鳥の仏教
1,540円(税込)
発売日:2008/11/28
- 書籍
ヒマラヤの鳥たちが伝えるブッダの教え。澄んだ言葉が、この世の無常をいかに生き抜くべきかを伝える――。
「苦しみから私たちを解き放つ、正しい方法を教えてください」、鸚鵡は問いかける。カッコウに姿を変えた観音菩薩は答える、最も重要なブッダの知恵を。やがて森に集まった鶴、セキレイ、ライチョウ、鳩、フクロウ、様々な鳥たちが真の幸福へ続く言葉を歌い出す。チベットの仏典を訳し、仏教の核心にある教えを優しく伝える、貴重な一冊。
目次
まえがき
『鳥のダルマのすばらしい花環』
人間圏の仏教から生命圏の仏教へ
人間圏の仏教から生命圏の仏教へ
あとがき
書誌情報
読み仮名 | トリノブッキョウ |
---|---|
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判 |
頁数 | 128ページ |
ISBN | 978-4-10-365902-0 |
C-CODE | 0095 |
ジャンル | 宗教 |
定価 | 1,540円 |
書評
波 2008年12月号より 鳥たちが伝える仏教
鳥の仏教。
表題がいいじゃないですか。『鳥の仏教』って。中沢新一さんがこういうとっても「わかりやすい」ものを訳すようになるってことは、もう歳だっていうことじゃないですか。まだまだ若いと思っていたのに。
私自身の体験のなかにも、ネズミの仏教がある。
東大医学部で解剖学教室の助手をしているときだった。編集者に頼まれて、岩波書店の雑誌「科学」に、当時調べていたトガリネズミについて、自分の仕事の総説を書いたことがある。
なんでわざわざ、そんな変なネズミを調べるのか。理屈をいえば、いくらだってある。もう古稀を越えた現在の年齢になれば、なにをいおうと、要するにそんなものは理屈、後知恵だとわかっている。でも当時は若かったから、マジメに書いた。でも最後のところでどうしても書きたくなった。ヒトが本当に動物を「理解する」としたら、それはどういうことになるのか。むろん理屈にはならないはずである。いくら素朴な科学主義者でも、どこまでも「理」でネズミがわかるとはいうまい。
じつはそう考えたわけではない。ひとりでに筆が走った。もし私が本当にトガリネズミを理解するとしたら、それはどういうことになるのか。最終的には「共鳴」というしかないであろう、と。
出来上がった原稿は、恩師の中井準之助先生に目を通していただいた。なにしろ学術論文ではない、はじめての文章である。こんなこと、発表していいのか。それもあって、読んでいただくつもりだった。やがて帰ってきた原稿には、ただ「共鳴」の部分から線が引き出してあって、その線の先に、先生の字で「合掌」と赤字で書かれていた。思えばこれが、私の最初の信仰告白だった。中井先生もそれをちゃんと「理解」しておられたことになる。最後まで私にとっては頭が上がらない方だった。
先生は若いときに両親を亡くされ、親戚の家で育てられたという。家は建物自体も二百五十年続いた近江商人の旧家である。小さいときにはお題目をあげさせられて、閉口した思い出を語っておられた記憶がある。
私も歳だから、自分が結局は仏教で育てられていることを、しばしば認識する。現代では大方の若者がそれに気づいていないであろう。でもこういうものは、文化の根に入ってしまって、無意識になっているから、どちらにしても仕方がないのである。本音を語ればどこかで仏教が出てくるに違いない。
「鳥の仏教」は現代チベット仏教を一般人に親しみやすいように語ったものだという。成立はたぶん十九世紀、でもその背景には古くからのチベット民話がある。いろいろな種類の鳥が出てきて、それぞれの鳴き声で仏教の教えを語る。こういう本って、いいですよね。あんまり説教臭くなく、説教をするからである。
ダライ・ラマ14世がそうである。今年ダージリンのチベット難民センターに行った。そうしたら壁にダライ・ラマの言葉の抜粋が貼ってある。英語だけれど、韻を踏んで面白かったから、池田清彦との共著『正義で地球は救えない』(新潮社)の「あとがき」に盗用しておいた。
チベット仏教は殺生戒が厳しいので、虫が採りにくい。タバコもダメ。そういうことについては、もっとだらしない宗派がいい。でもまあ、私はお坊さんではないし、要は仏教のことだから、そうやかましいことはいわないだろう。そう思いながら、欧米の病院で書類を書かされると、宗教の欄には「仏教」と胸を張って書くのである。
表題がいいじゃないですか。『鳥の仏教』って。中沢新一さんがこういうとっても「わかりやすい」ものを訳すようになるってことは、もう歳だっていうことじゃないですか。まだまだ若いと思っていたのに。
私自身の体験のなかにも、ネズミの仏教がある。
東大医学部で解剖学教室の助手をしているときだった。編集者に頼まれて、岩波書店の雑誌「科学」に、当時調べていたトガリネズミについて、自分の仕事の総説を書いたことがある。
なんでわざわざ、そんな変なネズミを調べるのか。理屈をいえば、いくらだってある。もう古稀を越えた現在の年齢になれば、なにをいおうと、要するにそんなものは理屈、後知恵だとわかっている。でも当時は若かったから、マジメに書いた。でも最後のところでどうしても書きたくなった。ヒトが本当に動物を「理解する」としたら、それはどういうことになるのか。むろん理屈にはならないはずである。いくら素朴な科学主義者でも、どこまでも「理」でネズミがわかるとはいうまい。
じつはそう考えたわけではない。ひとりでに筆が走った。もし私が本当にトガリネズミを理解するとしたら、それはどういうことになるのか。最終的には「共鳴」というしかないであろう、と。
出来上がった原稿は、恩師の中井準之助先生に目を通していただいた。なにしろ学術論文ではない、はじめての文章である。こんなこと、発表していいのか。それもあって、読んでいただくつもりだった。やがて帰ってきた原稿には、ただ「共鳴」の部分から線が引き出してあって、その線の先に、先生の字で「合掌」と赤字で書かれていた。思えばこれが、私の最初の信仰告白だった。中井先生もそれをちゃんと「理解」しておられたことになる。最後まで私にとっては頭が上がらない方だった。
先生は若いときに両親を亡くされ、親戚の家で育てられたという。家は建物自体も二百五十年続いた近江商人の旧家である。小さいときにはお題目をあげさせられて、閉口した思い出を語っておられた記憶がある。
私も歳だから、自分が結局は仏教で育てられていることを、しばしば認識する。現代では大方の若者がそれに気づいていないであろう。でもこういうものは、文化の根に入ってしまって、無意識になっているから、どちらにしても仕方がないのである。本音を語ればどこかで仏教が出てくるに違いない。
「鳥の仏教」は現代チベット仏教を一般人に親しみやすいように語ったものだという。成立はたぶん十九世紀、でもその背景には古くからのチベット民話がある。いろいろな種類の鳥が出てきて、それぞれの鳴き声で仏教の教えを語る。こういう本って、いいですよね。あんまり説教臭くなく、説教をするからである。
ダライ・ラマ14世がそうである。今年ダージリンのチベット難民センターに行った。そうしたら壁にダライ・ラマの言葉の抜粋が貼ってある。英語だけれど、韻を踏んで面白かったから、池田清彦との共著『正義で地球は救えない』(新潮社)の「あとがき」に盗用しておいた。
チベット仏教は殺生戒が厳しいので、虫が採りにくい。タバコもダメ。そういうことについては、もっとだらしない宗派がいい。でもまあ、私はお坊さんではないし、要は仏教のことだから、そうやかましいことはいわないだろう。そう思いながら、欧米の病院で書類を書かされると、宗教の欄には「仏教」と胸を張って書くのである。
(ようろう・たけし 解剖学者)
著者プロフィール
中沢新一
ナカザワ・シンイチ
1950年山梨県生まれ。思想家・人類学者。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。インド・ネパールでチベット仏教を学ぶ。帰国後、人類の思考全域を視野に入れた新しい知のあり方を提唱。人類学のみならず、歴史、哲学、民俗学、経済学、自然科学の分野にまたがる広汎な研究に従事する。中央大学教授、多摩美術大学芸術人類学研究所所長、明治大学野生の科学研究所所長などを歴任。著書に『チベットのモーツァルト』『雪片曲線論』『イコノソフィア 聖画十講』『東方的』『森のバロック』『三万年の死の教え』『純粋な自然の贈与』『フィロソフィア・ヤポニカ』『緑の資本論』『カイエ・ソバージュ』『精霊の王』『アースダイバー』『熊楠の星の時間』『レンマ学』など多数。
この本へのご意見・ご感想をお待ちしております。
感想を送る