おめでとう
1,100円(税込)
発売日:2013/03/29
- 書籍
卒業、入学、結婚、出産、旅立ち――あなたを寿ぐ、美しい32の名詩たち。
どんな高価な宝石よりも、どんな素敵な花束よりも、あなたを輝かせ、祝福するのは、一編の「詩/ことば」です。リルケから中原中也まで、武者小路実篤から辻征夫まで、ホイットマンからネイティブ・アメリカンのピュアな詩まで。気鋭の詩人が心をこめてセレクトした32の名詩が、これから一生、あなたに寄り添います。
目次
よろこびという名のおさなご ブレイク(寿岳文章 訳)
発光 吉原幸子
荒磯 高見 順
おまえがうまれた日 福中都生子
祝う――子馬の誕生 リンダ・ホーガン(青山みゆき 訳)
ある旅立ち 井上 靖
卒業式 谷川俊太郎
雪童子 大岡 信
結婚について ハリール・ジブラーン(神谷美恵子 訳)
挨拶 天野 忠
あなたなんかと 高橋順子
所帯をもって 高橋順子
婚約 辻 征夫
挨拶――結婚に際して 辻 征夫
結婚 新川和江
祝婚歌 吉野 弘
花嫁 池井昌樹
或る開墾者の新婚日記 草野心平
生きている貝 鈴木ユリイカ
すうぷ ぱくきょんみ
手 ペドロ・シモセ(細野 豊 訳)
春の夜のしなさだめ 永瀬清子
還暦 財部鳥子
もう一息 武者小路実篤
喜び 高見 順
おれ自身の歌(抄) ホイットマン(飯野友幸 訳)
天気 西脇順三郎
元旦 新川和江
湖上 中原中也
秋 リルケ(神品芳夫 訳)
たまゆらびと 室生犀星
なんてすてきなこと ルーシー・タパホンソ(青山みゆき 訳)
言葉――あとがきにかえて 小池昌代
発光 吉原幸子
荒磯 高見 順
おまえがうまれた日 福中都生子
祝う――子馬の誕生 リンダ・ホーガン(青山みゆき 訳)
ある旅立ち 井上 靖
卒業式 谷川俊太郎
雪童子 大岡 信
結婚について ハリール・ジブラーン(神谷美恵子 訳)
挨拶 天野 忠
あなたなんかと 高橋順子
所帯をもって 高橋順子
婚約 辻 征夫
挨拶――結婚に際して 辻 征夫
結婚 新川和江
祝婚歌 吉野 弘
花嫁 池井昌樹
或る開墾者の新婚日記 草野心平
生きている貝 鈴木ユリイカ
すうぷ ぱくきょんみ
手 ペドロ・シモセ(細野 豊 訳)
春の夜のしなさだめ 永瀬清子
還暦 財部鳥子
もう一息 武者小路実篤
喜び 高見 順
おれ自身の歌(抄) ホイットマン(飯野友幸 訳)
天気 西脇順三郎
元旦 新川和江
湖上 中原中也
秋 リルケ(神品芳夫 訳)
たまゆらびと 室生犀星
なんてすてきなこと ルーシー・タパホンソ(青山みゆき 訳)
言葉――あとがきにかえて 小池昌代
書誌情報
読み仮名 | オメデトウ |
---|---|
発行形態 | 書籍 |
判型 | 新書判 |
頁数 | 160ページ |
ISBN | 978-4-10-450903-4 |
C-CODE | 0092 |
ジャンル | 詩歌 |
定価 | 1,100円 |
インタビュー/対談/エッセイ
波 2013年4月号より 芽吹き
自分の誕生日すら忘れてしまうわたしは、正月以外、久しく、人から「おめでとう」と言われることもなく生きている。至極地味な毎日。めでたいことなんか、なんにもありゃしない。小学生のころ、「誕生会」なんかをやると、友達が何人も来てくれたが、主役のわたしはぼーっとしていた。祝われる本人というのは、いかなるときも空虚なものだ。だいたい、生まれただけでなぜ祝われなければならないのか。そんなことがなぜ、人間の「慣習」となっているのか。考え始めると、今もよくわからない。人がこの世に生まれでたことにはある忌まわしさがあって、お祓いのために、この言葉、「おめでとう」を交わし合うのではないかとすら思えてくる。
ところでわたしには、ああ、あれは確かに祝福がやってきた瞬間だったのだと、今も思い返す出来事がある。そのとき、わたしは貧相なアパートの六畳間に暮らしていた。これから眠ろうとして目を閉じたとき、天啓のように降りて来たものがあり、あっ、わたしは今、幸せだと思った。おかしなことに、それを証明する根拠は何一つなかった。ただ、わたしは自由だった。わたしはわたし自身だった。そんなことを思ったのはそのときだけで、その後、そのような純粋な形では、わたしに祝福らしい祝福はやってきていない。
とはいえ、すばらしい夕焼けを見たときなど、それを祝福と考えることがあるし、ふと見た電子時計が、11時11分だったり、4時44分だったりすると(こんなつまらないことが、けっこうしばしばある!)、よいことの前触れに違いないと考えたりする。つまりわたしは「おめでたい人」だ。ひどい中傷を受けたり、失恋したりといった苦しみも、距離を持って眺め直したとき、あれもまた祝福の変形だったのだと思い直すこともある。人間の内部の古い組織が崩壊し、自己が新しく組み替えられること――それこそが真の祝福であり、幸不幸は表面に見えているだけのものにすぎない。
人の不幸は蜜の味。自分が苦しい境遇にあるとき、人の幸福に関心など持てず、ましてや喜べないというのも至極当然のことだ。けれど同時に、人間には誰かを祝いたい、というより、「おめでとう」という言葉を口にしたいという不思議な欲望があるんじゃないか――と、このあいだ偶々、友だちに「おめでとう」と言う機会があって、わたしは思った。わたしは意地悪く、自分の心を観察したが、自分が「おめでとう」と言えた瞬間には、かすかだが確かな歓喜があった。あれ? と思った。わたしってそんないい人だったかしらね? なぜ、わたしたちは、自分以外の他者を祝えるのだろう。
誰かを祝う、その誰かには、もしかしたら、自分自身も入っているのではないか。ここが言葉の不思議な恩寵なのだが、「おめでとう」には、この言葉をはいた人こそを照らし返す、強い光が感じられる。ことほぐという行為の根本にあるのは、「我、発見せり」というあれ、あの思いなのではないだろうか。めったにないという意味でも、祝福は一種の奇跡だ。あなたの身の上におこったそれを、今、わたしは発見した、それを共に祝おうというのが「おめでとう」。とすれば、真にめでたいのは、祝われる人よりも、もしかしたら、そこに「祝福」を見た人のほうかもしれないのだ。
震災から二年を経た今年の春は、去年より一層、忌まわしいニュースに満ち、わたしも年々酷くなるばかりのアレルギーに苦んでいる。それでもわたしの内には、何者かに向かって「おめでとう」と言いたい気分が、この頃ぷつぷつと芽吹き始めているのを感じる。何だろう、このきもちのうごきは。今回、『おめでとう』というアンソロジー詩集を編集し、つくづく思ったことがある。祝福には様々な形があること。たとえそこにどんな苦しみや絶望が書かれていたとしても、希望がなければ人間は、詩を読んだりしないし書いたりすることもない。
ところでわたしには、ああ、あれは確かに祝福がやってきた瞬間だったのだと、今も思い返す出来事がある。そのとき、わたしは貧相なアパートの六畳間に暮らしていた。これから眠ろうとして目を閉じたとき、天啓のように降りて来たものがあり、あっ、わたしは今、幸せだと思った。おかしなことに、それを証明する根拠は何一つなかった。ただ、わたしは自由だった。わたしはわたし自身だった。そんなことを思ったのはそのときだけで、その後、そのような純粋な形では、わたしに祝福らしい祝福はやってきていない。
とはいえ、すばらしい夕焼けを見たときなど、それを祝福と考えることがあるし、ふと見た電子時計が、11時11分だったり、4時44分だったりすると(こんなつまらないことが、けっこうしばしばある!)、よいことの前触れに違いないと考えたりする。つまりわたしは「おめでたい人」だ。ひどい中傷を受けたり、失恋したりといった苦しみも、距離を持って眺め直したとき、あれもまた祝福の変形だったのだと思い直すこともある。人間の内部の古い組織が崩壊し、自己が新しく組み替えられること――それこそが真の祝福であり、幸不幸は表面に見えているだけのものにすぎない。
人の不幸は蜜の味。自分が苦しい境遇にあるとき、人の幸福に関心など持てず、ましてや喜べないというのも至極当然のことだ。けれど同時に、人間には誰かを祝いたい、というより、「おめでとう」という言葉を口にしたいという不思議な欲望があるんじゃないか――と、このあいだ偶々、友だちに「おめでとう」と言う機会があって、わたしは思った。わたしは意地悪く、自分の心を観察したが、自分が「おめでとう」と言えた瞬間には、かすかだが確かな歓喜があった。あれ? と思った。わたしってそんないい人だったかしらね? なぜ、わたしたちは、自分以外の他者を祝えるのだろう。
誰かを祝う、その誰かには、もしかしたら、自分自身も入っているのではないか。ここが言葉の不思議な恩寵なのだが、「おめでとう」には、この言葉をはいた人こそを照らし返す、強い光が感じられる。ことほぐという行為の根本にあるのは、「我、発見せり」というあれ、あの思いなのではないだろうか。めったにないという意味でも、祝福は一種の奇跡だ。あなたの身の上におこったそれを、今、わたしは発見した、それを共に祝おうというのが「おめでとう」。とすれば、真にめでたいのは、祝われる人よりも、もしかしたら、そこに「祝福」を見た人のほうかもしれないのだ。
震災から二年を経た今年の春は、去年より一層、忌まわしいニュースに満ち、わたしも年々酷くなるばかりのアレルギーに苦んでいる。それでもわたしの内には、何者かに向かって「おめでとう」と言いたい気分が、この頃ぷつぷつと芽吹き始めているのを感じる。何だろう、このきもちのうごきは。今回、『おめでとう』というアンソロジー詩集を編集し、つくづく思ったことがある。祝福には様々な形があること。たとえそこにどんな苦しみや絶望が書かれていたとしても、希望がなければ人間は、詩を読んだりしないし書いたりすることもない。
(こいけ・まさよ 詩人)
著者プロフィール
小池昌代
コイケ・マサヨ
1959年、東京都江東区出身。津田塾大学国際関係学科卒業。第一詩集『水の町から歩きだして』刊行以後、詩と小説を書き続ける。主な詩集に『永遠に来ないバス』(現代詩花椿賞)、『もっとも官能的な部屋』(高見順賞)、『地上を渡る声』、『コルカタ』(萩原朔太郎賞)など。その他、短篇集『タタド』(表題作で川端康成文学賞)、『自虐蒲団』、『弦と響』など。
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