賞、ペン・マラマッド賞、全米批評家協会賞ほか多くの賞を受賞。おもな作品に『イラクサ』『林檎の木の下で』『小説のように』『ディア・ライフ』『善き女の愛』『ジュリエット』など。チェーホフの正統な後継者、「短篇小説の女王」と賞され、2005年にはタイム誌の「世界でもっとも影響力のある100人」に選出。2009年、国際ブッカー賞受賞。2013年、カナダ初のノーベル文学賞受賞。