書き出し小説
1,210円(税込)
発売日:2014/12/18
- 書籍
- 電子書籍あり
画期的すぎる小説スタイル! あるのは冒頭の「書き出し」だけ!
「モンスターペアレントは森の人気者だ」「『ねんど』だ! 高校以来だから十年ぶりか。ものすごくいい女になってる。ああ、本名が思い出せない」――たった数行、冒頭だけの物語が面白い!! 続きは読み手のイマジネーション次第の、自由で新しい文学が登場。全国から集まった精鋭たちの作品から、『味写道』などで人気の鬼才・天久聖一氏が厳選。
目次
はじめに
自由部門
規定部門
おかわり
おわりに
自由部門
規定部門
おかわり
おわりに
書誌情報
読み仮名 | カキダシショウセツ |
---|---|
発行形態 | 書籍、電子書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 192ページ |
ISBN | 978-4-10-336931-8 |
C-CODE | 0095 |
ジャンル | エッセー・随筆 |
定価 | 1,210円 |
電子書籍 価格 | 968円 |
電子書籍 配信開始日 | 2015/06/19 |
書評
波 2015年1月号より [天久聖一『書き出し小説』刊行記念特集] なぜ「書き出しだけ」が面白いのか
医者は医師免許を取得すれば、プロだ。開業初日の新人でもベテランでも、医学についての知見を一応は等しく持っているだろうとみなされる。
小説家も同じようにみなされる。雑誌に小説が掲載されたり本が発売されたら、プロであって、それはつまり小説について定見があるのだろう、と。
全然違う。新人賞を受賞してデビューしても(周囲からの肩書きはその時点で「小説家」になるのだが)、当人には小説観がまるで備わっていない。小説の定見というのは、その人なりにだんだんと備えていくものだ。今もまだ分からない。
本書を読むと、定見をもてない小説というものの輪郭がつかの間、分かる気がする。小説の優れた書き出し「だけ」を募集し、厳選された秀作が収められていて、一編がせいぜい数行だ。
●ポールを駆け上がる国旗のスピードに、会場が少しざわついた。(哲ひと)
●「このガマ乗りにくいわね」女は不機嫌そうにそう言った。(夏猫)
●その動物のひげを引っ張ってみると、反対側のひげが短くなった。(おかめちゃん)
●席をつめたがカップルは座ろうとせず、私はただ横の老婆にすり寄っただけの人間になってしまった。(大伴)
といった作品が、一ページに一~数個。どれもさまざまなベクトルに面白く、変な鑑賞などせずに列挙するだけで書評の(本書に興味を持たせるための)用は足りると思うのだが、本書を読めば「考え」もまた深まることを特筆したい。小説に対する考えがだ。
たとえば、これまでの小説の書き出しに思う。やれ、メロスは激怒したとか、親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしているだとか、私の名前はイシュメールとでもしておこうだとか、いろいろいうが、ずいぶん乱暴に切り出されていたのだな。メロスなんて知らない。親譲りの親って誰だ。あげく本名も濁されて、勝手じゃないか。
小説を読むとき、小説の持つ乱暴さを乱暴と思わずに我々は従っている。膨大な本文(書き出しも本文だが)を乱暴に取り除いてみたらそれが滑稽であることが分かったし、小説の効用も分かった気がした。小説は世界を乱暴に取り扱うことが出来、そのくせ読者を傷つけない。
小説側にもだが、読み手にも作用があるらしい。読み手は小説を読む時に必ず「小説」を意識している。本書がただの「あるある」の面白さではないのは、どの短文にも「続き」をうっすら感じるからだが、なぜ感じてしまうんだろう。
僕は大学で教えているのだが、あるとき授業で「イントロクイズ」をやった。ディープ・パープルやAKB48のヒット曲など取り混ぜて、イントロだけを聴かせて当てさせる。ビートルズの、ほとんどギターコード一つが鳴っただけで、生徒達は挙手した。十問ほど続けてから今度は「アウトロクイズ」をやった。ベートーベンの『運命』といえば十人中十人が「ジャジャジャジャーン」という。それはイントロだ。『運命』の終わり方を答えられる人はいない。アウトロクイズはやはり正解率がガタ落ちした。
表現の始まりには欲がある。終わりにはない。小説の書き出しには、語りたいし語られたいという(読み手と書き手)双方の欲が宿っている。だから単体で覚えるし、先を勝手に予感して味わえる。
予感だけで本体のない書き出し小説は、ある意味で現存の小説の書き出しよりも優れているといえるが、本体を書かなければすべて優れた書き出しになるわけでは、もちろんない。
編者の優れた選択眼で、それはなされた。ただの「大喜利」的な企画本ではない、小説らしさのこと、小説のことを熟慮して本書は編纂されている。編者の近作『ノベライズ・テレビジョン』と並び、小説に対する高い批評性を持った一冊だ。
余談だが本書には拙作も一つ、採用されている(凡コバ夫名義)。投稿が掲載されたと知って、道端で(本当に)快哉の叫びをあげた。立派な文学賞を受賞したときに等しい喜びであった。
[→][天久聖一『書き出し小説』刊行記念特集]天久聖一/「語られなかった物語」たちの産声
小説家も同じようにみなされる。雑誌に小説が掲載されたり本が発売されたら、プロであって、それはつまり小説について定見があるのだろう、と。
全然違う。新人賞を受賞してデビューしても(周囲からの肩書きはその時点で「小説家」になるのだが)、当人には小説観がまるで備わっていない。小説の定見というのは、その人なりにだんだんと備えていくものだ。今もまだ分からない。
本書を読むと、定見をもてない小説というものの輪郭がつかの間、分かる気がする。小説の優れた書き出し「だけ」を募集し、厳選された秀作が収められていて、一編がせいぜい数行だ。
●ポールを駆け上がる国旗のスピードに、会場が少しざわついた。(哲ひと)
●「このガマ乗りにくいわね」女は不機嫌そうにそう言った。(夏猫)
●その動物のひげを引っ張ってみると、反対側のひげが短くなった。(おかめちゃん)
●席をつめたがカップルは座ろうとせず、私はただ横の老婆にすり寄っただけの人間になってしまった。(大伴)
※カッコ内は作者名
といった作品が、一ページに一~数個。どれもさまざまなベクトルに面白く、変な鑑賞などせずに列挙するだけで書評の(本書に興味を持たせるための)用は足りると思うのだが、本書を読めば「考え」もまた深まることを特筆したい。小説に対する考えがだ。
たとえば、これまでの小説の書き出しに思う。やれ、メロスは激怒したとか、親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしているだとか、私の名前はイシュメールとでもしておこうだとか、いろいろいうが、ずいぶん乱暴に切り出されていたのだな。メロスなんて知らない。親譲りの親って誰だ。あげく本名も濁されて、勝手じゃないか。
小説を読むとき、小説の持つ乱暴さを乱暴と思わずに我々は従っている。膨大な本文(書き出しも本文だが)を乱暴に取り除いてみたらそれが滑稽であることが分かったし、小説の効用も分かった気がした。小説は世界を乱暴に取り扱うことが出来、そのくせ読者を傷つけない。
小説側にもだが、読み手にも作用があるらしい。読み手は小説を読む時に必ず「小説」を意識している。本書がただの「あるある」の面白さではないのは、どの短文にも「続き」をうっすら感じるからだが、なぜ感じてしまうんだろう。
僕は大学で教えているのだが、あるとき授業で「イントロクイズ」をやった。ディープ・パープルやAKB48のヒット曲など取り混ぜて、イントロだけを聴かせて当てさせる。ビートルズの、ほとんどギターコード一つが鳴っただけで、生徒達は挙手した。十問ほど続けてから今度は「アウトロクイズ」をやった。ベートーベンの『運命』といえば十人中十人が「ジャジャジャジャーン」という。それはイントロだ。『運命』の終わり方を答えられる人はいない。アウトロクイズはやはり正解率がガタ落ちした。
表現の始まりには欲がある。終わりにはない。小説の書き出しには、語りたいし語られたいという(読み手と書き手)双方の欲が宿っている。だから単体で覚えるし、先を勝手に予感して味わえる。
予感だけで本体のない書き出し小説は、ある意味で現存の小説の書き出しよりも優れているといえるが、本体を書かなければすべて優れた書き出しになるわけでは、もちろんない。
編者の優れた選択眼で、それはなされた。ただの「大喜利」的な企画本ではない、小説らしさのこと、小説のことを熟慮して本書は編纂されている。編者の近作『ノベライズ・テレビジョン』と並び、小説に対する高い批評性を持った一冊だ。
余談だが本書には拙作も一つ、採用されている(凡コバ夫名義)。投稿が掲載されたと知って、道端で(本当に)快哉の叫びをあげた。立派な文学賞を受賞したときに等しい喜びであった。
(ながしま・ゆう 作家)
[→][天久聖一『書き出し小説』刊行記念特集]天久聖一/「語られなかった物語」たちの産声
波 2015年1月号より [天久聖一『書き出し小説』刊行記念特集] 「語られなかった物語」たちの産声
朝顔は咲かなかったし、君は来なかった。
上の一文は、このたび僕が編者として上梓する『書き出し小説』の中の一作品だ。書き出し小説とは文字通りオリジナル小説の書き出しだけを募集したもので、本書にはこうした極めて短い書き出し作品がこれでもか! と言うほど収録されている。
発端はネットの投稿企画で、最初のうちはパロディだった。書き出しだけならプロにも勝てる。サッカーで例えるなら90分は戦えないけどPK戦なら素人でも勝てると、毎回無責任な書き出し作品を募集していた。ところがおよそ二年間の連載の中で、なんとPK戦自体がひとつのジャンルとして発展してしまったのだ。次の作品を見て欲しい。
メールではじまった恋は最高裁で幕をとじた。
この作品を書き出しとして認めるには無理がある。なぜならこの一文には物語の始まりから結末までがすべて含まれているからだ。書き出しというより超短編小説だろうか。それでも文句なく面白い、と思う。ではこの作品はどうだろう?
冗談で出したヤリイカがクリーニングされて戻って来た。
いわゆる「ネタ」である。最初から笑わせに掛かっている。しかし単なるギャグも小説的な文体を借りるだけで、奥行きのある世界観を得ることができる。今回収めた作品の中でいちばん多いのがこうしたネタ系の作品である。書き出し小説という「掴み」が命の表現ジャンルでは、やはり笑いが最優先される。かと思えばこんな作品もある。
どの麺も濡れているが、小麦の時は乾いていた。
突然この一文を突きつけられたとき、人はいったいどんなリアクションを取ればいいのか? 単なる事実が事実を越えて透明な真理にまで達している。人の心を動かすことが小説の目的なら、この作品から受ける「無感動」をいったいどう評価すればいいのか? パラドキシカルな文学論にまで発展しそうな問題作である。
紹介したい作品はまだまだある。他にもキレイなのや可愛いの、ちゃんと文学的なのから心底くだらないのまで、必ずやみなさんの琴線に触れる作品があるはずだ。是非とも手にとってご覧いただきたい。
そういうわけで今回ようやく単行本として陽の目を見た書き出し小説だが、実のところその定義は発案した本人にすら分かっていない。いや、たしかに最初は読者の想像をかき立てる書き出し文をというシンプルなお題目を掲げていた。しかし連載を続けるうちにその定義は輪郭から溶け出していまも拡散中である。形だけを取ってもいわゆる書き出し風なものから、それだけで完結した超短編、現代短歌風のもの、自由律の俳句のようなもの、商品不在のコピーのようなものから、単なる寝言のようなものまでさまざまな文体、スタイルがある。そしてそれらのすべては「書き出し作家」たちの創意の賜である。僕はこれまでさまざまな投稿企画を立ち上げてきたけれど、この書き出し小説ほど投稿者が熱く、また自分でも選んでいて楽しいものはない。何度か彼らに直接話を聞く機会があったが、みんな口を揃えて言うのはとにかく考えるのが楽しい。そしてそれを知らない人と共有できるのがうれしいと言うことだった。なんというシンプルで力強い理由だろう。そういう思いを定義づけの枠に入れようとした自分が恥ずかしい。
考えてみればいまの世の中、物語のほとんどは他人から与えられるか、上から押しつけられるものでしかない。だけど物語は本来、すべての人によって語られるものではないだろうか。冒頭だけの書き出し小説はこれまで「語られなかった物語」たちの産声だ。どんな成長を続けるか、見届けていきたい。
[→][天久聖一『書き出し小説』刊行記念特集]長嶋 有/なぜ「書き出しだけ」が面白いのか
上の一文は、このたび僕が編者として上梓する『書き出し小説』の中の一作品だ。書き出し小説とは文字通りオリジナル小説の書き出しだけを募集したもので、本書にはこうした極めて短い書き出し作品がこれでもか! と言うほど収録されている。
発端はネットの投稿企画で、最初のうちはパロディだった。書き出しだけならプロにも勝てる。サッカーで例えるなら90分は戦えないけどPK戦なら素人でも勝てると、毎回無責任な書き出し作品を募集していた。ところがおよそ二年間の連載の中で、なんとPK戦自体がひとつのジャンルとして発展してしまったのだ。次の作品を見て欲しい。
メールではじまった恋は最高裁で幕をとじた。
この作品を書き出しとして認めるには無理がある。なぜならこの一文には物語の始まりから結末までがすべて含まれているからだ。書き出しというより超短編小説だろうか。それでも文句なく面白い、と思う。ではこの作品はどうだろう?
冗談で出したヤリイカがクリーニングされて戻って来た。
いわゆる「ネタ」である。最初から笑わせに掛かっている。しかし単なるギャグも小説的な文体を借りるだけで、奥行きのある世界観を得ることができる。今回収めた作品の中でいちばん多いのがこうしたネタ系の作品である。書き出し小説という「掴み」が命の表現ジャンルでは、やはり笑いが最優先される。かと思えばこんな作品もある。
どの麺も濡れているが、小麦の時は乾いていた。
突然この一文を突きつけられたとき、人はいったいどんなリアクションを取ればいいのか? 単なる事実が事実を越えて透明な真理にまで達している。人の心を動かすことが小説の目的なら、この作品から受ける「無感動」をいったいどう評価すればいいのか? パラドキシカルな文学論にまで発展しそうな問題作である。
紹介したい作品はまだまだある。他にもキレイなのや可愛いの、ちゃんと文学的なのから心底くだらないのまで、必ずやみなさんの琴線に触れる作品があるはずだ。是非とも手にとってご覧いただきたい。
そういうわけで今回ようやく単行本として陽の目を見た書き出し小説だが、実のところその定義は発案した本人にすら分かっていない。いや、たしかに最初は読者の想像をかき立てる書き出し文をというシンプルなお題目を掲げていた。しかし連載を続けるうちにその定義は輪郭から溶け出していまも拡散中である。形だけを取ってもいわゆる書き出し風なものから、それだけで完結した超短編、現代短歌風のもの、自由律の俳句のようなもの、商品不在のコピーのようなものから、単なる寝言のようなものまでさまざまな文体、スタイルがある。そしてそれらのすべては「書き出し作家」たちの創意の賜である。僕はこれまでさまざまな投稿企画を立ち上げてきたけれど、この書き出し小説ほど投稿者が熱く、また自分でも選んでいて楽しいものはない。何度か彼らに直接話を聞く機会があったが、みんな口を揃えて言うのはとにかく考えるのが楽しい。そしてそれを知らない人と共有できるのがうれしいと言うことだった。なんというシンプルで力強い理由だろう。そういう思いを定義づけの枠に入れようとした自分が恥ずかしい。
考えてみればいまの世の中、物語のほとんどは他人から与えられるか、上から押しつけられるものでしかない。だけど物語は本来、すべての人によって語られるものではないだろうか。冒頭だけの書き出し小説はこれまで「語られなかった物語」たちの産声だ。どんな成長を続けるか、見届けていきたい。
(あまひさ・まさかず 作家・漫画家)
[→][天久聖一『書き出し小説』刊行記念特集]長嶋 有/なぜ「書き出しだけ」が面白いのか
イベント/書店情報
著者プロフィール
天久聖一
アマヒサ・マサカズ
1968年、香川県生まれ。1989年、漫画家としてデビュー。以来、主にマンガ以外の分野で活躍中。主な著書に『味写入門』(アスペクト)、『バカドリル』シリーズ(ポプラ社)、『こどもの発想。』(アスペクト)、『味写道』(アスペクト)、『書き出し小説』(新潮社)などがある。
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