いちばん長い夜に
1,870円(税込)
発売日:2013/01/31
- 書籍
わたしは、まだやり直せるのだろうか? 幸せになって、いいのだろうか?
刑務所(ムショ)で知合った前科(マエ)持ちの芭子と綾香は、東京下町で肩を寄せ合うように暮らし始めたが――。健気に生きる彼女たちのサスペンスフルな日常は、やがて大震災によって激しく変化していく。二人は、新しい人生の扉を見つけられるのだろうか? NHKドラマ(「いつか陽のあたる場所で」2013年1月8日スタート)原作シリーズ、感動の完結篇!
目次
犬も歩けば
銀杏日和
その日にかぎって
いちばん長い夜
その扉を開けて
こころの振り子
銀杏日和
その日にかぎって
いちばん長い夜
その扉を開けて
こころの振り子
あとがき
書誌情報
読み仮名 | イチバンナガイヨルニ |
---|---|
雑誌から生まれた本 | yom yomから生まれた本 |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判 |
頁数 | 376ページ |
ISBN | 978-4-10-371013-4 |
C-CODE | 0093 |
ジャンル | 文芸作品、文学賞受賞作家 |
定価 | 1,870円 |
書評
波 2013年2月号より 『いちばん長い夜に』刊行記念特集
◆北上次郎/彼女たちの「それから」
◆原 幹恵/小さなことでも笑っていたい
北上次郎/彼女たちの「それから」
乃南アサの「マエ持ち女二人組」シリーズの第3弾である。このシリーズを知らない読者のために、まずは簡単にご紹介しておく。主人公は小森谷芭子三十歳、江口綾香四十二歳。この二人である。彼女たちがどういう関係なのかについては本書から引く。
「前科(マエ)持ちの刑務所(ムショ)仲間。それが芭子と綾香の関係だった。/犯した罪の内容も、受けた量刑も違う。だが罪の代償として、刑務所(あそこ)に入っただけでなく、それまで住んでいた家、親兄弟、友人知人といったすべてのものを喪い、天涯孤独の身の上になった点は同じだった。他に誰一人として頼る相手もいない。だからこそ住まいだけは別だが、二人で文字通り肩を寄せ合い、ひたすら目立たないように、ひっそりと暮らしている」
もう少し詳しく書いておくと、小森谷芭子は大学生のときに新宿歌舞伎町のホストにいれあげ、貢ぐ金欲しさに借金を重ね、それでも足りなくて、伝言ダイヤルで男をホテルに誘い眠らせたあとに財布を抜き取るという犯罪を犯してしまう。結局は昏酔強盗罪で七年服役。対する江口綾香は夫の暴力に我慢していたものの、わが子にまで暴力が及ぶことを恐れ、夫を殺害。その事情を考慮されて五年の刑。こうして刑務所内で二人は知り合い、出所してからも谷中でひっそりと寄り添うように暮らしている――というわけだ。
週に数回は一緒に食事をするが、芭子の家にきて綾香が料理を作ってくれたり(そうして何も知らなかった芭子が、少しずつあらゆることを覚える)、居酒屋「おりょう」に行ったりする。休みの前夜にその近所の店でほんの少しの贅沢を味わうのが、二人のささやかな楽しみである。
違うのは、家族から一方的に、戸籍から外されることの代償に、祖母の家と財産を分与された芭子に対し、綾香は将来パン屋さんを開くのが夢ではあるものの、家賃や生活費を稼ぐのがやっとで、資金がなかなか溜まらないこと。もう一つ大きな違いがあるのだが、それは後述する。
これまで、綾香が詐欺にあってパン屋開業のために溜めた資金の大半を失ったり(『いつか陽のあたる場所で』)、懸賞に当たって大阪旅行に二人で出かけたら、綾香の高校時代の同級生に会ってもう故郷には帰ってくんなよと言われたり(『すれ違う背中を』)、さまざまなことがあったが、それらを未読の方でも大丈夫。この二人にこれまでどんなことがあったのか気になる方は、本書をお読みになってから遡ればいい。
このシリーズに重要な脇役として登場する警察官の高木聖大くんが『ボクの町』『駆けこみ交番』では主役となっていることや、季節感に溢れていてその季節ごとの食べ物がとても美味しそうであることも重要だが、本書の最大のキモは、芭子が綾香の息子の消息を探しに仙台を訪れる後半の展開だ。
芭子は米さえ満足に炊けない無知な娘だった。当座の生活に困らない金を渡されたものの、一人暮らしも初めてで、誰に頼ることも出来ず、近所の誰かが自分を前科者と知っているのではないか。そう思ったら外出もできない。少し遅れて出所してきた綾香がかねてから約束していた通りに訪ねてくれるまでは、引きこもりのような暮らし方をしていた。そんな芭子に、綾香は米の研ぎ方から始まって、だしの取り方、洗濯の仕方、掃除のコツにいたるまで教えてくれた。ならば、自分も綾香に何かしたい。そう思って、綾香の故郷である仙台を訪れるのである。
そこで彼女はあの「東日本大震災」に遭遇する。たくさんの命が失われた現場に立つことになる。この後半の展開こそが本書の読みどころであろうからここに詳しくは書かないが、芭子と綾香の違いがこのことによって突出するのだ。
「自分たちは互いに一線を越えた経験を持つものだが、芭子の越えた一線と、綾香の越えた一線とは、思っている以上に違うのかも知れない」
とそれまでも漠然と芭子は思っていたのだが、ではどう違うのか。その違いを、たくさんの命の喪失という大災害が鋭く照射するのである。シリーズ第1作『いつか陽のあたる場所で』のときにまさかこうなるとは思ってもいなかった。作者のあとがきを読むと、これでこの「マエ持ち女二人組」シリーズは終わるという。彼女たちが真摯に生きるかぎり、それは当然の帰結であり、私たちはその新しい旅立ちを見送るしかない。一抹の淋しさも禁じえないが、しかし彼女たちはどこかで必ず生き続ける。精一杯、生き続ける。その姿を思い描くことが、私たちの力になるはずだ。それがこのシリーズの意味だったのだといまになって気づくのである。
原 幹恵/小さなことでも笑っていたい
今年のお正月は、実家でこたつに入りながら、乃南アサさんの『いちばん長い夜に』のゲラを読みながら過ごした。芭子ちゃん(二十代半ばのわたしよりいくらか歳上なのに、なぜか芭子ちゃんと呼んでしまう)と綾香さんを描いていく短篇小説の連作集だ。二人はそれぞれ性格も年齢(綾香さんが一回りくらい上)も違うけれど、刑務所で知り合って(犯した罪も全然違う)、出所した今は東京の下町で肩を寄せ合うようにして暮らしている。二人は、罪は懲役という形で償ったとはいえ、家族からは見捨てられたままだし、過去がバレないかと周囲の目に怯え、自分たちの犯した罪について折に触れては考えている。わたしは、B4サイズのゲラを二つに折り、短篇ごとに大きなホチキスで止めて、六冊の薄い本のような形にして読み進めていった。
「あとがき」で、乃南さんがこの小説を「『あえて何も起こらない話』にしようと思った」と書かれているように、ここには海賊も王子様も出てこないし、密室殺人も時刻表も出てこない。ささやかな日常の出来事が季節感と共に丁寧に描かれていくのだが、「前科(マエ)持ち」という設定が効果的で、芭子ちゃんや綾香さんの切ない心理がひりひりするようにわかるから、飽きる暇がない。生活のわずかな起伏の中で、彼女たちは幸せや希望を感じもして、わたしたち読者も一緒にほっこりした気持ちになっていく。ゲラというものが物珍しかったのか、母も寄ってきて、何気なく読み始めたらたちまち夢中になったらしく、こたつの向う側から「ミカン食べてないで続きを読んで、早く廻してよ」なんて。母娘で同じ小説を同時に読むのは初めての経験。
ところが、計らずも、激しい〈事件〉が起きてしまう。小説の半ばで、あの東日本大震災が芭子ちゃんと綾香さんを襲うのだ。芭子ちゃんが仙台で地震に遭遇する場面は迫真に満ち満ちており、「ひょっとして作者の方は実際に被災したのかな……」と思っていたら、やはり「あとがき」で、この小説の取材のために訪れた仙台で地震に遭われたことがわかった(あとで母は、「私も、そうじゃないかなと思っていたの」と自慢した)。
わたしは母の催促が聞こえないふりをして、時折読むのを休んで、あの日のことを思い返した。あの午後二時四十六分、わたしは早めに仕事を終えて、帰宅途中だった。街なかで沢山の鳥(カラス?)が一斉に鳴き始め、不思議に思った次の瞬間、激しく揺れ始めた。何かが割れる音と悲鳴、ビルから走り出てくる人たち。何時間かかけて自宅へ辿り着くと、引っ越したばかりでまだソファもなかったので床へ座り込んで、やはり床へ直に置いてあったテレビを寒さに震えながら見続けた。まだあの夜のうちは、津波や原発の映像も少なかった替りに、何度も繰り返し、土砂で生き埋めになった幼い姉妹のニュースが流れていた。彼女たちは、手を握り合った姿で発見されたのだった。次の日の仕事はバラエティ番組の収録で、みんな笑顔で明るく騒がしくいつも通りに進行したけれど、余震は絶え間なく続き、カメラに映らないわたしたちの足元にはヘルメットなどの防災グッズ一式が置かれていた。
大震災が、他人の目に怯えながら暮らしていた芭子ちゃんに、そしてかつて夫を殺した(DVを振るう彼から子供を守るためであり、裁判で情状酌量もされたとはいえ)綾香さんに、どんな影響を与えたかはこの小説を読んで確かめて下さい。もちろん、二人の関係も同じままではいられない。大切な人との距離について、あるいは関係を続けるとは何かについて、わたしは改めて考え込んでしまった。
もう一つ、自分自身に引きつけて思ったこと。最近わたしは、グラビアなどで〈作った自分〉を出すことにためらいを感じるようになった。以前は、自分をきちんと作らなきゃと思って頑張っていたのに。今は、作り笑顔ではなくて、その撮影現場の光を感じ、匂いを感じ、風を感じている、ありのままの自分が映ればいいなと思うようになったのだ。この変化は、ひょっとすると、周囲の目から隠れるように生きてきた芭子ちゃんが徐々に前向きに生きて行こうとし始める道のりと、どこか似ているのではないかとふと思った。
冒頭の短篇「犬も歩けば」はこんな文章で終わっている。「こうやって小さなことでも笑っていたい。そんな毎日を過ごせれば十分だと思いながら、芭子は『何よ』と唇を尖らせて、綾香が笑っているのを見つめていた」。
ありのままで暮らしていきながら、大切な人と些細なことで笑いあうことができれば、もうそれでいいなー、とわたしも芭子ちゃんのように願う。
このようにして、『いちばん長い夜に』という本は、わたしの大切な一冊になった。
◆原 幹恵/小さなことでも笑っていたい
北上次郎/彼女たちの「それから」
乃南アサの「マエ持ち女二人組」シリーズの第3弾である。このシリーズを知らない読者のために、まずは簡単にご紹介しておく。主人公は小森谷芭子三十歳、江口綾香四十二歳。この二人である。彼女たちがどういう関係なのかについては本書から引く。
「前科(マエ)持ちの刑務所(ムショ)仲間。それが芭子と綾香の関係だった。/犯した罪の内容も、受けた量刑も違う。だが罪の代償として、刑務所(あそこ)に入っただけでなく、それまで住んでいた家、親兄弟、友人知人といったすべてのものを喪い、天涯孤独の身の上になった点は同じだった。他に誰一人として頼る相手もいない。だからこそ住まいだけは別だが、二人で文字通り肩を寄せ合い、ひたすら目立たないように、ひっそりと暮らしている」
もう少し詳しく書いておくと、小森谷芭子は大学生のときに新宿歌舞伎町のホストにいれあげ、貢ぐ金欲しさに借金を重ね、それでも足りなくて、伝言ダイヤルで男をホテルに誘い眠らせたあとに財布を抜き取るという犯罪を犯してしまう。結局は昏酔強盗罪で七年服役。対する江口綾香は夫の暴力に我慢していたものの、わが子にまで暴力が及ぶことを恐れ、夫を殺害。その事情を考慮されて五年の刑。こうして刑務所内で二人は知り合い、出所してからも谷中でひっそりと寄り添うように暮らしている――というわけだ。
週に数回は一緒に食事をするが、芭子の家にきて綾香が料理を作ってくれたり(そうして何も知らなかった芭子が、少しずつあらゆることを覚える)、居酒屋「おりょう」に行ったりする。休みの前夜にその近所の店でほんの少しの贅沢を味わうのが、二人のささやかな楽しみである。
違うのは、家族から一方的に、戸籍から外されることの代償に、祖母の家と財産を分与された芭子に対し、綾香は将来パン屋さんを開くのが夢ではあるものの、家賃や生活費を稼ぐのがやっとで、資金がなかなか溜まらないこと。もう一つ大きな違いがあるのだが、それは後述する。
これまで、綾香が詐欺にあってパン屋開業のために溜めた資金の大半を失ったり(『いつか陽のあたる場所で』)、懸賞に当たって大阪旅行に二人で出かけたら、綾香の高校時代の同級生に会ってもう故郷には帰ってくんなよと言われたり(『すれ違う背中を』)、さまざまなことがあったが、それらを未読の方でも大丈夫。この二人にこれまでどんなことがあったのか気になる方は、本書をお読みになってから遡ればいい。
このシリーズに重要な脇役として登場する警察官の高木聖大くんが『ボクの町』『駆けこみ交番』では主役となっていることや、季節感に溢れていてその季節ごとの食べ物がとても美味しそうであることも重要だが、本書の最大のキモは、芭子が綾香の息子の消息を探しに仙台を訪れる後半の展開だ。
芭子は米さえ満足に炊けない無知な娘だった。当座の生活に困らない金を渡されたものの、一人暮らしも初めてで、誰に頼ることも出来ず、近所の誰かが自分を前科者と知っているのではないか。そう思ったら外出もできない。少し遅れて出所してきた綾香がかねてから約束していた通りに訪ねてくれるまでは、引きこもりのような暮らし方をしていた。そんな芭子に、綾香は米の研ぎ方から始まって、だしの取り方、洗濯の仕方、掃除のコツにいたるまで教えてくれた。ならば、自分も綾香に何かしたい。そう思って、綾香の故郷である仙台を訪れるのである。
そこで彼女はあの「東日本大震災」に遭遇する。たくさんの命が失われた現場に立つことになる。この後半の展開こそが本書の読みどころであろうからここに詳しくは書かないが、芭子と綾香の違いがこのことによって突出するのだ。
「自分たちは互いに一線を越えた経験を持つものだが、芭子の越えた一線と、綾香の越えた一線とは、思っている以上に違うのかも知れない」
とそれまでも漠然と芭子は思っていたのだが、ではどう違うのか。その違いを、たくさんの命の喪失という大災害が鋭く照射するのである。シリーズ第1作『いつか陽のあたる場所で』のときにまさかこうなるとは思ってもいなかった。作者のあとがきを読むと、これでこの「マエ持ち女二人組」シリーズは終わるという。彼女たちが真摯に生きるかぎり、それは当然の帰結であり、私たちはその新しい旅立ちを見送るしかない。一抹の淋しさも禁じえないが、しかし彼女たちはどこかで必ず生き続ける。精一杯、生き続ける。その姿を思い描くことが、私たちの力になるはずだ。それがこのシリーズの意味だったのだといまになって気づくのである。
(きたがみ・じろう 文芸評論家)
原 幹恵/小さなことでも笑っていたい
今年のお正月は、実家でこたつに入りながら、乃南アサさんの『いちばん長い夜に』のゲラを読みながら過ごした。芭子ちゃん(二十代半ばのわたしよりいくらか歳上なのに、なぜか芭子ちゃんと呼んでしまう)と綾香さんを描いていく短篇小説の連作集だ。二人はそれぞれ性格も年齢(綾香さんが一回りくらい上)も違うけれど、刑務所で知り合って(犯した罪も全然違う)、出所した今は東京の下町で肩を寄せ合うようにして暮らしている。二人は、罪は懲役という形で償ったとはいえ、家族からは見捨てられたままだし、過去がバレないかと周囲の目に怯え、自分たちの犯した罪について折に触れては考えている。わたしは、B4サイズのゲラを二つに折り、短篇ごとに大きなホチキスで止めて、六冊の薄い本のような形にして読み進めていった。
「あとがき」で、乃南さんがこの小説を「『あえて何も起こらない話』にしようと思った」と書かれているように、ここには海賊も王子様も出てこないし、密室殺人も時刻表も出てこない。ささやかな日常の出来事が季節感と共に丁寧に描かれていくのだが、「前科(マエ)持ち」という設定が効果的で、芭子ちゃんや綾香さんの切ない心理がひりひりするようにわかるから、飽きる暇がない。生活のわずかな起伏の中で、彼女たちは幸せや希望を感じもして、わたしたち読者も一緒にほっこりした気持ちになっていく。ゲラというものが物珍しかったのか、母も寄ってきて、何気なく読み始めたらたちまち夢中になったらしく、こたつの向う側から「ミカン食べてないで続きを読んで、早く廻してよ」なんて。母娘で同じ小説を同時に読むのは初めての経験。
ところが、計らずも、激しい〈事件〉が起きてしまう。小説の半ばで、あの東日本大震災が芭子ちゃんと綾香さんを襲うのだ。芭子ちゃんが仙台で地震に遭遇する場面は迫真に満ち満ちており、「ひょっとして作者の方は実際に被災したのかな……」と思っていたら、やはり「あとがき」で、この小説の取材のために訪れた仙台で地震に遭われたことがわかった(あとで母は、「私も、そうじゃないかなと思っていたの」と自慢した)。
わたしは母の催促が聞こえないふりをして、時折読むのを休んで、あの日のことを思い返した。あの午後二時四十六分、わたしは早めに仕事を終えて、帰宅途中だった。街なかで沢山の鳥(カラス?)が一斉に鳴き始め、不思議に思った次の瞬間、激しく揺れ始めた。何かが割れる音と悲鳴、ビルから走り出てくる人たち。何時間かかけて自宅へ辿り着くと、引っ越したばかりでまだソファもなかったので床へ座り込んで、やはり床へ直に置いてあったテレビを寒さに震えながら見続けた。まだあの夜のうちは、津波や原発の映像も少なかった替りに、何度も繰り返し、土砂で生き埋めになった幼い姉妹のニュースが流れていた。彼女たちは、手を握り合った姿で発見されたのだった。次の日の仕事はバラエティ番組の収録で、みんな笑顔で明るく騒がしくいつも通りに進行したけれど、余震は絶え間なく続き、カメラに映らないわたしたちの足元にはヘルメットなどの防災グッズ一式が置かれていた。
大震災が、他人の目に怯えながら暮らしていた芭子ちゃんに、そしてかつて夫を殺した(DVを振るう彼から子供を守るためであり、裁判で情状酌量もされたとはいえ)綾香さんに、どんな影響を与えたかはこの小説を読んで確かめて下さい。もちろん、二人の関係も同じままではいられない。大切な人との距離について、あるいは関係を続けるとは何かについて、わたしは改めて考え込んでしまった。
もう一つ、自分自身に引きつけて思ったこと。最近わたしは、グラビアなどで〈作った自分〉を出すことにためらいを感じるようになった。以前は、自分をきちんと作らなきゃと思って頑張っていたのに。今は、作り笑顔ではなくて、その撮影現場の光を感じ、匂いを感じ、風を感じている、ありのままの自分が映ればいいなと思うようになったのだ。この変化は、ひょっとすると、周囲の目から隠れるように生きてきた芭子ちゃんが徐々に前向きに生きて行こうとし始める道のりと、どこか似ているのではないかとふと思った。
冒頭の短篇「犬も歩けば」はこんな文章で終わっている。「こうやって小さなことでも笑っていたい。そんな毎日を過ごせれば十分だと思いながら、芭子は『何よ』と唇を尖らせて、綾香が笑っているのを見つめていた」。
ありのままで暮らしていきながら、大切な人と些細なことで笑いあうことができれば、もうそれでいいなー、とわたしも芭子ちゃんのように願う。
このようにして、『いちばん長い夜に』という本は、わたしの大切な一冊になった。
(はら・みきえ 女優)
◆北上次郎/彼女たちの「それから」
◆原 幹恵/小さなことでも笑っていたい
北上次郎/彼女たちの「それから」
乃南アサの「マエ持ち女二人組」シリーズの第3弾である。このシリーズを知らない読者のために、まずは簡単にご紹介しておく。主人公は小森谷芭子三十歳、江口綾香四十二歳。この二人である。彼女たちがどういう関係なのかについては本書から引く。
「前科(マエ)持ちの刑務所(ムショ)仲間。それが芭子と綾香の関係だった。/犯した罪の内容も、受けた量刑も違う。だが罪の代償として、刑務所(あそこ)に入っただけでなく、それまで住んでいた家、親兄弟、友人知人といったすべてのものを喪い、天涯孤独の身の上になった点は同じだった。他に誰一人として頼る相手もいない。だからこそ住まいだけは別だが、二人で文字通り肩を寄せ合い、ひたすら目立たないように、ひっそりと暮らしている」
もう少し詳しく書いておくと、小森谷芭子は大学生のときに新宿歌舞伎町のホストにいれあげ、貢ぐ金欲しさに借金を重ね、それでも足りなくて、伝言ダイヤルで男をホテルに誘い眠らせたあとに財布を抜き取るという犯罪を犯してしまう。結局は昏酔強盗罪で七年服役。対する江口綾香は夫の暴力に我慢していたものの、わが子にまで暴力が及ぶことを恐れ、夫を殺害。その事情を考慮されて五年の刑。こうして刑務所内で二人は知り合い、出所してからも谷中でひっそりと寄り添うように暮らしている――というわけだ。
週に数回は一緒に食事をするが、芭子の家にきて綾香が料理を作ってくれたり(そうして何も知らなかった芭子が、少しずつあらゆることを覚える)、居酒屋「おりょう」に行ったりする。休みの前夜にその近所の店でほんの少しの贅沢を味わうのが、二人のささやかな楽しみである。
違うのは、家族から一方的に、戸籍から外されることの代償に、祖母の家と財産を分与された芭子に対し、綾香は将来パン屋さんを開くのが夢ではあるものの、家賃や生活費を稼ぐのがやっとで、資金がなかなか溜まらないこと。もう一つ大きな違いがあるのだが、それは後述する。
これまで、綾香が詐欺にあってパン屋開業のために溜めた資金の大半を失ったり(『いつか陽のあたる場所で』)、懸賞に当たって大阪旅行に二人で出かけたら、綾香の高校時代の同級生に会ってもう故郷には帰ってくんなよと言われたり(『すれ違う背中を』)、さまざまなことがあったが、それらを未読の方でも大丈夫。この二人にこれまでどんなことがあったのか気になる方は、本書をお読みになってから遡ればいい。
このシリーズに重要な脇役として登場する警察官の高木聖大くんが『ボクの町』『駆けこみ交番』では主役となっていることや、季節感に溢れていてその季節ごとの食べ物がとても美味しそうであることも重要だが、本書の最大のキモは、芭子が綾香の息子の消息を探しに仙台を訪れる後半の展開だ。
芭子は米さえ満足に炊けない無知な娘だった。当座の生活に困らない金を渡されたものの、一人暮らしも初めてで、誰に頼ることも出来ず、近所の誰かが自分を前科者と知っているのではないか。そう思ったら外出もできない。少し遅れて出所してきた綾香がかねてから約束していた通りに訪ねてくれるまでは、引きこもりのような暮らし方をしていた。そんな芭子に、綾香は米の研ぎ方から始まって、だしの取り方、洗濯の仕方、掃除のコツにいたるまで教えてくれた。ならば、自分も綾香に何かしたい。そう思って、綾香の故郷である仙台を訪れるのである。
そこで彼女はあの「東日本大震災」に遭遇する。たくさんの命が失われた現場に立つことになる。この後半の展開こそが本書の読みどころであろうからここに詳しくは書かないが、芭子と綾香の違いがこのことによって突出するのだ。
「自分たちは互いに一線を越えた経験を持つものだが、芭子の越えた一線と、綾香の越えた一線とは、思っている以上に違うのかも知れない」
とそれまでも漠然と芭子は思っていたのだが、ではどう違うのか。その違いを、たくさんの命の喪失という大災害が鋭く照射するのである。シリーズ第1作『いつか陽のあたる場所で』のときにまさかこうなるとは思ってもいなかった。作者のあとがきを読むと、これでこの「マエ持ち女二人組」シリーズは終わるという。彼女たちが真摯に生きるかぎり、それは当然の帰結であり、私たちはその新しい旅立ちを見送るしかない。一抹の淋しさも禁じえないが、しかし彼女たちはどこかで必ず生き続ける。精一杯、生き続ける。その姿を思い描くことが、私たちの力になるはずだ。それがこのシリーズの意味だったのだといまになって気づくのである。
原 幹恵/小さなことでも笑っていたい
今年のお正月は、実家でこたつに入りながら、乃南アサさんの『いちばん長い夜に』のゲラを読みながら過ごした。芭子ちゃん(二十代半ばのわたしよりいくらか歳上なのに、なぜか芭子ちゃんと呼んでしまう)と綾香さんを描いていく短篇小説の連作集だ。二人はそれぞれ性格も年齢(綾香さんが一回りくらい上)も違うけれど、刑務所で知り合って(犯した罪も全然違う)、出所した今は東京の下町で肩を寄せ合うようにして暮らしている。二人は、罪は懲役という形で償ったとはいえ、家族からは見捨てられたままだし、過去がバレないかと周囲の目に怯え、自分たちの犯した罪について折に触れては考えている。わたしは、B4サイズのゲラを二つに折り、短篇ごとに大きなホチキスで止めて、六冊の薄い本のような形にして読み進めていった。
「あとがき」で、乃南さんがこの小説を「『あえて何も起こらない話』にしようと思った」と書かれているように、ここには海賊も王子様も出てこないし、密室殺人も時刻表も出てこない。ささやかな日常の出来事が季節感と共に丁寧に描かれていくのだが、「前科(マエ)持ち」という設定が効果的で、芭子ちゃんや綾香さんの切ない心理がひりひりするようにわかるから、飽きる暇がない。生活のわずかな起伏の中で、彼女たちは幸せや希望を感じもして、わたしたち読者も一緒にほっこりした気持ちになっていく。ゲラというものが物珍しかったのか、母も寄ってきて、何気なく読み始めたらたちまち夢中になったらしく、こたつの向う側から「ミカン食べてないで続きを読んで、早く廻してよ」なんて。母娘で同じ小説を同時に読むのは初めての経験。
ところが、計らずも、激しい〈事件〉が起きてしまう。小説の半ばで、あの東日本大震災が芭子ちゃんと綾香さんを襲うのだ。芭子ちゃんが仙台で地震に遭遇する場面は迫真に満ち満ちており、「ひょっとして作者の方は実際に被災したのかな……」と思っていたら、やはり「あとがき」で、この小説の取材のために訪れた仙台で地震に遭われたことがわかった(あとで母は、「私も、そうじゃないかなと思っていたの」と自慢した)。
わたしは母の催促が聞こえないふりをして、時折読むのを休んで、あの日のことを思い返した。あの午後二時四十六分、わたしは早めに仕事を終えて、帰宅途中だった。街なかで沢山の鳥(カラス?)が一斉に鳴き始め、不思議に思った次の瞬間、激しく揺れ始めた。何かが割れる音と悲鳴、ビルから走り出てくる人たち。何時間かかけて自宅へ辿り着くと、引っ越したばかりでまだソファもなかったので床へ座り込んで、やはり床へ直に置いてあったテレビを寒さに震えながら見続けた。まだあの夜のうちは、津波や原発の映像も少なかった替りに、何度も繰り返し、土砂で生き埋めになった幼い姉妹のニュースが流れていた。彼女たちは、手を握り合った姿で発見されたのだった。次の日の仕事はバラエティ番組の収録で、みんな笑顔で明るく騒がしくいつも通りに進行したけれど、余震は絶え間なく続き、カメラに映らないわたしたちの足元にはヘルメットなどの防災グッズ一式が置かれていた。
大震災が、他人の目に怯えながら暮らしていた芭子ちゃんに、そしてかつて夫を殺した(DVを振るう彼から子供を守るためであり、裁判で情状酌量もされたとはいえ)綾香さんに、どんな影響を与えたかはこの小説を読んで確かめて下さい。もちろん、二人の関係も同じままではいられない。大切な人との距離について、あるいは関係を続けるとは何かについて、わたしは改めて考え込んでしまった。
もう一つ、自分自身に引きつけて思ったこと。最近わたしは、グラビアなどで〈作った自分〉を出すことにためらいを感じるようになった。以前は、自分をきちんと作らなきゃと思って頑張っていたのに。今は、作り笑顔ではなくて、その撮影現場の光を感じ、匂いを感じ、風を感じている、ありのままの自分が映ればいいなと思うようになったのだ。この変化は、ひょっとすると、周囲の目から隠れるように生きてきた芭子ちゃんが徐々に前向きに生きて行こうとし始める道のりと、どこか似ているのではないかとふと思った。
冒頭の短篇「犬も歩けば」はこんな文章で終わっている。「こうやって小さなことでも笑っていたい。そんな毎日を過ごせれば十分だと思いながら、芭子は『何よ』と唇を尖らせて、綾香が笑っているのを見つめていた」。
ありのままで暮らしていきながら、大切な人と些細なことで笑いあうことができれば、もうそれでいいなー、とわたしも芭子ちゃんのように願う。
このようにして、『いちばん長い夜に』という本は、わたしの大切な一冊になった。
◆原 幹恵/小さなことでも笑っていたい
北上次郎/彼女たちの「それから」
乃南アサの「マエ持ち女二人組」シリーズの第3弾である。このシリーズを知らない読者のために、まずは簡単にご紹介しておく。主人公は小森谷芭子三十歳、江口綾香四十二歳。この二人である。彼女たちがどういう関係なのかについては本書から引く。
「前科(マエ)持ちの刑務所(ムショ)仲間。それが芭子と綾香の関係だった。/犯した罪の内容も、受けた量刑も違う。だが罪の代償として、刑務所(あそこ)に入っただけでなく、それまで住んでいた家、親兄弟、友人知人といったすべてのものを喪い、天涯孤独の身の上になった点は同じだった。他に誰一人として頼る相手もいない。だからこそ住まいだけは別だが、二人で文字通り肩を寄せ合い、ひたすら目立たないように、ひっそりと暮らしている」
もう少し詳しく書いておくと、小森谷芭子は大学生のときに新宿歌舞伎町のホストにいれあげ、貢ぐ金欲しさに借金を重ね、それでも足りなくて、伝言ダイヤルで男をホテルに誘い眠らせたあとに財布を抜き取るという犯罪を犯してしまう。結局は昏酔強盗罪で七年服役。対する江口綾香は夫の暴力に我慢していたものの、わが子にまで暴力が及ぶことを恐れ、夫を殺害。その事情を考慮されて五年の刑。こうして刑務所内で二人は知り合い、出所してからも谷中でひっそりと寄り添うように暮らしている――というわけだ。
週に数回は一緒に食事をするが、芭子の家にきて綾香が料理を作ってくれたり(そうして何も知らなかった芭子が、少しずつあらゆることを覚える)、居酒屋「おりょう」に行ったりする。休みの前夜にその近所の店でほんの少しの贅沢を味わうのが、二人のささやかな楽しみである。
違うのは、家族から一方的に、戸籍から外されることの代償に、祖母の家と財産を分与された芭子に対し、綾香は将来パン屋さんを開くのが夢ではあるものの、家賃や生活費を稼ぐのがやっとで、資金がなかなか溜まらないこと。もう一つ大きな違いがあるのだが、それは後述する。
これまで、綾香が詐欺にあってパン屋開業のために溜めた資金の大半を失ったり(『いつか陽のあたる場所で』)、懸賞に当たって大阪旅行に二人で出かけたら、綾香の高校時代の同級生に会ってもう故郷には帰ってくんなよと言われたり(『すれ違う背中を』)、さまざまなことがあったが、それらを未読の方でも大丈夫。この二人にこれまでどんなことがあったのか気になる方は、本書をお読みになってから遡ればいい。
このシリーズに重要な脇役として登場する警察官の高木聖大くんが『ボクの町』『駆けこみ交番』では主役となっていることや、季節感に溢れていてその季節ごとの食べ物がとても美味しそうであることも重要だが、本書の最大のキモは、芭子が綾香の息子の消息を探しに仙台を訪れる後半の展開だ。
芭子は米さえ満足に炊けない無知な娘だった。当座の生活に困らない金を渡されたものの、一人暮らしも初めてで、誰に頼ることも出来ず、近所の誰かが自分を前科者と知っているのではないか。そう思ったら外出もできない。少し遅れて出所してきた綾香がかねてから約束していた通りに訪ねてくれるまでは、引きこもりのような暮らし方をしていた。そんな芭子に、綾香は米の研ぎ方から始まって、だしの取り方、洗濯の仕方、掃除のコツにいたるまで教えてくれた。ならば、自分も綾香に何かしたい。そう思って、綾香の故郷である仙台を訪れるのである。
そこで彼女はあの「東日本大震災」に遭遇する。たくさんの命が失われた現場に立つことになる。この後半の展開こそが本書の読みどころであろうからここに詳しくは書かないが、芭子と綾香の違いがこのことによって突出するのだ。
「自分たちは互いに一線を越えた経験を持つものだが、芭子の越えた一線と、綾香の越えた一線とは、思っている以上に違うのかも知れない」
とそれまでも漠然と芭子は思っていたのだが、ではどう違うのか。その違いを、たくさんの命の喪失という大災害が鋭く照射するのである。シリーズ第1作『いつか陽のあたる場所で』のときにまさかこうなるとは思ってもいなかった。作者のあとがきを読むと、これでこの「マエ持ち女二人組」シリーズは終わるという。彼女たちが真摯に生きるかぎり、それは当然の帰結であり、私たちはその新しい旅立ちを見送るしかない。一抹の淋しさも禁じえないが、しかし彼女たちはどこかで必ず生き続ける。精一杯、生き続ける。その姿を思い描くことが、私たちの力になるはずだ。それがこのシリーズの意味だったのだといまになって気づくのである。
(きたがみ・じろう 文芸評論家)
原 幹恵/小さなことでも笑っていたい
今年のお正月は、実家でこたつに入りながら、乃南アサさんの『いちばん長い夜に』のゲラを読みながら過ごした。芭子ちゃん(二十代半ばのわたしよりいくらか歳上なのに、なぜか芭子ちゃんと呼んでしまう)と綾香さんを描いていく短篇小説の連作集だ。二人はそれぞれ性格も年齢(綾香さんが一回りくらい上)も違うけれど、刑務所で知り合って(犯した罪も全然違う)、出所した今は東京の下町で肩を寄せ合うようにして暮らしている。二人は、罪は懲役という形で償ったとはいえ、家族からは見捨てられたままだし、過去がバレないかと周囲の目に怯え、自分たちの犯した罪について折に触れては考えている。わたしは、B4サイズのゲラを二つに折り、短篇ごとに大きなホチキスで止めて、六冊の薄い本のような形にして読み進めていった。
「あとがき」で、乃南さんがこの小説を「『あえて何も起こらない話』にしようと思った」と書かれているように、ここには海賊も王子様も出てこないし、密室殺人も時刻表も出てこない。ささやかな日常の出来事が季節感と共に丁寧に描かれていくのだが、「前科(マエ)持ち」という設定が効果的で、芭子ちゃんや綾香さんの切ない心理がひりひりするようにわかるから、飽きる暇がない。生活のわずかな起伏の中で、彼女たちは幸せや希望を感じもして、わたしたち読者も一緒にほっこりした気持ちになっていく。ゲラというものが物珍しかったのか、母も寄ってきて、何気なく読み始めたらたちまち夢中になったらしく、こたつの向う側から「ミカン食べてないで続きを読んで、早く廻してよ」なんて。母娘で同じ小説を同時に読むのは初めての経験。
ところが、計らずも、激しい〈事件〉が起きてしまう。小説の半ばで、あの東日本大震災が芭子ちゃんと綾香さんを襲うのだ。芭子ちゃんが仙台で地震に遭遇する場面は迫真に満ち満ちており、「ひょっとして作者の方は実際に被災したのかな……」と思っていたら、やはり「あとがき」で、この小説の取材のために訪れた仙台で地震に遭われたことがわかった(あとで母は、「私も、そうじゃないかなと思っていたの」と自慢した)。
わたしは母の催促が聞こえないふりをして、時折読むのを休んで、あの日のことを思い返した。あの午後二時四十六分、わたしは早めに仕事を終えて、帰宅途中だった。街なかで沢山の鳥(カラス?)が一斉に鳴き始め、不思議に思った次の瞬間、激しく揺れ始めた。何かが割れる音と悲鳴、ビルから走り出てくる人たち。何時間かかけて自宅へ辿り着くと、引っ越したばかりでまだソファもなかったので床へ座り込んで、やはり床へ直に置いてあったテレビを寒さに震えながら見続けた。まだあの夜のうちは、津波や原発の映像も少なかった替りに、何度も繰り返し、土砂で生き埋めになった幼い姉妹のニュースが流れていた。彼女たちは、手を握り合った姿で発見されたのだった。次の日の仕事はバラエティ番組の収録で、みんな笑顔で明るく騒がしくいつも通りに進行したけれど、余震は絶え間なく続き、カメラに映らないわたしたちの足元にはヘルメットなどの防災グッズ一式が置かれていた。
大震災が、他人の目に怯えながら暮らしていた芭子ちゃんに、そしてかつて夫を殺した(DVを振るう彼から子供を守るためであり、裁判で情状酌量もされたとはいえ)綾香さんに、どんな影響を与えたかはこの小説を読んで確かめて下さい。もちろん、二人の関係も同じままではいられない。大切な人との距離について、あるいは関係を続けるとは何かについて、わたしは改めて考え込んでしまった。
もう一つ、自分自身に引きつけて思ったこと。最近わたしは、グラビアなどで〈作った自分〉を出すことにためらいを感じるようになった。以前は、自分をきちんと作らなきゃと思って頑張っていたのに。今は、作り笑顔ではなくて、その撮影現場の光を感じ、匂いを感じ、風を感じている、ありのままの自分が映ればいいなと思うようになったのだ。この変化は、ひょっとすると、周囲の目から隠れるように生きてきた芭子ちゃんが徐々に前向きに生きて行こうとし始める道のりと、どこか似ているのではないかとふと思った。
冒頭の短篇「犬も歩けば」はこんな文章で終わっている。「こうやって小さなことでも笑っていたい。そんな毎日を過ごせれば十分だと思いながら、芭子は『何よ』と唇を尖らせて、綾香が笑っているのを見つめていた」。
ありのままで暮らしていきながら、大切な人と些細なことで笑いあうことができれば、もうそれでいいなー、とわたしも芭子ちゃんのように願う。
このようにして、『いちばん長い夜に』という本は、わたしの大切な一冊になった。
(はら・みきえ 女優)
著者プロフィール
乃南アサ
ノナミ・アサ
1960年、東京生れ。早稲田大学中退後、広告代理店勤務などを経て、1988年に『幸福な朝食』で日本推理サスペンス大賞優秀作を受賞し、作家活動に入る。1996年に『凍える牙』で直木三十五賞、2011年に『地のはてから』で中央公論文芸賞、2016年に『水曜日の凱歌』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。他に『鎖』『嗤う闇』『しゃぼん玉』『美麗島紀行』『六月の雪』『チーム・オベリベリ』『家裁調査官・庵原かのん』など、著書多数。
関連書籍
判型違い(文庫)
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