文体の科学
2,090円(税込)
発売日:2014/11/27
- 書籍
- 電子書籍あり
文章は「見た目」が大事。文体を手がかりに、ことばと人の関係を解き明かす。
文体は人なり――言葉のスタイルこそ思考のスタイルだ。文の長短や読む速度や媒体が、最適な文体を自ら選びとってゆく。古代ギリシャの哲学対話から、聖書、法律、科学の記述、数式、広告、コンピュータのプログラム、批評、文学、ツイッターまで。理と知と情が綾なす言葉と人との関係を徹底解読。電子時代の文章読本。
目次
文体科学ことはじめ 序にかえて
第一章 文体とは「配置」である
第二章 文体の条件――時間と空間に縛られて
第三章 文体の条件――記憶という内なる限界
第四章 対話――反対があるからこそ探究は進む
第五章 法律――天網恢々疎にして漏らさず
第六章 科学――知を交通させるために
第七章 科学――世界を描きとるために
第八章 辞書――ことばによる世界の模型
第九章 批評――知を結び合わせて意味を生む
第一〇章 小説――意識に映じる森羅万象
終章 物質と精神のインターフェイス
第二章 文体の条件――時間と空間に縛られて
第三章 文体の条件――記憶という内なる限界
第四章 対話――反対があるからこそ探究は進む
第五章 法律――天網恢々疎にして漏らさず
第六章 科学――知を交通させるために
第七章 科学――世界を描きとるために
第八章 辞書――ことばによる世界の模型
第九章 批評――知を結び合わせて意味を生む
第一〇章 小説――意識に映じる森羅万象
終章 物質と精神のインターフェイス
あとがき
参考文献・映像
参考文献・映像
書誌情報
読み仮名 | ブンタイノカガク |
---|---|
雑誌から生まれた本 | 考える人から生まれた本 |
発行形態 | 書籍、電子書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 296ページ |
ISBN | 978-4-10-336771-0 |
C-CODE | 0095 |
定価 | 2,090円 |
電子書籍 価格 | 1,672円 |
電子書籍 配信開始日 | 2015/05/08 |
書評
波 2014年12月号より 身体が変容する読書体験
「文体」というものを、どうも甘く見ていたようだ。よほどのマニアでもない限り文体なんてものに興味を抱くことはない。文体なんて云々しているヒマがあったら一冊でも多くの小説を読んだ方がいい。そう思っている読者に一喝を与え、目から鱗をぼろぼろ落とすのが本書である。
かっこいい文章を書かんがために本書を読む人はちょっとがっかりするかも知れない。しかし、本を読む人、それも「練達な読書人というには自分はちょっとなぁ」と思っている人が読むとこの上なく楽しいし、なんと役にも立つ。文体の本なのにプラクティカルなのだ。ちょっとびっくりだ。
いや、いや。プラクティカルどころか本書を読んだあとでは世界の見方や、あるいは生き方までも変わってしまう人もいるだろう。これ、大げさではなくて本当なんです。
「私たちは命を削って文章を読み書きしている」と著者は書く。有限な、そして貴重な人生の時間の一部を削って、私たちは文章を書き、そして読んでいるのだ。おお、確かにそうだ。こう聞いただけで「いま読んでいる」という、この行為がなんとも神々しく、愛しい行為に思えてくる。文字を読むという行為は人間の身体機能の限界と密接に関わるという、本書の文体論はきわめて身体的だ。
さらに読書とは、書物を脳裏に刻み込むこと、すなわち自分の脳や身体を物質的に変化させることだといわれれば、本書を読みながら刻一刻と変容していく自分の身体を感じつつ、「すごい、すごい」と走り回りたくなる。
と、これだけでも、本書がいわゆる「文体の本」ではないということがわかるだろう。著者も書くように、ふつう文体といえば「言文一致体」とか「作家の文体」になりがちだが、しかしそれでは二つ足りないという。
ひとつは「物質」の側面。文体とは文の「体」である。それならば体そのものにアプローチすべきではないかという。具体的には装置(紙か電子かそれ以外か)、大きさ、デザイン、紙、文字の配列、書体や大きさなどなど。
なるほど、確かにそうだ。同じ文章でも紙で読むのとPCで読むのとKindleで読むのとでは味わいが全く違う。器によって食事の味が違うのは当たり前なのに、文体を語るときにそのことにあまり注意を払わないのは確かに変だ。
また、今までの文体論は、いわゆる文系の文章に偏りすぎていたという。そこで本書では多種多様の文章を扱う。扱うどころか、「対話」「法律」「科学(二章を割く)」「辞書」「批評」「小説」、さらにはコンピュータ言語とおよそふつうの文体論の本では扱わない文章が大半を占める。
これらの分析がこれまた目から鱗の連続なのだが、自分が苦手な分野の文章の章が特に面白い。上記の文章は小説以外はあまり読まないが、就中「法律」と「批評」は苦手だ。
あの、なんとも無機質で、しかも長文の、一般人に読まれることを拒否しているかのような法律の文。それを快刀乱麻を断つごとくにバッサバッサと解体し、法律の基本形を示し、なぜ読みにくいのかを分析し、さらにそれを読むコツを教えてくれる。それだけではない。なぜ長文なのか、なぜ指示詞や指示代名詞が少ないか、なぜあんな冷たい感じがするのかを、たとえば「句点が生み出す深淵を嫌っている」とか、「抽象と具象のあいだで文章を整えて」とか、「非人称の(語り手が姿を隠す)独話体」とか「(法令)全体が一挙に存在し……同時に稼動している」とか、きわめて詩的に説いてくれるので、「法律」の章を読み終わったあとでは、あの無味乾燥で長ったらしい法律文が好きになっているのだ。
また、重箱の隅をつついて人の揚げ足を取るような「批評」も嫌いである。しかも、批評家はだいたいが上から目線である。まるで審判者のごとくに批評をする。本書では「批評」の文として『新約聖書』のヨハネ伝の冒頭の三文に対するルターとエックハルトの読みを紹介し、批評とは、批評家の「読み方」を示すことだという。それは「知的に裸になってみせるようなものであ」り、「書き手にとってなかなかおっかない営みなのではないか」という。書かれた批評のことばに、書き手の姿や知のあり方が、否応なく現れてしまうからである。「そうだ、そうだ」と手を打った。
しかし、それでも読み方を示す「批評」を書くのはなぜか。『聖書』を読みに読み、大学で解釈を論じ、民衆のために翻訳したルターの批評を紹介し、ルターは『聖書』をいかに読むかということを通じて、キリスト教の改革を進めていったと著者は書く。読むことは世界を改革することなのである。ならばルターだけでなく私たちも、「いかに読むか」を通じて社会を変えることができるかも知れない。そんなことを考えさせられた。批評文が大好きになったのはいうまでもない。
そうそう。本書の問題点を最後にひとつ指摘しておこう。そんなわけでいろいろな分野の本が好きになるのだが、本書の最後にはこれまたご丁寧に参考文献や映像までもが掲載されている。買ってしまうのである。お金は減り、部屋は狭くなる。でも、それが身に刻み込まれ、それによって身体が変容したと思えば、まあ許せる。
かっこいい文章を書かんがために本書を読む人はちょっとがっかりするかも知れない。しかし、本を読む人、それも「練達な読書人というには自分はちょっとなぁ」と思っている人が読むとこの上なく楽しいし、なんと役にも立つ。文体の本なのにプラクティカルなのだ。ちょっとびっくりだ。
いや、いや。プラクティカルどころか本書を読んだあとでは世界の見方や、あるいは生き方までも変わってしまう人もいるだろう。これ、大げさではなくて本当なんです。
「私たちは命を削って文章を読み書きしている」と著者は書く。有限な、そして貴重な人生の時間の一部を削って、私たちは文章を書き、そして読んでいるのだ。おお、確かにそうだ。こう聞いただけで「いま読んでいる」という、この行為がなんとも神々しく、愛しい行為に思えてくる。文字を読むという行為は人間の身体機能の限界と密接に関わるという、本書の文体論はきわめて身体的だ。
さらに読書とは、書物を脳裏に刻み込むこと、すなわち自分の脳や身体を物質的に変化させることだといわれれば、本書を読みながら刻一刻と変容していく自分の身体を感じつつ、「すごい、すごい」と走り回りたくなる。
と、これだけでも、本書がいわゆる「文体の本」ではないということがわかるだろう。著者も書くように、ふつう文体といえば「言文一致体」とか「作家の文体」になりがちだが、しかしそれでは二つ足りないという。
ひとつは「物質」の側面。文体とは文の「体」である。それならば体そのものにアプローチすべきではないかという。具体的には装置(紙か電子かそれ以外か)、大きさ、デザイン、紙、文字の配列、書体や大きさなどなど。
なるほど、確かにそうだ。同じ文章でも紙で読むのとPCで読むのとKindleで読むのとでは味わいが全く違う。器によって食事の味が違うのは当たり前なのに、文体を語るときにそのことにあまり注意を払わないのは確かに変だ。
また、今までの文体論は、いわゆる文系の文章に偏りすぎていたという。そこで本書では多種多様の文章を扱う。扱うどころか、「対話」「法律」「科学(二章を割く)」「辞書」「批評」「小説」、さらにはコンピュータ言語とおよそふつうの文体論の本では扱わない文章が大半を占める。
これらの分析がこれまた目から鱗の連続なのだが、自分が苦手な分野の文章の章が特に面白い。上記の文章は小説以外はあまり読まないが、就中「法律」と「批評」は苦手だ。
あの、なんとも無機質で、しかも長文の、一般人に読まれることを拒否しているかのような法律の文。それを快刀乱麻を断つごとくにバッサバッサと解体し、法律の基本形を示し、なぜ読みにくいのかを分析し、さらにそれを読むコツを教えてくれる。それだけではない。なぜ長文なのか、なぜ指示詞や指示代名詞が少ないか、なぜあんな冷たい感じがするのかを、たとえば「句点が生み出す深淵を嫌っている」とか、「抽象と具象のあいだで文章を整えて」とか、「非人称の(語り手が姿を隠す)独話体」とか「(法令)全体が一挙に存在し……同時に稼動している」とか、きわめて詩的に説いてくれるので、「法律」の章を読み終わったあとでは、あの無味乾燥で長ったらしい法律文が好きになっているのだ。
また、重箱の隅をつついて人の揚げ足を取るような「批評」も嫌いである。しかも、批評家はだいたいが上から目線である。まるで審判者のごとくに批評をする。本書では「批評」の文として『新約聖書』のヨハネ伝の冒頭の三文に対するルターとエックハルトの読みを紹介し、批評とは、批評家の「読み方」を示すことだという。それは「知的に裸になってみせるようなものであ」り、「書き手にとってなかなかおっかない営みなのではないか」という。書かれた批評のことばに、書き手の姿や知のあり方が、否応なく現れてしまうからである。「そうだ、そうだ」と手を打った。
しかし、それでも読み方を示す「批評」を書くのはなぜか。『聖書』を読みに読み、大学で解釈を論じ、民衆のために翻訳したルターの批評を紹介し、ルターは『聖書』をいかに読むかということを通じて、キリスト教の改革を進めていったと著者は書く。読むことは世界を改革することなのである。ならばルターだけでなく私たちも、「いかに読むか」を通じて社会を変えることができるかも知れない。そんなことを考えさせられた。批評文が大好きになったのはいうまでもない。
そうそう。本書の問題点を最後にひとつ指摘しておこう。そんなわけでいろいろな分野の本が好きになるのだが、本書の最後にはこれまたご丁寧に参考文献や映像までもが掲載されている。買ってしまうのである。お金は減り、部屋は狭くなる。でも、それが身に刻み込まれ、それによって身体が変容したと思えば、まあ許せる。
(やすだ・のぼる 能楽師)
著者プロフィール
山本貴光
ヤマモト・タカミツ
1971年生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業。文筆家、ゲーム作家。「哲学の劇場」主宰。著書に『文体の科学』『「百学連環」を読む』『文学問題(F+f)+』、共著に『脳がわかれば心がわかるか』(吉川浩満と)『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎と)、訳書にサレン、ジマーマン『ルールズ・オブ・プレイ』、メアリー・セットガスト『先史学者プラトン』(吉川浩満と共訳)など。
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