墜ちてゆく男
2,640円(税込)
発売日:2009/02/27
- 書籍
9・11から七年。米最大の作家が初めて「あの日」と対峙した、新たなる代表作。
2001年9月11日、世界貿易センタービルは崩壊する。窓外には落ちる人影。凍る時間。女好きでポーカー狂のエリートビジネスマン、キースはその壮絶なカタストロフを生き延びる。彼は妻と息子の元で新しい生に踏み出すかに見えたが――。全米の注視を浴びながら刊行された、アメリカを代表する作家の「あの日」への返歌。
第二部 アーンスト・ヘキンジャー
第三部 デイヴィッド・ジャニァック
書誌情報
読み仮名 | オチテユクオトコ |
---|---|
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 336ページ |
ISBN | 978-4-10-541805-2 |
C-CODE | 0097 |
ジャンル | 文芸作品、評論・文学研究 |
定価 | 2,640円 |
書評
忘却との闘い
一人の男が歩いている。灰や埃にまみれたスーツ姿の彼は、よく見ると手にスーツケースを持っている。九・一一テロの直後にマンハッタンで写された一枚の写真からドン・デリーロの探求が始まった。崩壊したタワーから逃げてきた彼の持つスーツケースがもし他人のものだったとしたら。『墜ちてゆく男』の主人公であるキースは鞄の中のIDを頼りに一人の女性を探り当てる。二人はあの日の細部にわたる記憶を分かち合うことで、精神的な死から自分たちを救い出す。「彼らはこういうことを互いにしか話せないのだ、退屈なほどに細かいディテールまで。しかし、これは退屈ではないし、細かすぎることもない」。その点で本作は何より記憶を巡る書である。
「ツァイト」紙のインタビューでデリーロは語っている。2004年にブッシュが再選された次の日からこの作品を書き出したと。デリーロが対抗したのはまさに、「テロとの戦争」というナショナリスティックな叫びの中にすべてを封じ込め、それ以外の物語を排除するという、いわば強制された忘却だった。だからこそ、タワーから墜ちていく男を捉えたもう一枚の写真どおりに、何度もビルや橋から真っ逆さまに落ち続けるパフォーマンス・アーティストが登場し、不快な光景を忘れ去ることを人々に禁じる。「もちろん、この男はあの瞬間を蘇らせようとしているのだ。燃え上がるタワーから人々が飛び降りた、あるいは飛び降りざるを得なかった瞬間」。あるいはキースの妻リアンは認知症初期の老人たちの思い出を書き留める手伝いをする。忘却に対抗するというこうした身振りは絶望的なものかもしれない。だがアメリカ国家とテロリストたち双方に共通する「大きな物語」へすべてを還元するという暴力に対抗するには、個人の持つ細かなエピソードの一つ一つを徹底して擁護するしかないではないか。「人人の会話や夢や思考を通して、小説家は個人の抱く恐れや喪失といった感覚を書くことができる。それは歴史家や伝記作家には無理なことだ」(「ツァイト」)。
デリーロは言う。「『墜ちてゆく男』の登場人物が語っているように、私もこう感じているのです。『私にはもうアメリカがよくわからんのだよ』」(「ツァイト」)。たとえば、どうしてアメリカ国民は九・一一のあとアフガン侵攻やイラク戦争へ無抵抗に滑り落ちていったのか。これがベトナム戦争のころだったら、あれほどの抵抗運動もあったのに。彼の言うアメリカとは何か。何より、中東を含めた世界中から人々が集まって、互いの巨大な距離を越え心を触れ合わせようとする運動のことだ。彼自身の両親もイタリアからやってきたし、作品に出てくる認知症の老人たちも様々な国が発給した古いパスポートを持っているだろう。だからこそブッシュの言うように内と外、友と敵を峻別することなどできはしないのだ。なぜならアメリカにいるほぼ全員がアメリカの外からきた人々なのだから。別居していたキースとリアンが息子への愛情から家族を再生させようと努力するのも、友敵の境界を突破しようとする試みの一例である。
さらにデリーロは、生き残った者たちだけではなく、死者の中にまで入り込む。事故現場でキースは友人のラムジーを助けることができなかった。だが彼はタワーから墜ちていく人々の中にラムジーを見る。あるいは空を舞う白いシャツに。「そのとき、空からシャツが落ちて来た。彼は歩きながらそれを見た。シャツは腕を懸命に振りながら落ちて来た」。誰も着る者がないまま腕を振るシャツ。そこにいるのは霊魂として生きるラムジーなのだろうか。そうだとしたら、彼は生き残った者たちに何を伝えようとしているのだろうか。死者たちのか細い声を聞き取れる耳を持つこと。政治ではなく文学の言葉で九・一一を語ることの意味がそこにある。正確な上岡訳を通して読者もその力を感じてほしい。
(とこう・こうじ アメリカ文学・文化)
波 2009年3月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
ドン・デリーロ
DeLillo,Don
1936年、ニューヨーク・ブロンクス生まれ。1971年、『アメリカーナ』でデビュー。1985年に『ホワイト・ノイズ』で全米図書賞を受賞。他の作品に『リブラ』(1988)、『アンダーワールド』(1997)、『ボディ・アーティスト』(2001)、『墜ちてゆく男』(2007)など。現代アメリカ文学を代表する作家であり、しばしばノーベル賞候補として名前が挙げられる。『コズモポリス』(2003)は、デイヴィッド・クローネンバーグにより2012年に映画化された。『天使エスメラルダ―9つの物語―』は初の短篇集。
上岡伸雄
カミオカ・ノブオ
1958年、東京生れ。学習院大学文学部教授、アメリカ文学専攻。著書に『ヴァーチャル・フィクション』など。訳書にグレアム・グリーン『情事の終り』、ベン・ファウンテン『ビリー・リンの永遠の一日』、シャーウッド・アンダーソン『ワインズバーグ、オハイオ』、タナハシ・コーツ『ウォーターダンサー』など多数。