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朝井まかて/著

1,870円(税込)

発売日:2016/03/22

  • 書籍

北斎の娘にして「江戸のレンブラント」天才女絵師・葛飾応為の知られざる生涯。

あたしはただ、絵を描いていたいだけ。愚かな夫への軽蔑、兄弟子への叶わぬ恋、北斎の名を利用し悪事を重ねる甥――人生にまつわる面倒も、ひとたび絵筆を握ればすべて消え去る。北斎に「美人画では敵わない」と言わせ、西洋の陰影表現を体得し、全身全霊を絵に投じた絵師の生涯を圧倒的リアリティで描き出す、朝井まかて堂々の代表作!

  • 受賞
    第22回 中山義秀文学賞
  • テレビ化
    特集ドラマ「眩(くらら)~北斎の娘~」(2017年9月放映)
目次
第一章 悪玉踊り
第二章 カナアリア
第三章 揚羽
第四章 花魁と禿図
第五章 手踊図
第六章 柚子
第七章 鷽
第八章 冨嶽三十六景
第九章 夜桜美人図
第十章 三曲合奏図
第十一章 富士越龍図
第十二章 吉原格子先之図

書誌情報

読み仮名 クララ
雑誌から生まれた本 小説新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判
頁数 352ページ
ISBN 978-4-10-339971-1
C-CODE 0093
ジャンル 歴史・時代小説、文学賞受賞作家
定価 1,870円

書評

もの作る者は闇を駆ける

葉室麟

 くらっときた。
 なぜか、と言えば、人生の疾走感があるからだ。
 女がひた走る。「冨嶽三十六景」で世間をうならせた絵師、葛飾北斎の娘、
 ――お栄
 である。父親が絵師なら、娘も絵筆をとる。物の道理なのかもしれない。絵師としての名は、
 葛飾応為
 これまでも応為を描いた作品はある。だが、女絵師と言えば、静かな佇まいで筆をとり、胸の裡に情念の焔がゆらめく、となりがちだ。しかし、本作のお栄は違う。まわりの勧めで南沢等明という絵師に嫁いだが、口うるさくされると、

 ――ああ……面倒臭ぇ

 と本音が口をつく。
(そうさ、あたしは北斎の娘さ。なのにその才を受け継がずにのたくっている)
 北斎になりたいのか。そうかもしれない。いや、違う。もっと違う北斎だ。つまりはわたしになりたいんだ。そのわたしに、まだ手が届かない。じれったい。
 だから、お栄は亭主に愛想尽かしをする。
「あたしはね、区々たる事に構ってる暇はないんだよ」
 ここまで、きっぱり、区々たる事と言われたら、男は成仏するしかないだろう。ちなみに実際の応為も、

 ――妾は筆一枝あらば衣食を得ること難からず何ぞ区々たる家計を事とせんや

 と喝破した。そんなお栄が、ちょいと惹かれるのが、善次郎こと絵師の渓斎英泉だ。元は武士で浮世絵を描くようになった男だ。無頼の趣があり、淫靡で退廃的な美人画では他の追随を許さない。お栄にしても美人画を描けば、北斎から認められた腕前だ。英泉も、お栄のことを、
 ――画ヲ善ス 父ニ従テ今専画師ヲナス 名手ナリ
 としている。だが、ふたりとも飽き足りないものがある。いつか越えてやる、と口にはしないが、見つめているのは、〈親父どの〉北斎の大きな背中なのか。
 お栄にとって口うるさい母親の小兎、北斎の晩年を悩ます孫の時太郎、絵師の一家は倒けつ転びつ、すり傷だらけになりながら、時代の坂を駆けていく。
 描かれるのは絵師に限らない、物を作り出す人間の生きる覚悟だ。不出来な作品を世に出せないという弟子たちに北斎は言う。

 ――たとえ三流の玄人でも、一流の素人に勝る。なぜだかわかるか。こうして恥をしのぶからだ。己が満足できねぇもんでも、歯ぁ食いしばって世間の目に晒す。

 それが玄人なのだ。『南総里見八犬伝』の著者、滝沢馬琴は、病に倒れた喧嘩相手の北斎を見舞って「無様よのう」と悪態をつく。自分なら死ぬまで書くぞ、と。

 ――たとえ右腕が動かずとも、いやこの目が見えぬ仕儀に至りても、儂は必ずや戯作を続ける。まだ何も書いてはおらぬのだ。己の思うままに書けたことなど、ただの一度もござらぬ。その方もさようではなかったのか。

 悪罵は才能を認めた相手が起たぬことへの憤りであり、奮起をうながす激励でもあった。お栄もおのれの道をひた走り、やがて「吉原格子先之図」を描いた。夜の吉原、灯りの光が格子戸を漏れて、往来の影と交差する。人生の闇は深く、それでもひとの営みのけなげさは美しい。お栄のたどりついた世界を垣間見れば、読者もまた、
 くらっ
 とするに違いない。
 作者の朝井まかてさんとは二度ほど、会食したことがある。本作を読みながら、まかてさんの地声を聞く気がした。お栄の懸命さ、歯切れのいい爽快さは、まかてさんのものだ。
 ところで、言い忘れたことがひとつだけある。
 傑作です。

(はむろ・りん 作家)
波 2016年4月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

謎の女絵師を追って

朝井まかて

――『くらら』は女絵師・葛飾応為の生涯を描いた長篇ですが、葛飾北斎に娘がいて、父の右腕として絵筆をふるっていたことを初めて知る読者も多いかもしれません。朝井さんが彼女を書こうと思ったのはなぜだったんでしょうか。
朝井 応為の「吉原格子先之図」の実物を美術館で見たことがきっかけでした。北斎に絵師の娘がいたことも、その作品も以前から知ってはいたんです。でも実際に目の当たりにしたら、他の浮世絵とはまったく違う表現方法、そして光と影の美しさに息を呑みました。まさに「出会ってしまった」んです。しかも、北斎に関しては非常に史料が多いのですが、応為の人生、画業は謎が多い。その点にも惹かれました。
 ただ、有名なエピソードは残っていて、応為は一度だけ嫁いでいるんですが夫も絵師で、彼の絵を「下手だ」と鼻で嗤って離縁になっている。それから一切、家事をしないとか、身なりに構わないとか。江戸時代の女性は“忍従”のイメージが強いですが、江戸では気随気儘が売りのような女子も多かったんですよ。それでも、応為の生きようは突出しています。彼女にすれば離縁もこれ幸いで、これで画業に没頭できるってなものだった。あの時代になぜそんな生き方ができたのか、彼女にとって「描く」とは何だったのか……それを、私は問いかけてみたかった。だから彼女が絵を描く場面は一部始終、きっちり書こうと最初から決めていたんです。
――応為が絵具を自作したり、効果的な構図を考える場面は大変リアルです。執筆前に相当準備なさったんですか?
朝井 興味が湧けば行き先も決めずに漕ぎ出してしまうたちなので、いざ書く段になって「えらいこと、始めちゃった」と泣いてます。いつもです(笑)。『眩』については、黒川博行さんの奥様が日本画家なので、執筆前に画材について教えていただいたり、研究者さんにもご教示を願いました。ただ、私の質問内容で「何もわかっていない」ことはすぐにお察しになったでしょうから、大丈夫か? って、危惧されていたと思います(笑)。
 そもそも研究者の間でも、応為の作品の制作年や、彼女が北斎のどの絵に関わっていたのかは特定されていません。そこで北斎と応為の人生、時代の出来事をひとつの年表にして、あとはもう自分なりの想像、推察で再構築していきました。
 応為が題材や構図、色遣いを思案する場面では、私自身、ウンウン唸って書いていましたね。でも楽しくもありました。
――北斎は「美人画では応為にかなわない」と言っていたそうですね。私たちが目にする北斎作品の女性は、実は彼女が描いていたのかもしれない。
朝井 充分あり得ますね。ただ、誤解してほしくないんですが、応為は自分の絵が北斎名義で世に出ることや、工房の一員として働くことを不満には思っていなかったはずです。むしろ職人として、日々の仕事をまっとうすることに誇りを持っていた人だと思う。傑作をものしようとか、父を越えたいとか、そういう野心すらなくて、ただひたすら己の画業と格闘したんでしょう。
 その無我夢中な数十年の末に、彼女の芸術家としてのオリジンが「吉原格子先之図」で発露した。その瞬間に立ち会えたことは、書き手としての大きな喜びでした。
――西洋画の技法を使い、光と影を写し取った。応為が「江戸のレンブラント」と称されるゆえんです。
朝井 研究者の方によると「吉原格子先之図」に使われた紙や絵具は安物なんだそうです。それ以前の作品は注文画ですから、良い画材を使っている。なぜあの絵だけ? と考えると、大地震が起きているんです。とすると応為は仕事ではなく、自分の欲求としてあの絵を描いたのではないかと推察しました。
 災いに遭っても逞しく商売を再開する吉原と、そこに束の間の夢を求める人々を描くうちに、気づけば人生の光と影までも写してしまったんじゃないか、と。
――それにしても北斎や国芳のように生前から有名だったわけではないのに、よく現代まで作品が残りましたよね。
朝井 純粋に、絵の持つ力ゆえでしょう。多くの傑作を残した北斎は持続性の大天才ですが、束の間にしろ自分の光を放った応為もやはり天才だったと思います。

(あさい・まかて 作家)
波 2016年4月号より
単行本刊行時掲載

どういう本?

タイトロジー(タイトルを読む)

「お前ぇ、まさか……筆が握りてぇのか」
 父親はだだでさえ大きな目を瞠って、娘を見下ろした。
 娘はこくりとうなずく。
 破れ障子から、午下がりの陽射しが降るように入ってきた。父親の顔も頭も光に紛れ、やがて何もかもが白く朧になる。
 娘はただ、己の掌の中に初めて置かれた筆が嬉しかった。
 眩々(くらくら)した。(本書9ページ)
○父親=葛飾北斎 娘=葛飾応為

著者プロフィール

朝井まかて

アサイ・マカテ

1959(昭和34)年大阪府生れ。甲南女子大学文学部卒。2008(平成20)年小説現代長編新人賞奨励賞を受賞して作家デビュー。2013年に発表した『恋歌』で本屋が選ぶ時代小説大賞、翌2014年に直木賞を受賞。続けて同年『阿蘭陀西鶴』で織田作之助賞を受賞した。2015年『すかたん』が大阪ほんま本大賞に選出。2016年『眩(くらら)』で中山義秀文学賞、2017年『福袋』で舟橋聖一文学賞、2018年『雲上雲下』で中央公論文芸賞、『悪玉伝』で司馬遼太郎賞、大阪文化賞(個人に贈呈)をそれぞれ受賞。2020(令和2)年『グッドバイ』で親鸞賞、2021年『類』で芸術選奨文部科学大臣賞、柴田錬三郎賞をそれぞれ受賞。その他の著書に、『輪舞曲(ロンド)』『白光』『ボタニカ』などがある。

判型違い(文庫)

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文学賞受賞作家
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