ハイパーインフレの悪夢―ドイツ「国家破綻の歴史」は警告する―
2,420円(税込)
発売日:2011/05/27
- 書籍
- 電子書籍あり
貨幣価値の下落と物価の上昇が限度を超えたとき、私たちの日常は激変する。
100年前、大量の国債を発行し続けたドイツ。通貨安による好況を味わったのも束の間、やがて深刻な物価高騰が庶民の生活を襲う。失業と破産が増え、モラルが失われ、ありとあらゆる対立が噴出するなかで、ひとびとはどう行動し、社会がどう崩壊していったのか。破綻の前触れから末路までを生々しく描き出した迫真のドキュメント。
2010年版の刊行に寄せて
第1章 金を鉄に
第2章 喜びなき街
第3章 突きつけられた請求書
第4章 10億呆け
第5章 ハイパーインフレへの突入
第6章 1922年夏
第7章 ハプスブルクの遺産
第8章 秋の紙幣乱発
第9章 ルール紛争
第10章 1923年夏
第11章 ハーフェンシュタイン
第12章 奈落の底
第13章 シャハト
第14章 失業率の増大
第15章 あらわになった傷跡
終章
謝辞
訳者あとがき
書誌情報
読み仮名 | ハイパーインフレノアクムドイツコッカハタンノレキシハケイコクスル |
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発行形態 | 書籍、電子書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 320ページ |
ISBN | 978-4-10-506271-2 |
C-CODE | 0098 |
ジャンル | 経済学・経済事情 |
定価 | 2,420円 |
電子書籍 価格 | 2,420円 |
電子書籍 配信開始日 | 2022/12/23 |
書評
人間と社会を破壊するハイパーインフレの悪夢
子供の頃、当たり前のようにあるものがなくなったらどうなるんだろうとよく頭の中で思い浮かべていた。ちょうどブルーハーツの「情熱の薔薇」で「今まで覚えた全部出鱈目だったら面白い」と歌われた頃だ。
もし通貨が出鱈目になったらどうなるのだろうか。それが想像ではなく、第一次大戦後の欧州で現実に起きた様子をつぶさに描いたのが本書である。ハイパーインフレに見舞われたドイツ国民が大混乱する中で、自らの資産は守られているイギリスの駐ドイツ大使が冷静に状況を観察し本国に報告している。その報告書が縦軸となって描かれている。
読んでいて桁が全くわからなくなるほど通貨の価値が下落する。それがハイパーインフレだ。例えば一つの目安として、インフレ以前では5000億個の卵が買えた値段で、1個の卵しか買えなくなった。つまり通貨に5000億分の1の価値しかなくなったということだ。しかもそこまでいくのにかかった時間はたったの5年である。そのような状況下で、印象的なことが三つある。
一つは、ハイパーインフレの最中は人々が通貨の価値が下落しているとは思わないということだ。本書には何度も「一マルクは一マルク」という表現が出てくる。これは自国の通貨の価値は変わらないと信じていることを象徴している。例えば過去を振り返る中、次のようなコメントが紹介されている。
「“ドルがまた上がる”と、みんなが言っていました。でも実際には、ドルの値はそのままで、マルクが下がっていたんです。でも、マルクが下がっているとは、なかなか思えませんでした」
ドルが上がる、物価が上がるとは皆考えるが、マルクが下がっているとは考えなかった。それはまるで下りのエスカレーターに乗っているのに自分が降りているのではなく地面が上がっていると思うようなものだ。実際の下り方はエスカレーターのような生やさしいものではなく急降下に近かったが。
次にハイパーインフレは人間の醜い部分を最も暴き出すということだ。この本のタイトルはハイパーインフレの「悪夢」だが、ハイパーインフレが引きおこした最も恐ろしい出来事は、人間に対する失望ではないかと思う。皆平等に貧しくなるのであればまだ良かった。だが、ハイパーインフレは通貨の下落であって全ての価値の下落ではない。だからうまく価値が変化しないものを所有できた人間は、驚くべき早さで大富豪になっていった。うまくやってとてつもないお金持ちになる人がいる一方で、マルクにしがみついて全てを失う人もいた。一つの選択ミスで転落する人と上り詰める人が出てくる。汚職も溢れ、人が信じられなくなる。差別感情が渦巻き、嫉妬し、そしてその憎悪の一部がユダヤ人への迫害に向かっていく。
三つ目は、インフレの原因であるはずの通貨の過剰発行を、原因ではなく解決方法だと思っていたということだ。インフレの入り口は良かった。国債を発行しマルクが国中に溢れた。失業率は低下し、株価も上がった。ところが次第にそれに歯止めがきかなくなる。
本書を読んで思い出したことがある。私がまだアスリートだった時代に、長い間不調に苦しんでいる選手がいた。まだ定期的な血液検査も一般的ではなかった時代だ。あまりに調子が上がらないので、病院に行くと、これは貧血ですねと診断された。原因がわかったので鉄分を一生懸命とり始めた。するとみるみる調子が良くなった。これだと思った本人はどんどん鉄分をとった。するとしばらくして、調子が上がるどころかむしろ悪くなり始めた。まだ足りないんだと、どんどん鉄分の量を増やすとさらに悪化した。困り果ててまた病院に行ったところ、今度は鉄分の過剰摂取で胃腸にダメージがきているということだった。
小さな成功体験の後、「対策」だと思っていたものが問題を引き起こす「原因」になっていることに気がつかなくなっていくのだ。国債を発行しさえすれば景気が良くなるのだと学習してしまったかつてのドイツのように。
日本円に価値があるのは日本円を手に入れた後、次に誰かが欲しがってくれるとわかっているからだ。でも、ドイツで起きたように次の人が欲しがらないかもしれないという疑心暗鬼に駆られたらどうなるのだろうか。
お金が全てではないと言う。確かにそうだが、しかしお金の信頼そのものが失われた時、失われるのはお金だけでなく人間性もそうなのだろうと思う。直接的な原因とは本書では書かれていないが、このハイパーインフレの後、ヒトラーが台頭しナチスドイツが誕生して、そしてユダヤ人迫害が起きていく。人間性も通貨もそれは確かにあるのだとお互いが信じあうことで成り立っている極めて危ういものなのだ。
(ためすえ・だい 元陸上競技選手)
波 2023年1月号より
物価高と通貨安の先に何があるのか
「安いニッポン」が一転、値上げが止まらない。
ロシアによるウクライナ侵攻以降しばらくは原材料の高騰が原因だったが、最近では円安による輸入コスト増が大きな要因となっている。ウクライナ情勢が膠着し、円安の傾向も日米の金利差が拡大する限り続くとみられるため、物価高と通貨安というトレンドはしばらく変わらないだろう。複雑な要素が絡まり合い、かつてないスピードで進行する事態を前に、エコノミストなど専門家もセオリーを適用できず、メディアは事態を追いかけるのに必死だ。
政府は物価高対策として、大規模な財政支出を続ける。税収で足りない分をまかなう赤字国債(つまり借金)の額は1970年代後半から増加し続け、コロナ対策で爆発的に増えた。紙幣を刷ることで危機から脱するという戦後日本の“信仰”は強まるばかりだが、貨幣価値の下落と物価の上昇が限度を超えたとき、わたしたちの日常はどうなってしまうのか。身震いするほどの生々しさで記された歴史ノンフィクションが本作だ。
今から100年前、第一次世界大戦に敗北したドイツは、税収で財政支出をまかなえず、大量の国債を発行した。通貨安で輸出企業はうるおい(今の日本でも、たとえば商社は円安、資源高、インフレを追い風に史上空前の好決算となった)、失業率は低下、株式市場も活性化するが、やがて深刻な物価高騰が庶民の生活を襲う。
ジャーナリストの池上彰氏は本書所収の解説でこう書く。
〈インフレの扱いのむずかしい点のひとつは、緩やかなレベルであれば、経済が活性化することです。その甘い香りに誘われると、いつしか後戻りできなくなるからです〉
ハイパーインフレに突入したドイツでは失業と破産が増え、かつてはヨーロッパで最も法を尊んでいた国民からモラルが失われていく。それは緩慢な死のように、ゆっくりと進行した。
作家のパール・バックが書き留めたひとりの女性の声が紹介されている。
〈そのあいだには、マルクの下落が止まるかに見えた時期もあって、そのたび、わたしたちは希望を抱きました。口々によくこう言ったものです。「最悪の事態は過ぎ去ったようだ」そんな時期に、母は〔貸していた数軒の〕家を売りました。いい取り引きができたと思っていたようです。買ったときの2倍の値段で売れたのですから。でも、母が買った家具の値段は、5倍に値上がりしていました。(中略)最悪の事態は過ぎ去ってはいませんでした。ほどなく、またインフレが始まりました。以前よりも激しいインフレで、母や何百万人もの人々の貯蓄が、少しずつ飲み込まれていきました〉
若き日のアーネスト・ヘミングウェイは《トロント・デイリー・スター》の特派員としてフランスからドイツに入り、悲惨な状況を伝えていた。それによると、〈わたしは昨年の7月に、1日600マルクで妻と豪華なホテルに滞在した〉が、1年経たない1923年4月にシャンパンは1本3万8000マルク、サンドイッチは900マルク、ビールはジョッキ1杯350マルクになっていた。やがて物価は時間単位で上昇するようになり、1杯5000マルクのコーヒーが飲み終わったときには8000マルクに。やがて10万マルク紙幣が発行された3週間後に100万マルク紙幣の発行が準備される事態となる。
生活が立ち行かなくなれば、社会不安が増大するのも無理はない。ありとあらゆる対立が噴出するなかで、ひとびとはどう行動し、社会はどう崩壊していったのか。やがてヒトラーの登場につながる負のスパイラルを、著者のアダム・ファーガソンは同時代を生きた人の日記や報道、外交資料を縦横に駆使して描き出しているので、ぜひ追体験してほしい。
縦糸となるのは、イギリスの駐ドイツ大使が事態の推移を冷静に観察・分析し、本国に送り続けた報告書だ。ファーガソンは英ケンブリッジ大学で歴史学を修めたのち、タイムズ紙などで健筆をふるったジャーナリストだが、欧州統合にも深くかかわり、英外務省の特別顧問、欧州議会の議員も務めた。本作が史実を丹念に収集しながら、学術書ではなく、スリリングな読物になっているのは、著者の素養と問題意識、そして経験によるところが大きい。
本作は1975年にイギリスで刊行され、その後、しばらく絶版になっていたが、2010年、投資家ウォーレン・バフェット氏が「必読書」として推薦したという噂がきっかけとなって、古本市場で最高で1600ポンド(日本円にするとおよそ21万円)の値が付いたという。復刊後も好評で、英米では「埋もれた名著」として数多くの高評価を得ている。日本でも2011年の刊行以来、増刷を重ね、この10月にも重版出来となったそうだ。伝説のトレーダー・藤巻健史氏が「歴史が『生き抜く術』を教えてくれる」と評するように、先が読めない今こそ羅針盤となってくれる一冊だろう。
(かわだ・せいいち ジャーナリスト)
波 2022年12月号より
インタビュー/対談/エッセイ
紙幣が紙切れに変わるとき
長らくデフレに悩まされてきた日本で、にわかにハイパーインフレへの懸念が口にされるようになりました。1日単位、場合によっては数時間単位で物価が上昇する、猛烈なインフレのことです。
きっかけは東日本大震災でした。その復興費用をどう捻出するかで、与党から「国債の日銀引き受け」を求める声が出ました。政府の国債発行残高が天文学的数字になっている以上、新規の国債発行は苦しい。だから「日銀に直接買い取らせればいい」というのです。
これに反対する日銀や論者たちは、「国債の日銀引き受けはインフレの引き金になる。もしハイパーインフレになったら取り返しがつかない」と指摘します。その論拠のひとつが、この本で扱っているドイツの経験です。
1920年代のドイツでハイパーインフレが燃え上がった時、人々がどのように行動し、社会がどのように崩壊していったかを、著者は冷静な筆致で辿っています。
第一次世界大戦で敗北したドイツは、天文学的な賠償金を背負わされました。敗戦で経済がガタガタになったドイツにとって、財政支出の切り札になったのが、国債を大量発行してライヒスバンク(ドイツ帝国銀行)に買い取らせる手法でした。
市場に通貨マルクがあふれてマルク安が進むと、輸出商品の値段が下がり、ドイツ経済は活性化しました。企業の倒産は減少、失業率も戦勝国のフランスより低くなり、株式市場も活発になりました。企業経営者はインフレを歓迎しました。貨幣価値が下がれば、実質的な納税額も融資返済額も少なくてすむからです。
しかし、それは偽りの繁栄でした。深刻な物価高騰が庶民の生活を襲うと、農家は農産物を売り惜しむようになりました。都市部の高級住宅街では、子どもを思う母親たちが私邸内に勝手に入り込み、残飯目当てにゴミ箱をあさっていたといいます。
物価が時間単位で上昇するようになり、みんなが厖大な紙幣を使うため、大量に印刷しているのに紙幣不足に陥りました。1922年には、ライヒスバンクでの紙幣の印刷が追いつかず、州や地方自治体、企業に対して、認可と保証金納付を条件に緊急通貨の発行を許す法律が成立してしまいます。それでも現金不足は解消しません。ついには「紙幣の発行量を制限するのは、印刷所の能力と印刷工の体力だけになった」――悪夢としか表現しようのない事態の推移は、本書の見事な描写に委ねましょう。
近代において、貨幣とは「共同幻想」です。古代には、狩猟で得た動物の肉や魚を交換するという物理的な価値があった貨幣が、やがては中央銀行が発行した紙切れへと変化します。誰もがただの紙切れを貨幣(紙幣)と信じるからこそ、貨幣として通用するのです。そんな共同幻想によって支えられている以上、人々の政府への信頼が失われれば、それはただの紙切れになるのです。狸が人間を化かすのに使った葉っぱのように。
本の中で、イギリスの駐ドイツ大使の次のような言葉が紹介されています。
「インフレーションとは、いろいろな意味でドラッグのようなものだ」「最後には命取りになるとわかっていても、多くの困難に襲われたとき、人はその信奉者になってしまう」
それは日本にも当てはまります。戦前に政府が戦費捻出のために発行した国債を、当時の日銀が直接買い入れ、その分だけ紙幣を刷ったことで、悪性のインフレが発生してしまいました。この教訓があるからこそ、日銀は、冒頭に記した「国債の日銀引き受け」に大反対しているのです。
東日本大震災で生産基盤が失われ、莫大な復興資金がつぎ込まれることで、日本経済にもインフレの萌芽が見られます。財政秩序と金融節度を失わずに復興を目指すにはどうすればいいのか。ドイツの経験は、反面教師として役に立つはずです。
(いけがみ・あきら ジャーナリスト)
波 2011年6月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
アダム・ファーガソン
Fergusson,Adam
1932年スコットランド生まれ。イートン校からケンブリッジ大学に進み歴史学を修めたのち、ジャーナリストに。ザ・タイムズ紙などで健筆をふるった。また、欧州統合に深くかかわり、英外務省の特別顧問、欧州議会の議員を務めた。『ハイパーインフレの悪夢―ドイツ「国家破綻の歴史」は警告する―』の舞台は第一次世界大戦後のドイツ。紙幣の濫発により通貨の価値が下落し、誘発されたハイパーインフレによって社会が崩壊していく過程は、今でも貴重な教訓として引き合いに出される。その発生から終息に至るまでを当時の日記や同時代人の証言、外交資料などを駆使して生々しく描きだした本書は、欧米で数多くの高い評価を受けている。
黒輪篤嗣
クロワ・アツシ
翻訳家。上智大学文学部哲学科卒。ノンフィクション、ビジネス書の翻訳を幅広く手がける。おもな訳書に『ハイパーインフレの悪夢』、『アリババ』(ともに新潮社)、『レゴはなぜ世界で愛され続けているのか』(日本経済新聞出版社)、『ドーナツ経済学が世界を救う』(河出書房新社)などがある。
桐谷知未
キリヤ・トモミ
翻訳家。東京都出身、南イリノイ大学ジャーナリズム学科卒業。ファーガソン『ハイパーインフレの悪夢』(黒輪篤嗣との共訳)、ニクソン『パンデミックから何を学ぶか』、デイ『ヴィクトリア朝 病が変えた美と歴史』、ボール『人工培養された脳は「誰」なのか』、スティグリッツ『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』、ポズネット『不自然な自然の恵み』など訳書多数。
池上彰
イケガミ・アキラ
1950(昭和25)年、長野県生まれ。ジャーナリスト。東京工業大学教授。慶應大学経済学部卒業後、NHK入局。報道記者や番組キャスターなどを務め、2005年に独立。『伝える力』『おとなの教養』『新・戦争論』(共著)ほか著作多数。2013年、伊丹十三賞受賞。