1ミリの後悔もない、はずがない
1,540円(税込)
発売日:2018/01/31
- 書籍
ネクストブレイクはこの作家!
心揺さぶる恋を描く鮮烈なデビュー作。
「俺いま、すごくやましい気持ち……」わたしが好きになったのは、背が高く喉仏の美しい桐原。あの日々があったから、そのあと人に言えないような絶望があっても、わたしは生きてこられた――。ひりひりと肌を刺す恋の記憶。出口の見えない家族関係。人生の切実なひと筋の光を描く究極の恋愛小説。R-18文学賞読者賞受賞作。
ドライブスルーに行きたい
潮時
穴底の部屋
千波万波
書誌情報
読み仮名 | イチミリノコウカイモナイハズガナイ |
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装幀 | 青山裕企/写真、新潮社装幀室/装幀 |
雑誌から生まれた本 | 小説新潮から生まれた本 |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 224ページ |
ISBN | 978-4-10-351441-1 |
C-CODE | 0093 |
ジャンル | 文学・評論 |
定価 | 1,540円 |
書評
行け。勇んで。小さき者よ。
当たり前のことだが、デビュー作というのは一生に一回しか書けない。
出版不況、本が売れない、という悲壮な声に抗うようにして、作品がなんとか一冊の本になり、書店で売られるという出来事の喜びは、やはりデビュー作がいちばん強いのではないだろうか。
デビュー作には、小説家がそれまでの人生で感じてきた感情の堆積、顔も見えない読者に向かって伝えたい何か、呼び名すらつけられないけれど、文章を紡ぐのだ、という、噴出し続ける思い、そんなものが濃縮ジュースのように詰まっている。
第15回、女による女のためのR-18文学賞で読者賞を受賞された一木けいさんのデビュー作、『1ミリの後悔もない、はずがない』を読んで、そんなことをまず感じた。
ご存じの方も多いだろうが、R-18文学賞の募集原稿は四〇〇字詰め原稿用紙三〇~五〇枚という短編の賞である。つまり、受賞しただけでは一冊の本にはならない。受賞作を長編にしたり、連作短編にしたりして、一冊分の原稿を受賞後も書き続けなければならない。受賞しました、本になりました、今日から小説家ですね、おめでとう! とならないのが、この賞のすばらしき厳しさでもある。伴走してくれる編集者との出会いの運、原稿を書き続けられる環境の有無、モチベーションの維持……さまざまなハードルを乗り越えて、こうして一冊の本になったことに、まず、おめでとうございます、と心からお伝えしたい。
『1ミリの後悔もない、はずがない』は、五編の作品による連作短編である。
一作目「西国疾走少女」に登場する「わたし」(由井)は、「事情あり」の中学生である。母と妹と三人で暮らす。父とは共に暮らしていない。父自身の事情は、物語が進むにつれ、明らかにされる。
由井は経済的に困窮している。貧しい子どもの物語でもある。私が自分のデビュー作で、同じような状況に置かれた高校生を描いたとき、「こんな子どもが今の日本にいるものか」という感想をもらい、心底、驚いたことがある。2010年のことだ。「こんな子どもはいない」と今でも言えるだろうか。読み手の方に見えていないものを可視化すること。小説にはそんな役割もあると思う。
苦しい日々を送っていても恋は生まれる。由井と桐原との出会いと別れは『1ミリの後悔もない、はずがない』を牽引する出来事として瑞々しく描かれ、登場人物を変えて物語は進んでいく。
潮目が変わるのは、由井の夫が登場する「潮時」から。由井も友人たちも大人になり、それぞれの人生を歩いている。由井の夫も「事情あり」の子どもだ。そうした二人が、新しい家庭を築いていく様子が描かれる最後の一編、「千波万波」という作品は、一木けいさんが、これからもずっと書き続けることができる作家であるということを、はっきりと見せつけた作品でもあると思う。
『1ミリの後悔もない、はずがない』の背景に流れているのは、由井の、ふがいない父への思いである。不可解な父、自分をこんな目に遭わせる父への怒り、憎しみ。けれど、人生は続く。不可解な父と同じ、親という立場に立ったとき、子ども時代の記憶の色彩がどう変わっていくのか。
「わたしは流れを変える人になる。」
由井が娘に対して口にする言葉は、未来に向けての力強い宣言だ。
そして、高校生だった由井を支える幸太郎の存在感がいい。誰かに損なわれてしまった何かを、別の誰かが何かで埋めてくれる。書いてしまえば、何でもないことのように思えるが、それを物語として読ませる、ということは、力のある書き手でなければできないことだ。
由井が読む 有島武郎の「小さき者へ」の言葉でこの文章を終わらせたいと思う。デビューをした一木さんへ、私へ、そしてまだ見ぬ書き手に向けて。
「小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
行け。勇んで。小さき者よ。」
(くぼ・みすみ 作家)
波 2018年2月号より
単行本刊行時掲載
「西国疾走少女」試し読み
イカの胴体に手を突っ込んで軟骨をひっぱり出した。粘着質な音が響いたわりに水分は流れてこない。残っている内臓をこそげ出そうと、もう一度手を差し入れた。あれ、と思う。ざらりと手に吸い付いてくる感触。軟骨は取り除いたはずなのに、そこにもうひとつ硬い何かがある。強くつかんで、一瞬ためらった。不安の波が押し寄せる。いったい何が出てくるのだろう。
ひと息に引いてみる。
ずるりと引きずり出したものには、目玉がついていた。肌が一気に粟立つ。とっさに手放したそれが、シンクにごろんと転がった。
丸々と太った魚だった。表面を覆う鱗の一枚一枚が、照明を反射して光っている。眼球はいきいきしている。でも死んでいた。
速い鼓動のまま、魚をじっと見下ろす。
イカの体内に入りきるぎりぎりの大きさだ。イカの口はちいさいのに、この魚は、どうやってここに入り込んだんだろう。いや、それよりも、どうやってここに留まったんだろう。イカは知っていたんだろうか。自分の中に、ずっとそれがあることを。
まな板の上、イカの胴から、体液があふれ出てくる。
イカなんて何度もさばいたことがあるのに、魚が出てきたのははじめてだった。はじめての経験はいくつになっても怖れを伴う。ふっと、桐原のことを思い出した。
脳の奥から、あの日々がじわじわと染み出してくる。最初は雪解け水のようだったのが、徐々に勢いを増し、ついには濁流となってわたしの脳をめぐりはじめる。
となりで笑っている桐原、バス停にいて遠ざかっていく父の姿、理不尽な大人たちの言葉。遠くから、自分の息切れが聴こえてくる。
中学生だった。わたしはスカートをひるがえし、夜の西国分寺駅に向かって疾走していた。恐怖などない。もうすぐ桐原に会える。ただその悦びだけ。サバンナを駆けめぐる動物のように、前を見て地面を蹴っていた。頬が
耳元でよみがえる息切れは、いつのまにか自分のものから桐原のそれに変わっている。
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当時のわたしは、母と妹と三人で暮らしていた。西国分寺駅から十五分ほどの場所にある一軒家で。一軒家といってもおもちゃみたいな木造の平屋で、部屋はふたつしかなかった。細い路地をはさんだ向かいには大家さんの畑があり、その先に武蔵野線の線路が走っていた。電車の音は夜遅くまで響いており、そのたびに我が家は軽くゆれた。右隣にはとある宗教の信者一家が暮らしていて、土曜の夜にはいつも荘厳な宗教歌が聴こえてきた。左隣にはうわさ好きの老婆が住んでおり、父が家を出て行ったときは何かと詮索してきた。それを母が露骨にいやがったので、それ以来、老婆と交流はなくなった。とにかく狭くて古い家だった。トイレはかろうじて水洗だったが和式で、なぜかトイレットペーパーホルダーが後方にあった。そんな家に、わたしは小学校六年から高校一年まで住んだ。
桐原を思い出すとき、まず脳によみがえるのは喉仏だ。まさにできたてのそれは、他の男子より妙にでっぱって色っぽかった。桐原が歌うとき、笑うとき、つばを飲み込むとき、そのでっぱりは、コリ、コリ、と上下に動いた。なまめかしく、ゆっくりと。
中二の四月、わたしの左の席に腰を下ろしたのは金井という陽気な小太りの男子だった。金井とは一年のとき委員会が同じだった。金井はいつものように下ネタを二、三しゃべってから教室を見回し、自分の列の後方に知り合いを見つけ手を振った。手をあげ返した彼のことを「桐原っつうの」と金井は言った。「一年の三学期に私立中から編入してきたんだよ」
生徒たちの椅子がガタガタと鳴って、わたしと金井は前を向く。中年の理科教師が入ってくるところだった。またこの人が担任かと暗い気持になる。わたしは一度、彼に家の事情を相談したことがあった。個人面談のとき、前のめりで親身になって聴いてくれたからだ。担任は言った。「じゃあ今日、おれがおうちの人に電話してやろうか」その瞬間、おおげさでなく彼に後光が差して見えた。わたしは、すがれる手を探していたのかもしれない。その日は帰宅してからずっと電話を見てすごした。電話は結局鳴らなかった。翌日、わたしの顔を見て担任は「あ」と気まずそうな表情を浮かべたが、何事もなかったように授業に入った。それ以来わたしは大人を信じるのをやめた。
担任がチョークで自分の名前を書いているすきに、さっき見た桐原という男子をふりかえる。何か心にひっかかるものがあって、その正体を確かめたかったのだ。桐原の後ろの席の子が、黒板を見るために身体を横にずらしている。桐原の脚は机に納まりきらず、通路にはみ出していた。朝の味噌汁に入れるアサリみたいに。そのはみ出した分くらいしか他人を受け入れない、容易に心を開かない頑なさが、上履きの先からにじみでていた。その後彼には教室でいちばん高い机が与えられたが、それでもいつも窮屈そうだった。
なぜ桐原に惹かれたのか。どんなに考えをめぐらせても、色気としかいいようがない。色気を感じる相手は人それぞれだろうが、それは感じるものであると同時に、細胞や遺伝子の叫びのような気がする。その男とつがえという自分の核からの命令。でも中二のわたしがそこまで考えたはずはなく、ただ生き物のメスとして、順調に繁殖への準備をしていたということだと思う。
最初の席替えで、わたしたちはとなりの席になった。番号の書かれた紙を手に机を移動すると、そこに桐原がいたので耳が熱くなったことを憶えている。机を合わせると、その段差のあまりの激しさに、同じ班になった金井が手を叩いて大笑いした。そういうとき桐原は「うるさいよ」と笑いながらたしなめるのだった。桐原のリュックは大きく、よそよそしかった。消しゴムは清潔で未知。桐原に属するものすべてがまったくの異物で、艶めいて感じられた。
桐原は長い脚を持っていたが、走るのは速くなかった。バスケ部でも補欠だった。放課後、校庭を走る桐原を、教室から眺めた。疲れてきたときにうっすらひらく口が色っぽかった。桐原の黒髪は毛量が多く、すこし縮れて扱いにくそうだったのだが、その髪から汗のしずくが飛びちる様は、スローモーションでわたしの胸に染みこんだ。
二学期、となりの席になったのはまた金井だった。桐原とは遠く離れてしまいざんねんだったが、休み時間になると彼は金井のところへ雑談しにくるようになった。わたしがいないとき、桐原はわたしの席に座っている。それは椅子だったり机だったりしたが、彼の身体とわたしの持ち物が触れている面を目にするだけで胸が高鳴った。戻ってきたわたしに気づくと桐原は「あ、ごめん」と言って立ち上がる。桐原の腰のベルトの位置は、クラスの誰よりも高かった。
そのうちに、桐原と金井とわたし、それからミカという女子バスケ部の子と四人でいることが多くなった。しゃべるのはいつも金井とミカ。ふたりは同じ小学校から来た顔なじみだった。技術の時間には、よくミカが林檎味の大玉のアメをくれた。シュワシュワするそれを舐めながらわたしたち四人は、木材を削ったり何かの図を描いたりした。ミカは茶髪でこっそりピアスを開けていて、よく授業中にウォークマンで音楽を聴いていた。イヤフォンを肩からブレザーの袖に通して、ひじをついていれば傍目にはわからない。問題は指名されたときだ。ちかくにいる子がミカをつついて教えるのだが、そういうとき音楽が耳に流れているままのミカは「ハイッ!」と必要以上に大きな声を出すので、たまにばれてウォークマンを没収されていた。金井は英語の時間に「6」と言わなければならないときに必ず「セックス!」と言ってクラスの笑いと先生の怒りをかっていた。わたしと桐原はそんなミカや金井をなだめる役回りだった。職員室へ行くのにつきあったり、まったく授業を聞いていない彼らにノートを見せたりするのもわたしと桐原だった。
「二階ついてきて」とミカはよく言った。バレー部の高山先輩の姿をこっそり眺めるために、三年生の廊下をあてもなく歩いた。自分だけミカの好きな人を知っているのも悪いかと思い「わたしの好きな人は桐原なんだ」と言うと「知ってる、
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中二の三学期は、幕開けからして気の滅入るものだった。始業式に桐原は欠席で、さらに、家に帰るとポストに茶封筒が入っていた。差出人は聞いたこともない地名の役所。いやな予感がする。みぞれ混じりの雨が運動靴の先端を濡らしていた。
「ただいま」
声をかけると、せんべい布団の中で漫画を読んでいた妹の
黄ばんだふすまを開けると、居間のこたつの上に母のメモがあった。「おかえり。米、パン、ビール。よろしく」隅にちょこちょこっとわたしの似顔絵が描いてあり、腹が立つくらい特徴をとらえている。手早く着替え、通学用シャツとソックスを手洗いして干してから、傘を差し自転車で生協へ行った。買い物を済ませて戻ってくると、米を研いだ。それからこたつに入り、生の食パンを
父の生活保護申請に関する書類だった。内容は金銭的な援助ができないかどうかの確認。一番下に「万が一、金銭的な援助がむりでも精神面での支えをお願いします、手紙を書くとか電話をかけるとか訪ねて行くとか」というようなことが書いてあった。脳みそが爆発しそうな感覚があり、続いて猛烈なめまいに襲われた。ああ、と声がもれてこたつにつっぷす。
それから数時間後、同じ場所で母がビールをのんでいる。傍らにはあの書類があり、母はペンを指に挟んだまま鼻をすすっていた。うすく開いたふすまから漏れてくるひとすじの光がわたしの手の甲に乗っている。居間には低くコルトレーンが流れていた。テナーサックスの旋律に紛れ込ませるように、母は声を殺して泣いているようだった。そっとふすまを閉じて、音を立てないように窓際まで歩く。カーテンの隙間から、粉雪が舞っているのが見えた。視界がひどく悪い。武蔵野線が通過すると雪はぶわっと舞い上がり、また降りてしんしんと積もった。しばらくその景色を眺めていた。
肉体が、内側からパンと張っている感覚があった。日々変わっていくわたしは、この自分こそが自分であるという実感がない。自分の本当に欲しているものが何かもわからない。でもとにかく外へ出たい。酸素が薄くて息苦しいから。壁を爪で削ってみる。砂がポロポロ落ちてくる。外に出たい。夜の街を歩いてみたい。西国分寺駅まで行って帰ってくるだけでもいい。夜の空気は自由な感じがする。日常は不自由ばかりだ。でもわたしはまだ十四歳で、ひとりでは生きていけないからここにいるしかない。自分では何も変えられない。自分ひとり養えるくらいのお金を、稼げるように早くなりたい。ほしい服を買って、食べたいものを食べて、いっしょに暮らす人と仲良くしていたい。
朝になると干した衣類の乾き具合を確認する。シャツは乾きやすい。問題はソックスだ。天候によっては乾き切らない。仕方なく湿ったままのソックスを履いて、暗澹たる気持で運動靴に足を入れる。父の生活保護に関する書類を、母にたのまれてポストに投函した、その足でわたしは二泊三日のスキー教室へ行った。
集合場所の校庭に行くと、桐原がはじめてメガネをかけていた。縁のない、すっとしたデザインのそれは彼の横顔をさらにうつくしく見せた。一気に世界がきらめく。
見惚れていると、ちょっと聞いてよとミカが体当たりしてきた。
「昨日衝撃的なもの見ちゃった」
「なに」
ミカは周囲をさっと見回すと、声を落とした。
「高山先輩が
笑うのと同時に号令の笛が鳴って、バスに乗り込んだ。ミカにもらった林檎味のアメを舐めながらわたしたちは最後列でUNOに興じた。金井がわたしと桐原を交互に見て、にやにや笑いながら言った。
「おまえたち、もうやったの?」
「あんた最低」とミカが金井の腹をぶった。「やるわけねーじゃん、つきあってもないのに」
「ふん、ミカはお子様だな」金井は大人ぶり「やるときって、こういう音がするらしいよ」と両手を打ち鳴らしたり「あれを二十回やると子どもが一人できるらしいから、ちゃんと明るい家族計画しろよ」とよくわからない助言をしてきたりした。
「デタラメばっか言ってんじゃねーよ」
「まじだってミカ。ほら、ここに書いてあんじゃん」
金井はかばんからぱっとエロ本を出して開いて見せた。
「こんなもん、スキー教室にまで持ってくんじゃねーよ」
「オレにとってこれは刀。武士は丸腰では戦わないからな」金井はキリッとした顔つきで胸を張った。
「その使い方合ってんの? あたしばかだからわかんないけど」
「違うんじゃないか?」と桐原が笑った。「な?」
「たぶん、違うと思う」とわたしも同意した。
「あんたさあ、こういうの、レジに持ってくとき恥ずかしくないわけ?」
「全然。堂々と持っていく。おい桐原、西国の駅前にちっちゃいスーパーあんだろ、あそこ、おすすめだぞ。なんか妙にエロ本が充実してんだよ」
顔をしかめたミカの背中を、心をこめてさすった。
「これ、桐原にも貸してやるからな」
「俺はいいよ」
「ええかっこすんなよ。あ、でもオレ人妻専門で、中学生とか高校生じゃイケないんだよ。だからこのエロ本じゃ、桐原むりかも。人妻様はまじですげえんだ」
「しらねーよ」ミカがエロ本をひっつかんでバスの真ん中に向かってぶん投げた。金井が慌てふためいた拍子に吹き出したアメが、通路を転がり落ちていく。
スキーのレベル分けで、桐原は最上級のA、わたしは超初心者のDクラスだった。食事の席も決められていて、びっくりするくらい遠かった。
スキーウエアも手袋もブーツも、もどかしいほど分厚いのに、簡単に雪が染みてきた。耳も鼻も指先も、濡れてかじかんでじんじんした。ゲレンデに大音量で流れるポップスを聴きながら、わたしは目で桐原ばかり探した。
最終夜、夕食の食器を下げるときに「今夜ここにふたりで来てみない?」と桐原に提案した。その声は高揚した生徒たちのざわめきにかき消された。「ん?」と言って桐原は、腰をかがめるようにして耳を近づけてきた。わたしは足がつりそうなくらい背伸びして、同じことを繰り返した。胸がつぶれそうにどきどきした。なんでそんな案が出せたのかわからない。口から言葉がこぼれ出てしまった。急に恥ずかしさがこみあげてきてうつむくと、畳の上、桐原のソックスに指の形が浮いていた。その大きさにまた心臓が跳ねる。金井がぬっとあらわれ、親指を立てながら長テーブルの向こう側を通り過ぎていった。桐原はびっくりしたような顔をしたが、すぐにあのいつものゆったりした笑顔になって「いいよ」とわたしだけに聞こえる声で言った。
消灯後しばらく経ってから、見回りに来る先生の目をぬすんで、部屋を出た。廊下にはくすんだ赤色のカーペットが敷き詰められている。湿ったような、黴臭い匂いがした。足音をさせないように歩いて、階段をおり、大食堂に行った。
障子をあけると、夕刻とは全然違う風景がひろがっていた。数えきれないほどあったテーブルはすべて折りたたまれ、壁に立てかけてある。中へ進んでいき窓辺に立つと、しんとしずまりかえった雪山が見えた。きれいな月が出ている。遠くにヨーロッパのお城のようなものがあると思って目をこらすと、それは黒く陰った樹木だった。
背後で障子があいて、ふりかえると桐原が立っている。縦に長いシルエット。目が合うと彼はホッとしたように笑い、何も言葉を発さずに長い指を部屋の隅の方に向けた。わたしはうなずいてそちらへ向かう。障子を後ろ手に閉め、桐原がスリッパを脱いで上がってくる。桐原の体重で畳がきしむ。距離が徐々に近くなる。その一歩ごとに興奮で上あごが痺れた。わたしたちはくすくす笑いながら歩いて、大きな部屋のいちばん端に腰を下ろした。距離を置いて横にならんで壁にもたれ、他愛もないことを話した。桐原はあごも喉も手の指もひざも尖って硬そうで、完成に近づいている肉体、という感じがした。
あの日しゃべった内容はほとんど記憶から消えてしまったが、ひとつだけ明確に憶えていることがある。それは「うしなった人間に対して一ミリの後悔もないということが、ありうるだろうか」というものだ。桐原が発した問いだった。なんの話からそういう流れになったのかわからない。わたしがどう答えたかも憶えていない。答えてすらいないかもしれない。あのときは、まだ誰もうしなったことがなかったから。けれど桐原は確かにそう訊いた。その一文を、わたしはその後の人生において、何度も、折りにふれて思い出すことになる。
真夜中の大食堂で、桐原の声は、わたしの耳から入って脳に送られ、身体いっぱいに満ちた。話し方のくせや、声のトーン、えらぶ言葉。このあとしばらくだれとも話さないで、桐原だけをわたしの中に残しておきたいと思った。
どれくらいの時間が経ったのか、廊下が騒がしくなってきた。大人たちの怒鳴るような声がして、スリッパの音が高く行き交う。桐原とわたしは顔を見合わせた。部屋を抜け出したのがばれたのだとわかった。出て行ったほうがいいねと桐原が立ち上がり、入り口まで歩いていった。小走りについていく。桐原が、迷いのない、流れるような動作で引手に指をかけた。
その瞬間、障子が向こう側からばっとひらいた。
こめかみに血管を浮かせた担任が目を剥いている。わたしたちが何か言うより先に担任は、大きく振りかぶって目の前にいた桐原を拳で殴った。それから同じようにわたしのことも殴った。暴力には免疫があったのでさほどの衝撃はなかった。気持にはなかったが、身体は吹っ飛んだ。桐原は飛んだわたしをふりむいてから「女の子に暴力ふるうのってどうなんですか」と歯向かった。そのために今度は腹部を蹴り上げられるはめになった。それでも桐原は止めなかった。
「ルールを破ったからって、暴力をふるっていいことにはなりません。弱い者を力で押さえつけるなんて、先生は卑怯だ」
睨み合う桐原と担任の横で、わたしはかつて味わったことのない多幸感に包まれていた。桐原がかばってくれた。強い大人に屈せず向かっていってくれた。わたしが傷つくことに対してノーと言ってくれた。自分がなにか、もろく壊れやすい、大切なものになったような気がする。
ぽた、ぽた、という音に気づいて桐原が全身をこわばらせた。ふり返った彼が見たのは、畳に落ちるわたしの鼻血だった。桐原の目に強い怒りが灯る。鳥肌が立った。憤怒に支配された桐原は、ぞくぞくするほど妖艶だった。痛みなど意識を集中させれば消せるし、桐原がわたしのために怒ってくれているし、そんな桐原は色っぽいしで、わたしに切迫感はまるでなかった。ただ桐原を見ていたかった。桐原がふるえる唇をひらいて何か言いかけたとき、担任のうしろから体育教師がやってきて、桐原をどこかへ連れて行った。
わたしは担任に上腕をつかまれ、むりやり歩かされた。廊下に、なにかの目印のように血のしずくが点々と残った。入れと言われ背中を押されてひざをついたのは、狭い和室だった。担任はドアを閉めると唾を飛ばして怒鳴った。
「あんなところにふたりでいたら、男がどういう気持になるかわかってんのかっ!」
大笑いしそうになった。先生はどんな気持になるんですか? どうして大人たちはいつも、男の気持についてばかり話すのだろう。この世界は男の気持で回っているのか。
感情の
「おれも親のはしくれだからね、おまえのうちでいろいろあって大変なのは理解できるよ。おまえが素直になれないのもわかる」担任はときおり、わたしを懐柔するような甘い声を出した。こういう発言がはじまるたびに脱力した。大人がこんな風に話しだすとき、あとに何か意味のある内容が続くことはまずない。「わかるけどね、この世に生まれただけでありがたいと思いなさいよ」ほらね。わたしは担任を見ながら見ないで、心を無にして聞き流す。「しかもこんな健康体に産んでもらっといて。それだけで感謝すべきことなんだよ。おまえ、勉強だってできるじゃないか。こんなことで内申落としたらもったいないだろう」
この人はいったい何を言っているのだろう? 話にならない。けれど自分の意見を言うことはしなかった。無駄だから。
翌日のレクリエーションには桐原とわたしだけ参加できず、それぞれひとり、和室で反省文を書いていた。謝れと言うので謝るだけ。くだらない。なんてくだらない。目を閉じて余韻を楽しもうとしても、せっかくわたしの中をいっぱいにした桐原の声に、担任の甲高い罵声がかぶさってしまう。足音が聴こえてくる。さっと正座して神妙な顔を作り、えんぴつを動かす。担任は「殴られる頬より殴る手の方が何倍も痛いんだぞ」と意味不明なことを述べたあとに「まあ今回のことは桐原が誘ったようだから、おまえはこれでいいよ」と反省文を受け取った。
ペナルティとして、桐原とわたしは帰りのバスの最前列に座らされた。運転席のまうしろで、桐原が窓際。わたしが通路側。乗り込んできた金井がわくわくした顔で「ついにやったか」と耳打ちしてきた。「つきあってないのにやるかっつってんだろ」とミカが金井の後頭部を思い切りはたいた。バスの中でクラスメイトはカラオケやゲーム大会で盛り上がっていたが、わたしと桐原は腫れた頬を隠すようにひじをついて黙っていた。どうということもなかった。そもそもこれは全然、ペナルティになっていない。ゆうべの大食堂より距離が近くてむしろうれしかった。
「そろそろ」と桐原がささやくように言った。桐原がしゃべると、わたしの耳はそちら側にひきつれた。車内がどっと笑いで震えた。その陰でひっそりと桐原は言った。
「そろそろつきあおうか」
放課後、待ち合わせてふたりで帰っていると、金井に「時計の長針と短針みたいだなあ!」とからかわれた。桐原は、優しい目でわたしを見おろした。手は大きく、指は長く、動きはゆったりしていた。豊かな黒髪のえりあしは清潔で、着ているシャツも常にパリッと真っ白だった。朝も夕もしゃべった。母のいない時間には長電話もした。公衆電話からかけることもあった。それでも足りなかった。わたしたちはもっと近づく方法を知らず、ただむさぼるように会話した。いつも電話を切るのに時間がかかった。せーので切ろう、と言ってもどちらも切らない。じゃんけんで決めることもあった。そうしてついに桐原が切ってしまうと、その瞬間、茫漠とした恐怖に全身が支配されて動けなくなった。もしもわたしが先に切ってしまうとしたら、桐原はこういう思いを抱くのか。そう思うと次にはもっと切れなくなった。
わたしにとって桐原は、いいことなどなにひとつないこの世界ではじめて得た宝で、生きているという実感そのものだった。
3
試験前にはすこし遠回りして帰った。中三に上がって急に数学が難しくなった。公式の導き方がよく理解できないと話すと、桐原はガードレールに腰掛けて、ノートに記しながら説明してくれた。薄い、整った筆跡で。ブレザーの袖口から見える桐原の手首は、外側の骨がぼこっと出ていた。破って渡してくれたそれを、わたしは筆箱に大切にしまった。
桐原が立ち上がると、わたしに当たる太陽の光がすくなくなる。
「背の高い人は、いっぱい寝ないといけないんだって」
「へえ、知らなかった」
「昔うちのお父さんが言ってた。重力に逆らう高さがどうとか、そういう理由だったと思うけど。もっとちゃんと聞いておけばよかった」
「いや、なんか、それはわかる気がする」桐原はうなずいてから「お父さん頭いいんだな。いろいろ教えてくれるんだな」と、目を細めて言った。
武蔵野線の高架下で桐原とわかれて、幸福百パーセントで家に帰ると、梢が布団を頭からかぶって泣いていた。傍らには鳴りっぱなしの電話。こんな風に鳴らすのはだれか、訊かなくてもわかった。一気に絶望百パーセントに落ちる。
受話器を取ると、父の妹である叔母は、自分の身内が生活保護を受けるなんて世間様に顔向けができないとまくしたてた。わたしはただ聞いた。この人に何か意見する気力など、とうの昔に消え去っている。言いたいことを言ってしまうと、叔母はネコナデ声を出した。
「あんたが生まれたときあたし、本当にうれしかったの。自然と涙が出たのよ。あたしには子どもが産めないから、あんたをたいせつにたいせつに育てようって誓ったの」
まただ。頭の中でアラームが鳴り始める。危険。大人がきれいなことを言い出したら危険。
「正味の話さ、あんたが生まれなければ兄さんはアメリカに留学して研究を続けられたわけ。それを蹴ってまで子どもを育てる道を選んだのよ。知ってる? あんたが生まれたとき、兄さん、新生児室の窓に張り付いて離れないほどよろこんで」
叔母はわたしの罪悪感を刺激するのが最高にうまい。プロだ。
「あんたたちのために借金までして会社を作って」
その会社が潰れて残った莫大な借金を母がひとりで返していることを、叔母は知らないのか。それとも見たいものだけを見ているのか。
「育ててもらった恩も忘れて親をすてるなんて、恥知らずにもほどがあるよ。あんたも親になればわかる。人ひとり大きくするって大変なことなんだよ」
なんて言ってるの、と梢が涙目で問うてくる。シーツの敷いてない布団は涙でぐしゃぐしゃになっている。その辺にあったペンをとってプリント裏に書いた。「毒オバ暴走特急」梢はぷっと吹き出す。これ以上叔母の声を耳に入れていたらおかしくなりそうだったので、感覚を遮断し、夕飯を作る手順を頭に浮かべた。
「…ね、親戚みんなそう言ってるのよ。だいたい…のおいちゃんにでも知られたら大変なことよ。親戚中に……それで…これが肝心なことなんだけど……あたしはたぶん…なの。もう長くない…」弁当のおかずも考える。冷蔵庫はほとんどからっぽだ。ああ、シャツと靴下を洗わなくちゃ。そうだ、桐原がくれたメモがある。今夜はあれをタイルに貼って、眺めながら食器を洗おう。「だから叔母孝行するなら今のうちよ……ねえ……年上は敬わなきゃ。聞いてる? 年上は、敬わなきゃ!」
大声に意識が無理やり引き戻される。敬う人間くらい自分で決めます。反論する。心の中だけで。反論もできない関係など発展しようもないが、面倒だから。すこしでも意に沿わないことをすると詫びか感謝を強要する叔母に、もう本心を伝えることはない。
「ぜんぶ、あんたのためを思って言ってんのよ。あんたはひとりで育ったわけじゃない。ひとりで生きてるわけでもない。それに」
タコが墨を吐いている様子を思いうかべる。これは墨。墨だ。タコは墨を吐くものだ。
「親をみすてたりなんかしたら、いつかひどいばちが当たるよ」
涙が流れていることに、しばらく気がつかなかった。梢がわたしの手をぎゅっと握った。はっとしてわたしも握り返す。ふたつの手はふるえているけれど、しっかり繋がればふるえは倍増しない。ぴたりと止まる。これ以上ない強さで、わたしたちは手を繋いでいる。
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夜の駅に立っていても、桐原はくっきりと際立ってうつくしかった。二学期のあいだに、桐原はさらに背が伸びたようだ。会えた瞬間、家を抜け出すときの緊張が吹っ飛んだ。
「さむいね」とわたしは肩で息をしながら笑った。夜に会うのがはじめてで、照れくさかった。
「なんでそんな薄着で来たの」笑いながら言って、桐原は着ていたジャンパーを脱いだ。トレーナーのそでがめくれて、腕時計が見えた。黒くてごつごつした、重そうな時計。
着せてもらったジャンパーは、軽くて温かかった。ほんのり香水のような匂いがした。胸のところに、桐原の好きな、外国のバスケットボールチームの赤いロゴが入っている。目的もなく、ならんで歩いて、笑って、桐原の顔を見上げた。桐原はめずらしくよくしゃべった。アメリカのラップが好きでよく聴いているという。わたしも聴いてみたいなと言うと「いいよ」と進行方向を変えた。
桐原の家は大きな二階建てで、車庫があって、白い高級そうな車がとめてあった。玄関の外に灯りがともっていたが、室内は真っ暗だった。道路をはさんだ向かいにちいさな公園がある。わたしはそこに入り、ブランコをこぎながら桐原を待った。
三分ほどで出てきた桐原は黒いパーカーを着て、手に袋を持っている。わたしたちはまた歩いて、西国分寺駅まで戻った。自動販売機の前で桐原は止まり、缶入りコーンスープを買った。がこんと落ちてきたそれを取ると、よく振ってからプルトップを開けて差し出してくる。わたしたちはガードレールに座って、それを交代でのんだ。立ちのぼる湯気で桐原のメガネがくもった。ふたりの笑い声が夜に吸い込まれた。オリオン座が移動するくらい長い時間、そこにいた。
袋の中にはCDのほかに、グレーの布袋が入っていた。あけてみるとチョーカーだった。真ん中にちいさな星がひとつ、光っている。誕生日、合ってる? と桐原は訊いた。胸が詰まってすぐには言葉が出なかった。我が家では誰かの誕生日を祝う習慣などなかった。プレゼントというものをもらったのは、それが生まれてはじめてだった。クリスマスもひな祭りもない。そういうものだと思っていた。もったいないから、帰ってつける。声を絞り出すようにして言うと、桐原はうれしそうに笑って横顔でうなずいた。
「いま何時?」
「もうすぐ十一時。帰る?」
「うん。帰りたくはないけど」言ったらかなしみが増幅した。
桐原はしばらく何か考えるように黙ってから、右手の指を自分の左手首にあてた。慣れた手つきで時計をはずすと「今度会うときまで持っててよ」と言った。
時計はやっぱり重かった。重みがしあわせだった。家まで送ってくれた帰り道、街灯に照らされた桐原は紛れもなくわたしの光だった。部屋に戻るとまずチョーカーを首にはめた。窓に映して眺める。ゆるむ頬を止められなかった。手首に桐原の時計、耳からは桐原の好きな音楽が流れてくる。ジャンパーを毛布代わりにして、わたしはねむった。信じられないような幸福の中で。
5
自分だけ幸せではいけないような気がして、父に会いに行った。バス停まで迎えに来てくれた父は、想像よりふたまわり痩せていた。目がぎょろりと飛び出て、頬骨が高い。首には毛羽立ったタオル。汗なのか、酸っぱいような妙な匂いがした。
電灯の紐を引くと、心もとない光が四畳半を照らした。畳にマイルス・デイヴィスのCDとジョン・グリシャムの小説がちらばっている。ちゃぶ台の上には英字新聞。マグカップの跡が丸く残っている。室内に酒はなく、父ものんでいないようにふるまっていた。けれどわたしはのんでいると思った。それでどうということもなかった。父がわたしのすべてではなくなっていたからかもしれない。
「コーヒーのむか?」
袋入りコーヒーの粉末を空き瓶に移し替えながら父は訊いた。うんと答えて何気なく見ていると、父の手は陸に揚げられた魚のように激しくふるえて、粉を何度もこぼしていた。目を逸らした先に狭いベランダがあり、洗濯物がすこしだけ干してあった。
「ここは日当たりよさそうだね」
「あ? そうだな、洗濯物はよく乾くな」
「いいね、うちの庭は日が当たらないから。靴下が乾かなくて困る」
「そういうときはな」
と父は顔をこちらに向けた。そのとき動いた喉仏の形が、桐原のと似ていると思った。
「まずバスタオルを用意するんだ。それを広げてな、絞ったソックスをのせる。端からきっちりと巻いていく。そうすると大方の水分は取れる。それを干しとけば、乾くのが格段に早くなる」
「なるほどね、やってみる」
「やってみろ」
ちいさな冷蔵庫の脇に低い食品棚があり、そこにラーメンの袋があった。一食分を一度に食べ切ることはできないようで、半分に割った麺と調味袋が残っていた。
「あんときアメリカに行っとったらなあ」
百万遍もした話を、父はまたする。
母のお腹にわたしができたから、父は大学院をやめた。自分のやりたかったことを断念して、やりたくないことをやらなければならない日々がはじまった。
「おまえのせいで俺の人生めちゃくちゃだよ」
冗談めかして父は言う。聴きなれたセリフだから、もはやなんとも思わない。
以前アルコール病棟の喫煙所でも同じことを言われた。近くにいた断酒仲間は苦笑し、「娘さんがいなかったらたぶん、もっとめちゃくちゃでしたよ」と言った。
コーヒーを二杯のみおえると、父はわたしをバス停まで送ってくれた。自転車で。ペダルをキーコキーコ鳴らして。
「歩くより自転車の方が楽なんだよ」
「わたしがこぐから、お父さんうしろに乗ったら?」
「そんな恥ずかしいことができるか」
歩くと足のろれつが回らないんだね、と軽口を叩こうと思ったがやめた。父の眼が徐々に正気を取り戻し、鋭さを増しており、それはわたしにとって必ずしもよい兆候ではなかったから。
トタン屋根に雨粒の当たる音がしはじめる。黄昏の停留所にバスはやってこない。
「タバコ持ってくりゃよかった」
「もうここで大丈夫だよ。お父さん、帰っていいよ」
「シケモクはまずいんだよな」
「傘買ってこようか?」
「いらん。傘さして自転車なんかこげん、転んだら終わりだ」
父と並んで道路を眺めた。雨はどんどん強くなり、乗用車の
「おまえ」と言って父は一度、空咳をした。「つきあってる男がいるんだろ」
「だれから聞いたの」
「だれから聞かんでもわかる」
父は言った。バスはなかなか来ない。
「数学のできる男か」
「うん」
「そうか」
バスが来た。立ち上がろうとして父はよろめいた。慌てて手を取る。細くて長い、きれいな指だった。おーすまん、と言って父はさらりと手を離した。
ドアがひらく。ステップを踏んで、車内に乗り込んだ。
父が何か言ったのをかき消すように、背中でバスの扉が閉まった。呆然と突っ立っていると、整理券をお取りくださいとアナウンスされた。はっとして白い券をひっぱる。最後列まで、ふらふらと歩いた。父が見えた。細い身体で、雨に濡れながらこちらを向いて立っている。
まあ、おまえらがおったから、おもしろい人生やったかもしれん。
バスが動き出す。父はどんどんちいさくなっていく。
6
卒業式にはつめたい雨が降っていた。夕方にいったん上がったが、夜、西国分寺駅へ向かっているとき、再びぱらつきはじめた。降りだしはやわらかく絡みついてくるような霧雨だったのが、走っているうちに一気に勢いが増し、激しい春の嵐となった。
バシャバシャと水の音を立てながら、わたしはどしゃ降りの中を走り抜けた。傘も差さずに、髪も服もずぶぬれで、息を切らしてアスファルトの坂道を駆け下りた。楽しかった。桐原に会うために疾走しているときはいつも、命を生き切っているという実感があった。
桐原が見えた。大きな黒い傘を差して、不安げな顔で立っている。一直線に向かって行く。ソックスに泥水が跳ねる。鎖骨の上のチョーカーすら歓喜していた。ひざやスカートが上がるのといっしょに、ちいさな星はうれしそうにジャンプして肌に吸いついた。
細い道を斜めに突っ切ろうとしたとき、
「由井!」桐原が叫んだ。「あぶない! うしろバイク来てる!」
さっと八百屋の軒下に身体を寄せた。わたしの中で桐原の声が反響していた。あんなに大きな野太い声を聴いたのははじめてだ。立ち止まってバイクが通り過ぎるのを待っていると桐原がまた声を張った。
「そのままそこにいて!」
広い歩幅で飛ぶように走って、桐原はわたしを迎えにきた。
「用心して、たのむから」
めずらしくきつめの口調で言う桐原の顔は、青ざめていた。
傘を、桐原はほとんど倒すみたいにして差した。わたしは柄の部分をつかんで桐原の方に向けた。それを彼がふっと笑ってまた倒す。そんなことを繰り返しながら、ざんざん降りの雨の中を歩いた。濡れて身体にぴったり張り付く服も、ぐじゅぐじゅになったソックスもまったく気にならなかった。
ふいに桐原が足を止めた。わたしを見おろして、手を伸ばしてくる。
「風邪ひいちゃうな」
指が、わたしの髪にふれた。傘の下で、桐原の匂いが濃く立ちのぼる。
「うちで乾かそうか」
白い車がその日はなかった。桐原はポケットから鍵を出して差しこんだ。
家にはだれもいないようだった。広い玄関には、よく磨かれたハイヒールがあった。桐原の脱いだバスケットシューズが重そうでどきどきした。
「そこ洗面所、タオルとかドライヤーとか、好きに使っていいよ」
ありがとうと言って、脱いだソックスを手につま先立ちで向かう。髪の先から水が滴り落ちた。ドアが、迷子になりそうなほどたくさんあった。廊下はホコリひとつなくつるつるで、すべらないように注意しなければならなかった。無機質というか、しんと平らで、熱のようなものがまったく感じられない家だ。ほんとうに人が暮らしているのだろうか。
髪やスカートを乾かして戻ると、キッチンから音がした。行ってみるとそこには黒い角の尖ったテーブルがあり、カゴがのっていて、色とりどりのフルーツが盛られていた。雑誌に出てくる家みたいだ。ソファの正面には暖炉まであった。そんなものはどこか遠い外国にしか存在しないと思っていた。お盆を手に戻ってきた桐原は、階段の下にしゃがんでいたわたしを見おろして「なんでそんなところにいんの」と笑った。
「立派なおうちだなあと思って」
「そんなことないんじゃない」
「あるよ。金色の洗面台が二つ並んでて、びっくりした」
「二つ同時に使うことなんてないから意味ないんだよ」
「お父さんなんの仕事してるの」
桐原はすこし真顔になって「よく知らない」と言った。
階段を上りきった脇に、おしゃれな洗濯機があった。二階に洗濯機があるというのはどういう間取りなんだろうと思ったが、これはお金持ちのスタンダードかもしれないと思い直した。
八畳ほどの洋室だった。きちんと整えられたベッドに、勉強机とクローゼット。机の横にはCDデッキ。床に腰を下ろすと「なんでそんなところに」とまた笑われた。桐原が手渡してきたクッションを尻の下に敷く。わたしたちは向かいあって桐原が淹れた紅茶をのんだ。会話は弾まない。クッキーは妙にぼそぼそして喉をおりていかなかった。
ごめん、と桐原が言った。カチャリとカップを置く音が大きく響いた。
「俺いま、すごくやましい気持」
「どういう意味?」
「賭けをしないか」
顔を見上げてたじろいだ。これまでに見たことのない表情をしている。メガネの奥、目の縁が赤く染まり、つり上がって、怒っているみたいだ。桐原は立ち上がって窓辺まで歩くと、手招きした。わたしが来るのを待って、桐原は外を指差した。
「あそこ、遠いけどわかる? 線路が見えるでしょ。次来る電車は何色だと思う」
「そんなのわかんないよ」
「言ってみて。もし当たったら今日はまだ我慢するから」
「我慢て何を」
「さあ何をだろうね」
またした。今まで見せたことのない顔。桐原の黒髪の一本一本から放出されている、このぴりぴりしたものはいったいなんだろう。
「もう来ちゃうよ。このまま答えないうちに来たら俺の勝ちね」
言って桐原は、わたしのうしろに立った。「俺はオレンジ」わたしは腹をくくってシルバーと答えた。電車の音が聴こえてきた。
家と家のすきまから見える、西国分寺駅へ向かう線路。夜の膜を切り裂くように、やってきたのはオレンジ色の電車だった。頭の上で桐原が笑うのが息でわかった。
部屋の空気が動く。桐原がメガネを外す気配があった。それを勉強机にそっと置くと、桐原は背後からわたしの両脇に手を差し入れてきた。軽々と抱き上げるようにしてベッドの縁に座らされる。視線が合う。かわいらしい目だった。こんな目だったかな、と思う。メガネをかけるようになってからまた、骨格が変わったのかもしれない。桐原は床にひざをつくと、わたしの太ももに頭を載せてきた。腰に腕が回される。甘える子どもみたいだった。へそには桐原の後頭部が、太ももには頬がくっついて熱かった。わたしは自分の手の置き場に困って、迷った末に彼の髪にふれた。硬い髪をぎこちなく撫でた。胸がどくどくして声にならない。腰に置かれていた大きな掌が、背中に上がっていったかと思うと、急に強い力で引き寄せられた。
「スキー教室の夜もこんなふうにしたかった」
「じゃあ桐原は、反省文になんて書いたの」
「はっ、いまそんなこと思い出せんわ。たぶん、本当のことは何も書いてない」
「なんで自分が誘ったなんてうそをついたの」
桐原がわたしを見上げた。
「なんでだか、本気でわからないの?」
桐原を見おろすのははじめてだと気づく。ここからの角度だと顔立ちがずいぶん幼く見える。笑うわたしの口元に、桐原が手を伸ばしてきた。
「もし俺がいやなことをしたら言って」
「言ったら」
「言われてもやめないかもしれないけど、最善は尽くす」
「本当にするの? コンドームっていうのを、使わないとだめなんだよね?」
わたしが言うと桐原は「武士が丸腰で戦うはずがないだろう」と笑って立ち上がり、引き出しの奥に手を突っ込んだ。箱が出てきた。その使い方は合ってるみたいと言った口を口でふさがれる。桐原の身体にこんなにやわらかい部分があったことに驚いた。唇を合わせながら、息つぎするように桐原はシャツをぬいで、肌着をぬいだ。それから、大きな白い身体が覆いかぶさってくる。耳に桐原の息がかかった。首にも、肩にも、スタンプを押すように。それはとても熱くて、心地いい。
いざ挿入という段になって、わたしの性器は桐原の小指すら受け入れられなくなった。
「さっきは中指も入ったのにな」
「入れてみて、痛くても大丈夫だから」決心してわたしは目を閉じる。
やっとぜんぶ収まったと思ったのに、桐原はわたしの足首をつかんで広げ、さらに奥までぐっと押し込んできた。挿入後に男が動くということを知らなかったので、それが奇妙に感じられた。桐原の汗が、広がった黒髪からポタポタと落ちてきて、目にしみた。
終わってしばらくすると、桐原はていねいな手つきでシーツをはがして、部屋を出て行った。洗濯機を操作する音が聴こえてくる。
放心していると、桐原がもどってきた。手にはバスタオルを持っている。桐原はトランクス一枚だった。青いきれいなトランクス。制服を着ていた彼とは別人で、大人の男の人みたいに見える。裸の男の人というのは、物悲しいなと思った。
桐原が敷いてくれたバスタオルに座ると、夢みたいにふわふわしていた。向かい合うように座ってから「ねえ」と桐原は言った。「なんでそんなに早く服を着ちゃうの」
「はずかしいから」
「もっと見たい」
「やだよ。ほかの女子よりおっぱいちいさいし」
桐原はまじめな顔で首をふって、短く褒めた。それはわたしにとって賛美のように響いた。
大きな手が服の中に入ってくる。ごつごつした掌に、すっぽりつつまれた。桐原はあぐらをかいて、じっとわたしを見ている。顔があまりに熱いので目を伏せると、トランクスからにょきにょきと伸びてくる性器が見えた。理科の授業で、植物の成長の早回しビデオを見たときのことがよみがえる。その動きは、わたしに身震いするような感動をもたらした。わたしは桐原に求められている。目の前の愛しい男は今、わたしに受け入れてもらうことだけを渇望している。ずっと探していたものはこれだったんだ。わたしはその植物に手を伸ばす。撫でてみる。つばを飲み込む音が立った。わたしのものか、桐原のものかわからない。顔を上げると、桐原のうつくしい喉仏がコリ、コリ、と動いた。
7
電話が鳴って、わたしは現実に引き戻される。いそいで手をぬぐって、通話ボタンを押す。「ちょっと疲れたから電話してみた」と夫は言った。「今日の晩メシ何?」
「ちらしずし、はまぐりのお吸い物、茶碗蒸し」
「おっいいね、ひな祭りっぽいね」
「あとはイカ大根。大学芋も作るよ」
「うわー、今すぐ帰りたい。仕事が多すぎるよ。もう明日の僕に頑張ってもらおうかなあ」
「ねえ、イカのなかに魚が入ってたのよ」
「えっ、なんの魚?」
「知らない。もうすてちゃった」
「なんですてたの」
「毒があったら怖いじゃない」
「魚もさばいてみたらよかったのに。もう一匹入ってたかもよ」
手がかゆい。心がかゆい。桐原の声がよみがえる。
うしなった人間に対して一ミリの後悔もないということが、ありうるだろうか。
大人になった桐原は、どんなふうに携帯電話に触れるのだろう。タバコは喫うだろうか。あれから背はさらに伸びただろうか。今、どんな服を着て、誰といっしょにいるのだろう。
中学を卒業して、桐原は有名私立高に進んだ。わたしは定時制の高校に入ったが、高一の夏にとつぜん遠くへ越すことになった。
あの夜、オレンジ色の電車が来るのを知っていたことは言わずじまいだった。
桐原と出会ってはじめて、自分は生まれてよかったのだと思えた。彼を好きになるのと同時に、すこしだけ自分を好きになれた。桐原がわたしを大事にしてくれたから。
あの日々があったから、その後どんなに人に言えないような絶望があっても、わたしは生きてこられたのだと思う。
桐原が今笑っているといいと思いながら、二杯目のイカに手を伸ばす。
軟骨を引っこ抜いて、体内を覗き込んだ。いくら覗いても、そこにはもう何もない。
(カット 沿志)
*イラストはウェブでの試し読み版限定で入っています。
著者プロフィール
一木けい
イチキ・ケイ
1979(昭和54)年、福岡県生れ。東京都立大学卒。2016(平成28)年「西国疾走少女」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。受賞作を含む連作短編集『1ミリの後悔もない、はずがない』は、デビュー作にして大きな話題となる。他の著書に『愛を知らない』『全部ゆるせたらいいのに』『9月9日9時9分』『悪と無垢』などがある。