雨天炎天〈新装版〉
1,760円(税込)
発売日:2008/02/29
- 書籍
1988年、村上春樹の、苛酷な旅。
カビの生えたパンも、険しい山道もなんのその。ギリシャ正教の聖地アトスをひたすら歩くギリシャ篇。謎の「泳ぐ猫」を求めて若葉マークの運転で廻ったトルコ篇。ともに未発表カットを多数加えた148枚の写真(撮影・松村映三)で、ふたつの旅の全行程を再編集した新装版!
アトスとはどのような世界であるのか
ダフニからカリエへ
カリエからスタヴロニキタ
イヴィロン修道院
フィロセウ修道院
カラカル修道院
ラヴラ修道院
プロドロムのスキテまで
カフソカリヴィア
アギア・アンナ――さらばアトス
パンとチャイ
トルコ
黒海
ホパ
ヴァン猫
ハッカリに向かう
ハッカリ
マルボロ
国道24号線の悪夢
国道24号線に沿って
書誌情報
読み仮名 | ウテンエンテン |
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発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判 |
頁数 | 288ページ |
ISBN | 978-4-10-353419-8 |
C-CODE | 0095 |
ジャンル | エッセー・随筆 |
定価 | 1,760円 |
書評
「まるっきり別の世界」への旅
1988年の5月だったと思う。村上春樹さんから「アトスに行ってみたい」という電話があった。翌年に『03 TOKYO Calling』という雑誌の創刊を予定していて、紀行ルポを書いてほしいというお願いをしていた。その返事だった。
アトスはギリシャ北部にある正教会の聖地で「こちらがわの世界とはまったく違った原則によって機能している」「まるっきり別の世界」(本書)である。村上さんの希望は、まずこの地を訪れ、その後、2、3週間をかけてトルコを回りたいというものだった。全旅程をご一緒したかったが、副編集長として創刊準備に当たらねばならず、ギリシャにのみ同行した。撮影は、村上さんが長年懇意にしている松村映三さんにお願いした。
取材の旅はこの年の8月に、当時村上さんが滞在していたローマから始まった。徒歩で回るアトスを除く移動の手段は、三菱自動車に貸してもらった四輪駆動のパジェロ。ギリシャまではともかく、悪路の多いトルコでは重宝すると考えてのことだ。三菱の代理店は当時ローマにはなく、車は指定した日時にミラノから持ってくると言う。イタリアに長く暮らし、当地の事情に詳しい村上さんは懐疑的だった。
「小崎君、日程はゆったり組んだほうがいいよ。予定通りに物事が運ぶなんてことは、イタリアではあり得ない」
けれども車は遅滞なく到着した。北イタリアのビジネスマンは几帳面で、約束は守るのだ。そして我々は後に痛感することになる。「予定通りに物事が運ぶ」ことがないのは、イタリアではなくギリシャ、いやアトスであると。
詳細は本書をお読みいただくとして、間違いなく異常にハードな旅だった。そのダメージを(肉体的に)最も被ったのは、本書に出てくる「都会育ちのO君」である。アトスの山中で33回目の誕生日を迎えるこの編集者は、旅をともにした3人の中で最年少でありながら最も脆弱だった。何しろ他のふたりは、フルマラソンを走り、いまではトライアスロンにさえ出場する小説家と、空手の有段者で、もとローラーゲームの選手である写真家である。アトスに着く以前、小説家と写真家はほぼ毎日長距離のジョギングをしたが、若年編集者は早々に音を上げて、ほんの数キロでギブアップするのが常だったことを告白しておく。
アトスで印象的だったことのひとつは、村上さんがときおり絵を描いていたことだ。本書にも写真が収録されているが、修道院の内部や、猫などをスケッチしていた。「スケッチのいいところはね」と村上さんは言った。「写真と違って記憶によく残ることと、周囲の人が話しかけてくることだね」
建物といえばおよそ修道院と隠者の小屋しかなく、暮らす人といえばおよそ修行僧と宗教関係者しかいない(そして女性がひとりもいない)隔絶した土地に「周囲の人」はほとんどいなかった。だが、スケッチによるものかどうか定かでないとはいえ、作家の脳裏と肉体に記憶は確実に刻まれた。
村上さんがなぜアトスを選んだのか、実のところは僕にはわからない。本書には「本でアトスのことを読んで以来、どうしてもこの地を一度訪れてみたかった。そこにどんな人がいて、どんな生活をしているのか、この目で実際に見てみたかったのだ」と書かれている。でもその奥に、どのような思いが潜められていたのかは推測する以外にない。この旅の前や後に書かれたさまざまな小説に出てくる「井戸」のようなものとして、アトスは捉えられていたのかもしれない。
「まるっきり別の世界」を体験して、村上春樹の小説は変わったのだろうか? それも僕にはわからないが、例えば『海辺のカフカ』で強い雨が、さらにはイワシとアジが降ってくる描写を読むと、アトスで我々をぐしょぐしょにした強烈な雨を想い出す。あれは本当に激しい雨だった。水ではなく魚であったとしても不思議ではないような雨だった。
ところでラヴラ修道院のくだりで、O君が西瓜を食堂からくすねてきたという記述がある。この優れたルポルタージュの中で、これだけが事実でなく話を面白くするためのフィクションである。若きO君の名誉のために記しておきたい。
(おざき・てつや 『ART iT』『REALTOKYO』『先見日記』編集長)
波 2008年3月号より
著者プロフィール
村上春樹
ムラカミ・ハルキ
1949年京都生れ。『風の歌を聴け』でデビュー。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』『アフターダーク』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』などの長編小説、『神の子どもたちはみな踊る』『東京奇譚集』などの短編小説集がある。『レイモンド・カーヴァー全集』、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『フラニーとズーイ』、トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』、ジェフ・ダイヤー『バット・ビューティフル』など訳書多数。